鶏まみれ 繁延あづさ

2023.7.30

08こんなに汚れたことなかった

 

 

※一部、刺激の強い写真を含みます。あらかじめご了承ください

 

 突然ニワトリが途切れた。果てしなく並んでいたニワトリの顔が無くなり、鳴き声やバタつく音も消え、目の前には風変わりな金具と金属音だけがリズムを刻むように流れてる。ぼんやり眺めながら、これに引っかけられていたのだなと思う。来し方に目をやると、壁に穴があり外に通じていた。少し明るい。夜が明けはじめてる。

「5分の休憩ね」

 岩崎さんがタオルで顔を拭きながら言った。はじめて声を聞いた。60代、いやもっと上か? 穏やかなおじさんの声。よく見ると、全身の汚れ方がハンパない。
 5分? あたりを見回すと、背を向けていた壁に時計があった。ビニールがかけられ、やはりひどく汚れていた。ここでは何もかもが汚れてしまう。壁も、床も、機械も、バケツも、中の水も。汚れが付着していないところ皆無。
 汚れが血だけじゃないことは、首を斬っているときから気づいていた。駐車場で嗅いだ、あの強烈な匂いが漂っている。羽に糞やら汚れやらが付いているのだろう。なぜかニワトリは濡れていて、羽をバタつかせるたびに、血や糞やらが混じりあった汚いものが飛び散って付着する。赤くなったメガネを拭きたいが、何で拭けばいいかわからない。手は血だらけ、私の表面は余すところなく汚れて、何で拭いても新たな汚れで塗り替えるだけのような気がした。

「いつも一人でやってるんですか?」
「そうね」
「私は全然手が追いつきません」
「まあ〜、慣れよ」

 そう言って岩崎さんは笑う。柔和な笑顔に人柄が感じられる。確かに“慣れ” なのだろう。ただ、その言葉が重いのか軽いのかよくわからず、私は次の言葉が出ない。

 キョンキョン、グワッコ。

 

 

 そうこうしているうち、またニワトリが流れてきた。一度我に返ったせいか、よけいに胸の奥がズンと重くなる。フウッと息を吐き出し、観念するような気持ちでまた左手で頭をつかむ。考えるより、手を動かしつづけるほかない。羽をバタつかせる子、うな垂れている子、顔をあげ目も開いている子、どの子も頭も迷わずつかむ。そうしないとたちまち追いつかなくなるから。

 

 

 ブツブツッと刃が羽を切る感覚が手に伝わり、そこからもうちょっと先まで押し切る感覚。なんとなくわかってきた。私じゃなく、手が。ペースも2羽中1羽は斬れるようになってきた。やれる。それにしても、しっかり首を斬ったのに、さっきと同じ顔と体勢で流れていくニワトリが結構いる。気になるが、目はそのニワトリを追えない。次の頭をつかむため目線はすぐ左へ。正面しか向けない私の目の前には、自分の手でニワトリの首を斬るシーンだけがある。繰り返し再生のように。

「血を流して」

 一瞬、岩崎さんの言っていることがよくわからなかった。が、気づくと、足もとの容器には血がたぷたぷと満ちていた。溜まった血を溝に流し込むのだと岩崎さんに教わる。まさに血の池。溝は血の川のよう。こんなにたくさんの血を見たのは生まれてはじめて。地獄絵図のよう。でもここは地獄じゃない。現世。

 

 

 どれだけ経ったか、どれほど首を斬ったか。だんだん刃が切れなくなってきた。そうなるとよけいに力が必要になってきて、腕をあげるのもつらくなってきた。あと一回、あと一回と手を動かしていると、またニワトリが途切れた。今度は15分の休憩だという。
 呆然と突っ立ってると、野村さんが様子を見にきてくれた。陸の孤島にいるような心境だったから、思わず駆け寄ってしまう。縋るように、「すみません。疲れて続けられません」と言ってしまった。弱音を吐くしかなかった。野村さんは苦笑いしながら、「じゃあ、あっちお願いしようかな」と手招きしながら歩きはじめた。私は振り返り、岩崎さんに慌てて頭を下げて、また野村さんの背中を追いかけた。
 さっきの細い通路を戻るように通って、ハッとする。すぐ横はニワトリをぶら下げて通過させる場所だったことに気づく。ここは放血する工程だ。ここを通りながら命が消滅していくのだろう。

