サボる偉人 栗下直也

2024.12.26

12早川種三 再建王は落第王

 

 昭和の時代に「再建の神様」「産業界の名医」と呼ばれた男がいた。早川種三。東京建鉄(現在は三菱電機により子会社化)、有楽フードセンター(現、銀座インズ)、日本特殊鋼(現、大同特殊鋼)、佐藤造機(現、三菱マヒンドラ農機)、興人(現、興人ライフサイエンス)など、戦前から戦後にかけて再建させた企業は上場会社だけで4社、非上場を加えると10社を超す。日本経済の奇跡の成長の裏舞台で活躍した「再建屋」だ。

 経済ジャーナリストの三鬼陽之介は「表舞台の再建王が石坂泰三氏ならば、裏部隊の再建王は早川種三氏」と書いている。だが、考えてみれば、平成どころか令和の今となっては「誰、その人たち?」といった感じかもしれない。ちなみに、三鬼陽之介は経済記者で今でも発行を続ける雑誌『財界』を創刊し、「財界のご意見番」とも呼ばれた。石坂泰三は逓信省の官僚、第一生命社長を経て、戦後、倒産危機にあった東京芝浦電気(現、東芝)の社長に就き、再建に成功。経団連の会長も務めた戦後を代表する名経営者だ。
 
 今では「再建屋」と聞くと、取り巻きを連れて乗り込んできて、リストラして、売れる事業や資産は売って、固定費を下げて、利益を出るようになったら身売りするというイメージを抱くかもしれないが、早川の手法は全く異なった。一人で出かけていって、社員と相談しながら再建を進め、成功すると身を引く。だから、早川が社を去った後も、彼を慕う社員は少なくなかった。

 早川がなぜ再建を次々に成功できたのか。早川自身は『わが企業再建』(プレジデント社)で「元来、私は、金をもうけようとか、出世をしようという欲がなかった」とし、それが「企業の再建にとって、なによりも必要な条件であったように思う」と振り返っている。

 私利私欲の少なさは彼の経歴からもわかる。そもそも、再建に携わるようになったのは偶然の産物に過ぎない。

 1930年(昭和5年)に東京建鉄に債権の取り立てに行ったら、「カネはない」といわれ、「カネが必要だったら再建してください」と頼まれたのがきっかけだ。「カネがないから、お前がどうにかしろ」とは時代が時代とはいえ凄い話だ。そう聞くと、早川は敏腕の実業家だったのかと思われるかもしれないが、当時の彼の職業は驚くなかれ、ペンキ屋だ。それも、カネだけ出していたわけではなく、職人と一緒にペンキを塗っていたこともある。といっても、たたき上げの職人ではないから話はややこしい。早川は大正時代に慶應義塾大学を卒業している。大卒が「学士様」と呼ばれた時代だ。

 ただ、これまたややこしいが、早川はピカピカのエリートでもない。経歴を眺めていると不思議な点に気づく。
 1915年(大正4年)に仙台一中(現仙台一高)を卒業し、ストレートで慶応義塾大理財科予科(現経済学部)に入学する。だが、卒業は1925年(大正14年)まで待たなければいけない。その間、10年。留学や大病の形跡もない。当時と今では学制も異なり、予科2年、本科3年が早川の在学中に予科3年、本科3年に変更されたが、それでも計算が合わない。

 常人では考えられないほど留年したのである。

 この留年の回数についても4回説と5回説があるが、本人は「落第は四回なのだが、実質的には五回ともいえる」(『会社再建の記』)と書いている。

 早川は入学するもすぐに「これは落第しそうだ」と感じ、一度退学して再入学している。「最初から落第するなんて格好悪すぎる」と思ったそうだが、その後にもっと格好悪いことになることなんて想像できなかったのだろう。実際、再入学するも、予科の1年時から留年している。

 なぜ、4回も5回も落第したのかと思うだろう。結論から語ると、遊びまくっていたのである。遊ぶといっても、令和の大学生とはレベルが違う。早川がハマったのはお茶屋遊びだ。下宿の近くに芸者が多く住んでいたらしく、昼から三味線の音が聞こえてきて、風情があるなと、ハマったという。ただ、このハマり方が尋常ではなかった。お茶屋の勘定は6月、12月の年2回だったが、1回の支払いが3000円にもなったことがあった。当時、大卒の国家公務員の初任給が70円で、土地150坪、建坪50坪の家が2000円くらいで変えた時代の3000円である。

「そんなカネ、どこにあるんだよ」と誰もが突っ込みたくなるが、今も昔もカネはあるところにはあるのだ。早川は大学に入った年に父親から財産分与を受けていて、その資産額は約30万円だった。この額については本人が1980年(昭和50年)に振り返って「今ならば何億円」と語っている。令和の貨幣価値に換算するともっと多くなるだろう。

