サボる偉人 栗下直也

2024.4.30

08高橋是清 ダルマ宰相の七転び八起き

 

 地下鉄の青山一丁目駅から赤坂見附方向に国道246号を進む。右手に公園が見えてくる。高橋是清翁記念公園だ。ここには高橋の私邸がかつて立っていた。
 1936(昭和11)年2月26日午前5時ごろ、2人の将校に寝室を襲われ、高橋は絶命した。死体にはピストルが7発撃ちこまれ、片手が切られていた。ピストルが致命傷になったにもかかわらず、83歳の老人の死体をわざわざ拝み打ちしたことからもいかに高橋が軍の「敵」であったかがわかる。
 
 高橋の死は早晩避けられなかった。高橋自身はもちろん、周囲も高橋の死を覚悟していた。事件の前日、暴徒に襲われた場合を想定した演習が官邸で行われたが、高橋が逃げない前提での訓練だった。「それでは訓練にならないだろ」と思うのだが、いくら訓練をしたところで命を狙われ続けるならばバタバタしても仕方がないとの意識が高橋にはあったのだろう。

 高橋は当時の軍部の膨張主義に対して警鐘を鳴らしていた。「国防の拡張は必要だが、財政のバランスというものがある」という内容で決して極端な主張ではなかった。
 軍事費は1931(昭和6)年に約4億6000万円だったが、二・二六事件前年の1935(昭和10)年には10億4000万円まで膨れ上がっていた。財政が破綻に向かっているのは明らかだったが、誰もが軍部が怖く、「ちよっとおかしいですよ」とはいえなかった。何をされるかわからない。誰だって命が大事である。変に恨みを買えば殺されかねない。そして、実際、高橋は殺されてしまったのだが、議会でも軍部に声高に異を唱え続けた。財政家としては至極まっとうな意見だが、臆することなく主張できる者はほとんどいなかったため、陸軍の過激派将校たちを刺激した。
 高橋は「日本のケインズ」と呼ばれるように、財務家としてはケインズと同じく積極的な財政政策が特徴だった。1927(昭和2)年の金融恐慌では、債務支払いを猶予したり(モラトリアム)、日銀が銀行に特別融資したりの措置で、蔵相就任からわずか40日あまりで事態を収めた。1932(昭和7)年には赤字国債を日本で初めて発行する積極財政で、世界大恐慌から日本をいち早く救った。
 ちなみに、「日本のケインズ」の呼び名は日本人が勝手に言っているわけではない。米国のピッツバーグ大学のリチャード・スメサーストの著書(邦題『高橋是清——日本のケインズ その生涯と思想』)によるものである。
 こう聞くと凄腕の金融マン、財政家の印象を強く抱くだろうが、高橋は生粋の金融・財政畑の人間ではない。それどころか金融・財政関連の仕事に就いたのは1893(明治26)年に日本銀行に勤めてからである。このときすでに38歳だった。
 今ならアラフォーからのスタートはめずらしくないかもしれないが、当時の平均寿命は40歳そこそこ。医療が現代ほど発達していなかったため、乳幼児の死亡率の高さが影響しているが、40歳からどのくらい生きるかを示す平均余命も25年程度で、アラフォーでは人生の折り返しはとっくに過ぎている。

 それも、日銀の仕事とはいえ、建築現場の管理である。財政政策とは全く関係がない。また、英語教師としてかつて教えていた頃の生徒が日銀の上役だった。建築所雇いとはいえ給料は高級官僚と同等だったものの、「丁稚」からの再スタートだったことがわかる。
 高橋自身も丁稚のつもりで朝早くから建築現場に通った。人生をやり直したい気持ちも強く、仕事に対する意識は高かった。現場で作業員に話を聞くなどして、改善点を探し出す作業にも余念がなかった。

「英語教師? 人生をやり直す? それまで教師やっていたの?」と疑問を抱いた人もおおいはずだ。高橋は日銀入行前に教師職にあったこともあるが、それは浮き沈みの激しい前半生の一コマにすぎない。高橋の人生は自分で何度もレールを敷き直しながら、あっちにぶつかりこっちにぶつかり、寄り道を繰り返した。ときに仕事そのものを放棄した。ふっくらとした顔立ちから、「ダルマ宰相」と呼ばれ人気を得たが、人生も七転び八起きでダルマのようだった。

