サボる偉人 栗下直也

2024.2.29

06内田百閒 こだわらない


 内田百閒(ひゃっけん)といえば形容しがたい作家である。「夏目漱石の弟子」の金看板を外すととたんに実像がつかみにくくなる。そもそも、現代においては一般的な認知度は非常に低い。渋谷のスクランブル交差点で内田百閒を知っていますかと聞いても、「何を言っているのだ、こいつ」という顔をされるか「ヒャッキン? 百均? 借金?? はっ」と言われるのがせいぜいだろう。確かに百閒といえば借金ではあるのだが。

 幻想小説が名高い作家だが、小説よりは随筆で知られた作家である。「鉄道ばっかり乗っていた人でしょ」が最も正しいかもしれない。確かに、内田百閒といえば1951年に『小説新潮』に「特別阿房列車」を発表してから、「区間阿房列車」「東北本線阿房列車」など鉄道モノを書き続けた。連載をまとめた「阿房列車」シリーズは鉄オタたちのバイブルにもなった。
 私も百閒が大阪まで電車で行って、何もしないでそのまま帰ってくる紀行文を読んで、「こいつはただものではない」と驚愕した一人だ。確かにただものではないから歴史に名を残す作家なのだが、80年くらい前に当時60歳を過ぎたおっさんが今のYouTuberみたいなことを涼しい顔でこなしていたのだから恐れ入る。

 彼は組織と距離を置いたことでも知られる。

 有名なのは昭和47年、日本芸術院会員を辞退したときのエピソードだ。「芸術院会員になると国家公務員扱いなので年金がもらえる。貧乏の身には大変嬉しいがどんな組織にも属したくないから入りたくない」と人を介して断りを入れる。この際、百閒はメモを知人に託し、そのまま芸術院長に伝えてくれと頼む。メモには「―藝術院ト云フ會ニ這入ルノガイヤナノデス ナゼイヤカ 気ガ進マナイカラ ナゼ気ガ進マナイカ イヤダカラ―とあった。これが今では「イヤダカラ、イヤダ」の名文句として残っている。
 そもそも彼には前科があった。戦時中は国の主導で発足した日本文学報国会への入会を拒んでいる。明らかに国策への協力を目的としている同会には文学者の大半が入会したが、手紙がいくらこようが無視を決め込む姿が日記には記されている。ちなみに、報告会結成以前のペン部隊にも加わっていない。日中戦争から太平洋戦争を通じて一度も従軍しなかった作家だ。

 生存中はこうした姿勢から百閒を「孤高」、「偏屈」と呼ぶ人も少なくなかった。仕事も選ぶし、こだわりも強そうにみえるので近寄りがたい。その選んだ仕事も筆は遅い。遊んでばかりいて、金遣いは荒いので借金ばかり膨らむ。借金まみれなのに、収入は月給と借金で成り立っているとうそぶき、困ったらどこかから金を引っ張ってくることを錬金術と豪語する。

 だが、果たしてそれは彼の実像だろうか。

 戦時中、国策に協力しない作家は沈黙していた。「百閒も多分に漏れず、仕事もしないでダラダラしてたんでしょ」と思われるだろうが、猛烈に働いていた。日中戦争から第二次大戦の終わりまでの時期、多くの作家が書く場を失う中、百閒は働きに働いていた。

 このころ、彼には会社員としての一面があったのだ。

 「えっ、組織が嫌いじゃなかったのかよ」と言いたくなるが、当時、百閒は日本郵船の顧問(嘱託職)にあった。知人の紹介でポストを得たのである。困窮していた身としては固定収入がありがたかったに違いない。

 月給は200円。契約を結んだ昭和14年当時の銀行員の初任給が70円、小学校教員の初任給が50円から60円の時代である。

 まあ、顧問ならば名義貸しみたいなものだし、できるよねと思った人もいるだろう。
 確かに、「顧問」といえば、現代では会社員の上がりのポジションでたまに顔を出す程度のイメージも強い。そう考えると割のいい仕事に思えそうだが、百閒は偉いことに午後からとはいえ水曜日以外出勤していた。勤勉過ぎて、内田百閒のイメージがダダ崩れである。