 早川の手元には家賃収入や配当収入で月200円近くも転がり込んできたが、それでは全く足りなかった。半年で3000円の支払いになるのだから、全然追いつかない。もちろん、父親も早川の性格を知り抜いていて、そうは勝手に使わせなかった。何億円も持っているのに自由に使えない。困り果てた早川は仙台の父親に泣きつく。

「カネオクレ、オクラネバシヌ」と電報を送った。

 数日後、返事が来る。早川はいくら入っているだろうかとウキウキしながら友人の前で開くとそこには2文字だけ記されていた。

「シネ」

 普通の親ならば死ぬと聞いたら血相を変えて、カネを送るかもしれないが、この子にこの親ありといったところだろうか。

 早川は学生の10年を、お茶屋遊びと途中から始めた山登りで遊び倒し、譲り受けた30万円をほぼ使い果たす。カネがなくなってきたので卒業したら、働かなければという意識はあったが、いかんせん落第5回だ。おまけに早川が大学を卒業した1925年(大正14)年は景気がめちゃくちゃ悪かった。失業者は10万人を超え、大学を中退する者も続出していた。小津安二郎の映画「大学は出たけれど」の世界だ。大学は出たところで、就職も簡単でなく、無駄に年を重ねた早川が就職口を見つけるのは至難の業だった。

 コネで何とかどこかに入り込もうとするが、頼った相手には「運よく就職できても、4、5年は封筒の宛名書きくらいしかやらせてもらえない」といわれた上、「誰かに雇ってもらおうとせず、体が丈夫なのだから体を動かせ。資金なら援助してやる」と謎のアドバイスを受ける。そこで、暇そうな山好きの先輩2人と会社を立ち上げる。それが冒頭で述べたペンキ屋だ。

 早川はのちに日本経済新聞の名物コーナー「私の履歴書」で、起業の理由を、一緒に会社を立ち上げた先輩の「実家が横浜の貿易商で、米国からペンキを輸入販売していたのにヒントを得たのと、震災後、都心ではビルの建設ラッシュがおきており、復興需要が大いに獲得できると踏んだからである」と述べている。先見の明があっただろ、俺、どうよ、凄いでしょ! とドヤ顔に語っているが、これ、ちょっと怪しい。

 というのも、「私の履歴書」(1980年12月)より5年前に出した自伝『会社再建の記』(日本実業出版社)ではペンキ屋を始めた経緯はこうある。

「私たちは、ヒマラヤやシルクロードに行くことを夢みていた。身体を動かす商売、そして時々は山に行ける商売。——考えに考えた末、貿易商をやろうということになった。……それが、どういうわけか、いつの間にかペンキ屋をやることになってしまった。といって、何も目算があったわけではない。ただ、ペンキ塗りなら素人でもできるに違いないと簡単に考えたのだ」

「何も目算があったわけではない」とまで言い切っている。何が復興需要だ、日経の「私の履歴書」だからって格好つけるなと言いたくなるが、経緯はどうあれ、ペンキ屋は軌道に乗ったものの、大口債権先が潰れそうになる。そこで、話し合いに乗り込んだところ、再建屋への道が開かれたというわけだ。

 落第王が、落第しそうな会社を再建するというのも皮肉だが、実際、早川が再建の神様になれたのは自らの落第の多さと無関係ではない。

 ビジネスには人脈が重要である。当時の大卒は人数も少なく、社会的にもエリートだっただけでなく、今よりも同窓の結びつきも非常に強かった。早川は大学に人の2倍以上いたので同級生も2倍以上いた。年下の先輩も少なくなく、後に日銀総裁になる宇佐美洵もそのひとりだ。こうした人脈をいかして、支援を取り付けるのに奔走したのだ。

 もちろん、早川流の属人的な再建は現代では難しいだろう。当時とは時代も違う。産業構造も変わり、従業員の会社への帰属意識も薄れている。M&Aなど資本による立て直しが主流で、個人による立て直しはドラマの世界でしか成立しない可能性が高い。

 ただ、早川の生きざまから学ぶことは多い。学校をサボりまくって遊びまくり、就職口がなくなったことで、起業するしかないと腹をくくった。5回落第したが、それを人脈の広さという武器にした。欠点も見方を変えれば利点に変わる。何事も表があれば裏がある。

 

今回の教え:人生寄り道、まわり道

 

[参考文献]
早川種三『わが企業再建』プレジデント社、1980年
早川種三『会社再建の記』日本実業出版社、1975年
五島慶太、井上貞治郎、川又克二、田口利八、早川種三『私の履歴書 昭和の経営者群像1』日本経済新聞社、1992年


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