 

 

 また湯気の沸き立つところを抜けていくと、朝居合わせたおばあちゃんたちのいるところへ出た。あ、空気が変わった。息がしやすい。  ちょっとうれしくなって、思い切り息を吸い込みながら歩いた。向こうにある窓の外がもう明るい。急に、家族のことが頭に浮かんだ。土曜だから登校の心配はないが、娘はもう起きただろうか。次男は部活に行っただろうか。
 窓の手前を、吊り下げられた首の無いニワトリが流れている。整然と並んで、さっきまで目にしていた生き物らしさが消えていた。もうニワトリではないみたい。なんか、ちょっときれい。

 

  
 ちょうどおばあちゃんたちも休憩に入るタイミングだったようで、朝の二人が近づいてきた。

「あ〜、もうこんなに汚れて」
「こんなに血だらけで、かわいそうに」

 おばあちゃんが顔をしかめて私の全身を眺めている。一人がホースを持ってきて、エプロンの上を擦りながら洗い流してくれる。直接ホースで水をかけられる大胆な洗い方に一瞬たじろぐも、凝固した血が流されていく様子にホッとする気持ちに。なんだろ、ふわっとする。鼻の奥がツーンと、涙が出そうに。

「ううん、かわいそうじゃなくて、私が希望してあそこに行ったんです」

 少し汚れが落ちた、ただそれだけで随分と気持ちが落ち着く。メガネも洗えた。さっきまで、あまりの汚れに途方に暮れていたところがあった。これまで生きてて、こんなに汚れにまみれたことはなかったと思う。圧倒的な汚れにどうしていいかわからず、正直怖かった。    

 機械で砂肝の内膜をむくことを教わる。手袋が機械に引き込まれないよう、素手で作業するのだという。野村さんが「あ、シゲノブさん素手は大丈夫?」と聞いてくれた。毎回確認してくれるの親切だな。「はい、大丈夫です」と答えてやってみるが、ここでも全然スピードに追いつかない。あっという間に砂肝は山積みになってゆく。おそらく一番やりやすそうな仕事をあたえてくれたはずだが、この有り様だ。ただ、さっきより気持ちは落ち着いていた。流れてくるものより、溜まったもののほうがまだいい。素手でヌルヌルするけど、平気だった。安全な場所にいる気がした。
 急いで手を動かしながら思う。一羽にひとつしかない砂肝が、こんなに。寄り集まった命の数に見えてきた。  

 

 

 初日は早めに帰ることになった。おばあちゃんたちが石けん水の場所や、バケツを使えばいいなど教えてくれた。石けん水はポリタンクに入っていて、水で薄めすぎたようにシャバシャバだったけれど、今の私には何よりもありがたいものだった。100%ビニール製の白いエプロンは、石けん水で擦ると白さを取り戻した。厚手のレインコートも脱いで、ジャブジャブ洗った。縫い目に入り込んだ血は取れなさそうだが、概ね白くなった。私のエプロンを掛ける場所は、なぜか数少ない男性たちと同じボイラー室の端で、それはあの湯気のブクブクしている先。エプロンも厚手のレインコートも脱いだあとだけに、自分を汚さないようソロリソロリと歩いて壁のフックに掛けた。こんな室内で、ちゃんと乾くのだろうか。
 更衣室に戻る途中、ふと鏡を見て、そこに映る自分に驚いた。白い帽子にもマスクも、血がたくさん飛び散っていた。慌てて帽子とマスクを剝ぎ取ると、唯一むき出しだった目のまわりが際立った。まぶたに血がべっとり、固まって付いてる。こんな自分の顔はじめて見た。ヘンな顔だ。耐えられず、水道に走り顔をバシャバシャ洗う。小さくなった石けんを引き寄せ、泡立つよりも先に擦って洗った。もう一度洗った。手もよく洗った。何度も匂いを嗅ぎながら。

 ここで3年、働けるのか、私。    

 

 

(第8回・了)