サボる偉人 栗下直也

2023.6.30

04本田宗一郎 何もしない


 昨年末に会社を辞めた。正確には11月末だが、12月か11月かはあまり重要ではない。

 自営業者という名の根無し草になったので、どこかに毎日行く必要もない。やりたい放題である。

「やってられないぞ、この野郎」と突発的に辞めたわけではなく、何年も前から辞めようと考えていたので、自分なりに退職後の展望はあった。

 昼から釣りをして、家に帰って、昼寝して、散歩に出て古本屋に立ち寄り、夜は釣った魚をあてに本を読みながら酒をガバガバ飲んで、そのまま寝る。生活に困らない程度に働く。
 今、自分で書きながら「最高の生活じゃん」と再認識したわけだが、全く実現できていない。考えてみれば、釣りは30年くらいしていないし、そもそも家の近くに魚を釣れる場所などない。いわずもがな魚はさばけないし、古本屋もない。

 といくらでも言い訳は思い浮かぶのだが、会社を辞めようが辞めまいが、小市民なマインドにあふれる自分はバリバリ働くわけでも釣りをするわけでもなく、タラタラと働いて日銭を稼ぎ、チマチマと酒を飲んでいる。

 そして、思うわけだ。本田宗一郎はすごいって。
 おいおい、おまえ、本田宗一郎と比べるのかよと突っ込まれそうだが、べつに起業したいわけでも、車をつくりたいわけでも、ましてやF1に参戦したいわけでもない。世界のHONDAは意地でも働かない期間がなければ生まれなかったといっても過言ではないのだ。

 本田宗一郎といえば本田技研工業(以後、ホンダ)の創業者だ。「人まねはするな」「役所には頼るな」「世界を目指せ」などのいわゆるホンダイズムを徹底し、ホンダを世界企業に一代で躍進させた。

 1906年静岡県生まれで、1922年に高等小学校を出ると、東京・湯島の自動車修理工場「アート商会」に勤め、自動車の修理技術を身につけた。28年に故郷・天竜近くの浜松に戻り、アート商会浜松支店(後に東海精機重工業)を設立、やがて修理業に飽きたらず、自動車部品のピストンリング製造に乗り出す。ピストンリングはエンジンのピストンの外周にはめる部品だが、その納入先がトヨタだった。

 トヨタとホンダといえば今ではライバルだが、当時は取引先だったわけだ。トヨタから部品に欠陥があると指摘された時、宗一郎はトヨタの工場に行き、ピストンを調べ、ピストンの方に欠陥があることを見つけたというエピソードもある。
「トヨタのピストンの方が悪いんだ、と言ってやった」と宗一郎は後に部下に語っている。

 1945年に戦争が終わると、東海精機株をすべてトヨタに売り、縁を切る。
 宗一郎は「私の履歴書」(日経新聞)に「戦時中だったから小じゅうと的なトヨタの言うことを聞いていたが、戦争が終わったのだからこんどは自分の個性をのばした好き勝手なことをやりたいと思ったからである」と書いている。小じゅうととはかなり辛らつだが、よほどムカついていたのだろう。

 そこから、ホンダのサクセスストーリーが始まるかと思いきや、宗一郎がホンダの前身となる「本田技術研究所」という名で個人事業を始めるのは1946年の9月。東海精機の株をトヨタ側に売却してから、1年余りのブランクがある。

 何をしていたのか。

 何もしなかった。

 とはいえ、何かやっていたでしょうと突っ込みたくなるが、本当に何もしなかった。45年9月に「人間休業宣言」を出し、1年間何もしなかった。「仕事はしない、1年間、遊んで暮らすから、食べさせて」と妻のさちに言った。38歳の妻子持ちとは思えない発言である。

「会社を売ったのならば金があるし、生活に困らないからでしょ」と嫌味もいいたくなるが、それも違う。
 東海精機の株は45万円で売った。だが、宗一郎は「これは大切なお金だから、つかっちゃいかん」と全く手を付けなかった。

 さちは生活費を貰えなかったので、自宅敷地で野菜をつくり、米は自分の実家から調達した。
 ここの話だけを切り取ったら、宗一郎、マジでヒモであるが、実際、ヒモさながらの生活なのだ。