 郵船が百閒を雇ったのは、対外文書をチェックする文章指南役としてだった。
 肩書だけでなく、仕事が用意されていたのだ。
 チェック係なので、文章を作成する仕事は業務には含まれていなかったが、同社が立ち上げた広報誌用に自ら社員を取材して文章を書いた。それだけでなく、会社のお偉方の私的なスピーチもつくるなど、業務以外の仕事も前向きにこなしていた。「どこからそのやる気は来るんだよ、本業頑張れよ」と思うのは私だけだろうか。

 日本郵船が百閒を顧問に迎えたのは当時、業界ではそれなりに話題になったようだ。アサヒグラフに本人の随筆とともに写真が掲載されている。写真のキャプションには「随筆家として令名高い百鬼苑、内田百閒先生は、この程、日本郵船に入社、五十一歳の新入社員となりました。仕事は会社の書類や社員の文章の添削、ザット作文の先生といふところです。写真は腰弁を食べる百閒先生」とある。

 郵船には百閒を使ってPRにつなげたい考えもあったのは間違いない。百閒の入社と同時期に『海運報国』というPR誌を創刊している。

 旅行といえば船の時代である。台湾などの植民地への船旅もブームになりつつあった。実際、百閒は日本郵船の船に乗り横浜、神戸間を試乗した手記を『海運報国』のみならず当時の一流誌『中央公論』や『改造』にも発表している。作家として旅行記を発表することで、日本郵船の企業のPRにつなげるという巧みな手腕を発揮する。

 「PRマン」としての働きはそれだけではない。郵船の所有する船での船上座談会などで司会役を務め、有名人が「船っていいですよね」というメッセージをこれでもかと発信することに貢献している。

 朝日新聞社が1941年7月15−16日に開催した氷川丸での座談会には文化人や軍人など16人が参加した。百閒、ちゃんと仕切れるのかよと突っ込みたくなるのだが、どうやらかなりの仕事ぶりだったようだ。

 このなかで百閒は司会を務め、当日の出席者から「大東亜共栄圏を打ち樹てる大仕事」が「二千六百一年を更に遡つて御代の昔から与へられてゐた民族的の仕事」であるという見解や、「支那事変」に際して「海軍の手となり足となつ」て活動した商船関係産業を「海軍の相棒」と位置付け、発展の必要性を説く発言を引き出している。
                  山本有香「内田百閒の日本郵船時代 −台湾旅行を中心として−」『早稲田大学大学院文学研究科紀要 (66)』

 むっちゃ国策に協力してるじゃんと驚きを隠せない。頑張ればちゃんと空気読めるのである。

 余談ではあるが、この座談会の前にも日本郵船の所有する新田丸での船上座談会にも百閒は参加している。郵船としては百閒に文壇とのつながりを期待して参加者を呼びかけてもらいたかったようだが、文壇に友達がいない百閒は困り果て、文藝春秋社に丸投げする。こう聞くと、孤高というより孤立しているだけの気がしてくるのは気のせいだろうか(百閒は仲が良かった芥川龍之介が死去した後、このころ、文壇で唯一つながりがあった佐藤春夫とも絶縁している)

 この時期の百閒は執筆活動と日本郵船の顧問の立場にうまく折り合いをつけ、執筆活動の延長線上に郵船の宣伝を位置づけている。書くことが宣伝になる構図をうまくつくったのである。
 もちろん、百閒は百閒であって人としての本質は変わらない。船に乗って、神戸に行って、そのまま船に乗って帰ってきている。阿房列車の原形がすでに確認できる。

 百閒はこだわりがなかったのだろう。ただただ金がなかったから、何も考えずに働かざるをえなかったといえばそれまでではあるが、今でいうPR案件をバリバリこなしていたのである。日記によると郵船の顧問以外にも複数の企業案件を獲得しようと動く姿がみられる。よくもわるくも、体裁にこだわらない。さすが、空襲の時に夏目漱石の書を置いて、飲みかけの一升瓶を持って逃げた男である。

金がないから働く。ある意味、柔軟な人なのである。

 

今回の教え:サボるためには何でもやれ。

バナーデザイン:藤田 泰実(SABOTENS)