サボる偉人 栗下直也

2024.6.30

10エジソン マネして楽する発明王

 

「噓をつくのはやめなさい」と誰もが幼少期に言われたはずだ。大人になった今となっては「噓も方便」のような気もするが、確かに方便だろうが噓はつかないにこしたことはないし、正直者は救われるのは間違いない。
 とはいえ、子どもは「噓をつくな」「正直であれ」とひたすら説かれたところで、聞かない。「失敗して怒られるくらいならば……」と誤魔化してしまう。「正直は素晴らしい」と信じるだけの根拠が必要だ。そこで、正直者は救われるエピソードとしてしばしば用いられるのが米国初代大統領ジョージ・ワシントンの桜の木の話だ。ワシントンが6歳のころ、父親が大事にしていた木を切ってしまったというあれだ。
 父親に 「庭にある桜の木を切ったのは誰か」と詰問されたワシントンはたじろぎもせず 「お父さん、僕は噓をつけません。 僕が噓をつけないことはお父さんもよく分かっていますよね。 私の斧で桜の木を切りました」と答える。少しは申し訳なさそうにしろよと突っ込みたくなるが、 父親はワシントンの姿に感動し、「わが息子の英雄的行為は、銀を咲かせ純金を実らせるような何千本の木にも優るものだ」と褒めた。親バカか。
 今では「作り話」として広く認知されているが、ワシントンが庭の桜の木を切ったのは事実ではある。1785年8月18日の日記に 「中庭にある2本の桜の木を切った」 と記されているのだ。「えっ、桜の木伝説は全くの噓ではなかったの」と驚かれるかもしれないが、注意が必要だ。ワシントンは1732年生まれである。1785年には53歳になっている。53歳のおじさんが桜を切り倒しても何の教訓も生まれない。ちなみに、ワシントンの幼少期に米国に桜の木はなかった。

 偉人の話は空想の美談が盛り込まれたり、マイナスのエピソードが隠されたりする。偉人は完全無欠でなければ、子どもの模範にならないという配慮かもしれないが、欠点が見えた方が「私も頑張ればどうにかなるかも」と模範になる気もするがどうだろうか。

 つくられた美談で知られるのがワシントンならば、暗部が語られなかった偉人といえばトーマス・エジソンだろう。世界を明るくする発明をしたエジソンだが、本人はかなりの闇を抱えていた。
 よく指摘されるのが、「エジソンは発明王なんかではない。電球も発明していなかった」というものだ。

 確かに彼は電球を発明したわけでもなく、フィラメントのある電球の原理を開発したわけでもない。エジソンの功績を正しく記せば、「電球のフィラメントに竹を使うことで1200時間の連続点灯を可能にし、1880年に実用的な電球の販売にこぎつけたこと」となるだろう。ただ、だからといって、「エジソンは電球を発明していない」というには無理もある。「巨人の肩に立つ」という言葉があるように、先人たちが積み上げた仕事の上に多くの発明があるからだ。最後の1ピースをはめた者が名声も富も総取りすることに当の発明家たちも異論がないはずだ。

 後世からみて、エジソンが抱えていた闇とは目的のためには手段を選ばなかった姿勢だろう。

 有名なのが自分の元部下だったニコラ・テスラとの間で繰り広げられた「電流戦争」だ。電気を供給する際、直流と交流のうちどの方式を取るかをめぐる争いで、エジソンは直流方式をテスラは長距離の送電で有利な交流方式を採った。劣勢であったエジソンは「高圧電流を使う交流は危険である」と訴えて、巻き返しを図った。

 ネガティブキャンペーンは今の時代でも珍しくないが、エジソンは当時の時代背景を考慮しても過激すぎた。でっち上げの情報をマスコミに流したり、犬や猫、象を交流で感電死させる公開実験を繰り返したりした。
 極めつけは、絞首刑に代わる「人道的な処刑法」として、交流式の電気椅子を提案したことだ。当時の極刑は絞首刑であった。だがこれを「残酷かつ異常」とする社会的批判が高まっていた。代わりに「急速で苦痛のない刑」として考案されたのが電気処刑だ。電気処刑の実現のために法改正をニューヨーク州議会に働き掛けた歯科医師が、エジソンに助言を求めると、エジソンは彼の見解に同意し、「交流装置」の電流を使った電気処刑を勧めた。交流のイメージを悪くするためだ。もちろん、交流だろうが直流だろうが安全性も危険性も変わらない。
 当然、テスラ側は猛反論するが、交流装置を使った死刑は実行される。電気椅子に死刑囚を座らせて公開イベントまで開かれた。死刑囚は通電1回では死なず、2回目に頭から煙が立ちのぼった。