 高橋は1854年に幕府御用絵師の川村庄右衛門と奉公人の娘との間に生まれるが、仙台藩の足軽高橋是忠の養子となる。貧しい環境で育つが13歳の時、藩の留学生に選ばれ、米国に渡る。本人は留学するつもりで渡米したものの学びの場は一向に得られず、意味も分からず契約書にサインしたところ、50ドルで農園主の下に奴隷として売られてしまう。関係者の尽力もあり、翌年、逃げるように帰国する。語学力を買われ、15歳で大学南校(現東京大学)の教授手伝いの職を得るが、若ければ遊んでしまう。酒と芸者遊びにおぼれ、学校を退職し、芸者の箱屋になる。ヒモのようなものである。奴隷からヒモへ。のちの首相、日本のケインズの気配を全く感じさせない。
 さすがに芸者のヒモを一生やるわけにもいかない、何かしなければと知人の紹介で唐津に英語教師として赴任するが、当然、平穏には暮らせない。毎日3升(4.5リットル)を飲み続け、喀血する。仕事どころか命の危機である。

 高橋の前半生の詳細は死の前年に刊行された『高橋是清自伝』に詳しい。目次だけ眺めても楽しめる。米国から帰った後を記した「帰朝と青年教師時代」の章の後に来るのが「放蕩時代」。芸者に養ってもらった後に唐津で喀血した時代だ。その後に「大蔵省出仕―失職―文部省―校長―浪人」、「養牧業―翻訳稼ぎ―相場」と続く。全くもって政治家への道が見えない。そして、ここまででまだ27歳、日銀に入行するまでに10年以上ある。
 その後、一念発起し「商標」の研究で、特許局長にまでなるが、行きがかりから官途を辞してペルーの銀山の経営に当たろうとし、詐欺にひっかかる。日本に戻ってきても福島での農場経営や上州(今の群馬県)での鉱山開発に立て続けに失敗し、破産する。屋敷を手放し、妻は縫い物の内職をする。もう涙なしでは読み進められない。NHKの朝の連ドラでもこんなに山場はないぞというくらい山場続きなのだ。こんなにハラハラさせられたら、半年見続ける自信がない。その後に「山師」とさげすまれながらも日銀に潜り込み、ようやく財政家としての才能を開花させていく。
 ありきたりのエリート人生を歩まなかったことが高橋の後半生に生きたのは間違いない。一足す一が二、二足す二が四だと思いこんでいる秀才は、生臭い政治やビジネスの世界で苦戦を強いられる。高橋の財政政策は平たんではない人生で学び取った実学だった。
 前例がない不測の事態に強いのも豊富な人生経験があったからだろう。実際、日銀総裁も務めた井上準之助は「先例のあるような事件ができたら(大蔵省の)山本(達雄)さんのところに聞きに行くとよい。手に取るように教えてくれて参考になる。そして先例のないような事件では高橋さんのところに行くに限る。必ず即刻いい考えを出される」と語っている。
 高橋が死ぬまで「楽天家」として生きられたのは、養家の祖母喜代子の影響が大きい。幼い頃から「おまえはしあわせ者だ、運のいい子だ」といい聞かせられた高橋は「どんな失敗をしても、窮地に陥っても、自分にはいつかよい運が転換して来るものだと、一心になって努力した」と自伝にも記している。奴隷になっても失職して、ヒモになっても、破産してもどうにかなるだろうと前を向き、自分の人生を切り拓いた。
 高橋が絶命した部屋には「不忘無」と書かれた揮毫の掛け軸があった。何も無かったころのことを忘れない。常に楽観的に前を向いて生きた高橋の姿勢が浮かび上がる。
 常に前を向いてどうにかなると考える。やりたいようにやってダメならばやり直す。ほんの少しでも楽天的に、大胆に生きてみようと考えることで、人生の景色は変わってくるはずだ。

 

今回の教え: 何歳からでもやり直し。

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