サボる偉人 栗下直也

2023.1.31

02石川啄木(2)さぼれども さぼれども


 啄木は1904年10月に上京する。二度目の上京だった。一度目は1902年、雑誌『明星』に歌が掲載された後だった。盛岡中学(現盛岡一高)を中退し、文学で身を立てるべく、16歳で上京した。作歌のかたわら中学校への編入や職を得ようと試みるも失敗。体調不良や経済的な困窮もあり、結局、半年余りで故郷に帰る。

 その後、ブラブラしていた啄木も交際中で後に妻となる堀合節子との結婚を視野に入れるようになる。二度目の上京は詩集の刊行が目的だったが、これは節子との結婚生活の費用を捻出するためだった。詩集を出そうと思って出せるのかと思うが、同郷の級友の兄が啄木の才能に魅せられ出資してくれたおかげで第一詩集「あこがれ」が1905年5月に発行された。啄木からすれば感謝してもしきれないと思うのだが、後にこの級友の兄は「私は啄木から一ぺんも『ありがとう』といわれたことがなかった」と振り返っている。

 売れ行きはともかく(初版、再版で1000部刷ったがほとんど売れなかったという)、詩集を出す目的を果たし、同月末の30日に結婚式が盛岡の新居で開かれることになった。意気揚々と凱旋しそうなものだが、啄木は式にあらわれなかった。式の10日前に東京を出発したにもかかわらず、仙台で途中下車し、友人たちと遊びほうけていた。友人たちと詩人の土井晩翠の家も訪れた。土井に「ゆっくりと仙台を見物していくように」と声をかけられ、「これは奢ってくれるということか」とどういうわけか拡大解釈して、毎晩の飲食代や宿代を土井につけ回した。めちゃくちゃである。

 式当日には盛岡を通過し、故郷の渋民にいた。新居にようやく顔を出した時には式が終わって5日が過ぎていた。結婚式をサボる人に「ちゃんと会社にこい」といってもくるわけがない。

 啄木が結婚式をすっぽかした背景には一家の生活が重くのしかかった現実がある。式の前年、寺の住職だった父親が宗費を納入できず、免職された。一家は仕事も住まいも失う。啄木が裕福ではないにせよ、不自由なく育ったのも寺の長男だったからなのだが、その基盤が突然失われた。支えてもらう側から支える側になったわけだから、悩みもあっただろう。

 とはいえ、さすがに結婚式をサボるのはいかがなものか。これには啄木のでたらめさを知っていた友人たちもさすがに呆れた。東京で苦境にあえぐ啄木が帰郷するために旅費を工面したり、仲人を務めたりした面々は激怒した。友人たちは節子にも「あんな奴とは別れろ」と助言するが当の節子は全く動揺しない。結婚を思いとどまらせようとする啄木の友人に手紙でこう返答している。

 「吾れはあく迄愛の永遠性なると言ふ事を信じ度候」

 節子はこの時代の女性にしては珍しく女学校に進学しており、理想の人は「詩人」。啄木に心底惚れていたのだから、思いは揺るがない。

 啄木は、その後に代用教員になるも免職になり、北海道を漂流し、再上京するのは前編で触れたとおりだが、年を経るにつれ、サボり癖以上に浪費癖がひどくなる。サボるくせに金は使う。最悪だ。
 啄木は死んだときに借金は膨らみに膨らんでいた。63人から1372円53銭。当時の啄木の基本給が25円だったことを考えると、軽く月給の50倍以上の借り入れになる。

 最も多く借りたのは啄木のファンで後に義弟(義理の妹の夫)になる宮崎郁雨、その次が後の言語学者である金田一京助だ。京介は盛岡中学の先輩で、啄木はしばしば無心した。京介の息子の春彦は啄木にかけられた迷惑をこう振り返っている。

「私も小さい頃から母から苦労話を聞かされていましたので、とても啄木の『はたらけど、はたらけど猶わが生活……』は信じられません。原稿料が入ると、父への借金も返さずにその金を持って吉原に遊びにいって使いはたし、あくる日、また借金をしにきたそうです」

(『文藝春秋』1989年9月号)

 確かに全然働いていないのに、はたらけどはたらけどといわれても、全く説得力が無い。もう、あの歌では心が動かされなくなりつつあるのは私だけだろうか。
 京介はなけなしの金でソバや天ぷらを啄木におごり、蔵書を売り払ってでも金を工面してあげた。それでも、京介は啄木の無心をそこまで気にしていなかったようだが、家族はたまったものではない。最終的には妻が「私と啄木どっちが大事」と迫り、京介は啄木からの手紙を一時無視するようになる。

 まだ、しおらしく返済すれば事情は違っただろうが、給料を前借りするくらいなので、無理な話だ。
 1909年6月1日の日記によれば、本来25日に支払われる25円の給料を前借りしている。前月の給料日から1週間も経っていない。借りるやいなや、部長の佐藤に5円だけ借金を返すが、その日中に残りの20円のうちの19円60銭を使ってしまう。狂っているとしかいいようがない。

 何よりも、その内訳がひどく、なぜか啄木を慕う青年の下宿代を13円も肩代わりし、一緒に浅草に行って西洋料理などを楽しむ。おまけに小遣いまであげる気っぷの良さ。青年と別れてからは買春に行く。それも2人も買う。もう欲望のままで生きていて、うらやましさすらある。帰り道に雑誌を5、6冊買い、残りは40銭。普通の人ならば、「うーん、どうしよう」となるがならないのが啄木。いや、普通の人ならば給料の9割以上を一日で使うような事態に陥らないか。

 啄木は「使ってしまったものはなければ仕方がない、借りればいい」とばかりに、金策を考える。で、金を借りては吉原に走る。母や妻子からは東京で一緒に暮らしたいと催促の手紙が度々届いていたが、彼らを養うことを負担に感じていた啄木はますます浪費する。「やってられねーよ」とばかりに浪費による現実逃避を加速させる。でも、周囲にしてみればそんなことは知ったことではない。金田一京介の妻でなくても激怒したくなる。

 「『はたらけど、はたらけど』って全然働いてないじゃん」と冷めてしまう啄木の生き様だが、「全然働いてないじゃん」と突っ込めるのは皮肉なことに啄木のある種の生真面目さにある。
 いかに働いていないかを日々綴り、誰にいくらお金を借りていたかを克明に記していたから我々は突っ込めるのである。

 啄木はこうした日記やメモを自分が死んだ後に全て焼却するように妻の節子に生前に伝えていたが、節子は残すことを決める。
 記録を残したことで「なんだ、あいつ超適当じゃねーか」と100年以上経ってもいわれる事態を招いているわけだが、「『はたらけど、はたらけど』といっても全然働いてないじゃん。俺もゆったり生きよう」と私のようなうだつの上がらないアラフォーを勇気づけてもいるわけだ。

 啄木のさぼりの生きざまは彼の異才が故に成立した。才能にほれ込んだ一部の人が支え続けることで可能だったわけで、凡人にはあまり再現性がないサボりモデルではある。
 だが、頑張りすぎない、しんどいときは人に頼る、たかるというスタンスは多くの凡人が少し学んでいいのかもしれない。理由はともあれ、「部長」が私に奢ってくれたように、意外にも人はそこまで冷たくない。渡る世間は鬼ばかりはテレビの中のお話なのだ。

今回のまとめ:欲望には忠実に。


この連載は月1回、月末に更新予定です。
次回は2023年2月28日(火)に掲載予定です。
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