 結局、当時の技術では変圧しやすい交流が送電には長けており、電流戦争にエジソンは敗北する。エジソンのなりふり構わない姿勢には「そこまでするか」といいたくなるが、彼の残酷さは合理主義の裏返しだった。目的のためには手段を択ばない。非理性的なふるまいもいとわない。

「天才は1パーセントの才能と99パーセントの努力によって創られる」「わたしは決して、失望などしない。どんな失敗も、新たな一歩となるからだ」「私が成功することができたのは、仕事場に時計がなかったおかげである」という勤勉きわまりない格言をエジソンは残したが同時にこのような言葉も残している。

「産業と商業では人のモノを盗むというのが相場だ。私自身も多くのモノを盗みながら生きてきた。しかし、私は『どんな方法で盗めば良いか』その方法を知っている」
 
「発明家が盗むって、どうなの」といいたくなるかもしれないが、彼は発明家と同時に敏腕経営者であったことを忘れてはいけない。ビジネスにおいて模倣は決して恥ずべきことではない。「盗むか、盗まれるか」の世界といっても言い過ぎではないだろう。
 この実業家としての視点こそエジソンが歴史に名を残した理由だろう。彼が生きた19世紀末は資本力と技術力が強力に結びつき始めた時代だ。事業家としての視点と発明家としての視点を合わせ持ったエジソンは時代の申し子ともいえる。
 実業家と発明家は相容れないものに思えるかもしれないが、資質は似ている。私は長年、企業取材に携わってきたが、経営者はいかに楽をできるか、自分がいなくても回るかを考え、効率的な仕組みをつくる。エンジニアも優秀な人ほどサボりたがる。サボりたいから、最低限の出力で最大限の価値を生み出す仕組みをつくるのに長けている。ざっくりまとめてしまえばサボりたい精神がイノベーションにつながるのだ。言い過ぎか。

 エジソンにも象徴的なエピソードがある。 
 17歳のエジソンは鉄道電信士として働いていた。電信の仕事を始めたのは、偶然だった。列車にひかれそうになった駅長の息子を助けたところ、電信技師でもあった駅長に電信技術を教えてもらうことになったからだ。
 彼は単線の列車の上下線がぶつからないように運行を確認して、信号を定期的に送る夜勤の業務に従事していた。夜は電信の仕事、昼間は自分の研究に時間を充てていたが時間が足りなかった。時間を少しでもねん出するためといえば苦労話に聞こえるが、夜中に一定時間に定期的に信号を送る作業が退屈極まりなかったエジソンは自動的に列車の確認信号を送る装置を作り上げる。何もしなくても正確に信号が送り続けられるのだ。ただ、機関士のミスで列車が衝突しそうになったことで、電信を機械に任せて寝ていたところを見つかってしまう。信号は正確に送られていたが、安全確認せずに信号を送られてはいつか大事故つながりかねない。エジソンは職を失ってしまう。
 決して褒められた行為ではないが、退屈な労働を避けようとする行為がアイデアを生んだわかりやすい例だろう。人間は、いやでいやでたまらなければ、何か代替案を考えるのである。
 もちろん、ただただサボっているだけでは何も生まれない。サボりがアイデアを生むこともあるが、サボればアイデアが生まれるとは限らないことに凡人は注意したいものだ。

 

今回の教え: サボりたい気持ちを大切に。

 

[参考文献]

西川秀和『ジョージ・ワシントン伝記事典』大学教育出版、2012年
リチャード・モラン『処刑電流』岩舘葉子訳、みすず書房、2004年

バナーデザイン:藤田 泰実(SABOTENS)