 ドラム缶入りの医療用アルコールを買い、自家用の合成酒を作って友人と飲み、昼は尺八のけいこや将棋に励んだ。といっても、1日は長い。やることがなければ、軒下で1日中座り、ぼーっとした。さすがに見かねた妻のさちから「暇ならば草くらいぬいてくださいよ」といわれても、1だけ抜いて、おしまいという日もあった。令和のサラリーマン家庭ならば離婚必至のふるまいだ。

 全く隠居していたわけではない。頼まれれば、重い腰を上げた。磐田の警察学校で科学技術担当の講師として無給で教えた。講義の後は生徒たちと合成酒を飲んだ。遠州灘の海岸で電気製塩をしてコメと交換したり、自宅の野菜畑の周りに野菜泥棒対策に電流鉄線のをつくったりした。だが、その程度である。

 さちは「本当に働かなかった。お父さんらしいのはアルコールに煎った麦と杉の葉を入れてウイスキーっぽく工夫するところ。実際にやったのは私ですけど」と証言する。酒すら自分でつくっていなかったのである。

 これは意外だろう。高等小学科校を出て以来、働きづめの宗一郎に何があったのか。彼は働かなかったが、一生懸命だった。働かない代わりに真剣に考えていた。
 ぼーっとするのも、草むしりを頼まれ、1本しか抜かないふるまいも集中して考えていたからにすぎない。酒を飲むのも、ポジティブに解釈すれば頭を冷やすのに必要な作業だった。

 彼には世間がわからなかった。

 戦後に価値観が180度変わったことに宗一郎は違和感を抱いていた。ついこの間まで、「天皇陛下、ばんざーい」と何も疑わずに繰り返し、鬼畜米英を竹やりで突こうとしていたのに、今や「ギブ ミー ア チョコレート」でアメリカ礼賛、民主主義礼賛である。「欲しがりません、勝つまでは」が、勝てなくても欲しがってるし、なんじゃこりゃとなってしまったのである。

 仕事が嫌になったわけでも昼から酒を飲みたかったわけでもなく、世間の急激な変化に何も考えずに身をまかせることができなかったのだ。
 年間の休業は民主主義を世の中の変化を考えるための期間だった。

***

 その後の成功はみなさんもご存じのとおりだろう。自転車に補助エンジンをつけた「バタバタ」があたり、本格的なオートバイ生産を開始。63年には4輪軽トラックT360を発売。以後、ホンダN360、シビックなどの乗用車も手がけ、世界的な自動車メーカーになっていく。その原動力になった自由闊達で平等な社風は宗一郎の一年と決して無縁ではない。

 宗一郎はアグレッシブな人物として描かれがちだ。飲み会で芸者そっちのけで仕事の話をしていた部下を翌日呼び出し、「芸者の話は仕事の話より大事だろ」と雷をおとしたかと思えば、自分は飲み会で酔っ払って芸者を2階から投げ飛ばしている。

 だが、同時に哲学の人でもある。自分の休業の一年を振り返って「世間がわからないのに仕事をするというのは、地盤のやわらかいところに物を建てるみたいなことだからやめた方がいい」とし、民主主義がなにかわかっていれば自分もすぐに仕事をしたと語っている。

「本田宗一郎だから、サボれた」と思う人もいるだろう。「なんだかんだ言っても会社売ったお金があったから安心だったんでしょ」ともいえる。だが、それは結果論だ。

 会社を辞めて、釣りができる環境になっても釣りをしない人もいるし、会社が嫌で嫌でたまらないのに、辞められる経済的備えがあっても辞めない人もいる。「えいや」とやるかどうかなのであることは自分を振り返ってもわかる。

 現代においては何かをしないというのは意外にも大変だ。
 必要かどうかはともかく誰もが盲目的に忙しなく動いている。動いていなければ「怠け者」と罵られる。
 何も考えずに流されるのもひとつの生きざまだが、その流れの「そもそも論」に疑問を持ってしまったらその流れから離脱するのも悪くない。
 本田宗一郎は教えてくれる。
 長い人生、立ち止まって休むのも悪くない。

今回の教え:迷ったときは人間休業宣言。

 

この連載は月1回の更新予定です。
次回は2023年7月31日(月)に掲載予定です。
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