サボる偉人 栗下直也

2023.3.31

03辻潤 ネットワークは生命線! 

 目黒といえばサンマだが、巣鴨といえばエビである。
 巣鴨のエビなんて落語はないが、巣鴨にデカいエビフライを提供する定食屋がある。
 休日ともなれば店前に長蛇の列ができるのも珍しくなく、私も初めて訪れた際には並んで入った記憶がある。
 食べ物屋に並ぶ趣味はないので、いつもはすぐに座れなければ別の店に行くのだが、その時は珍しく、「まあいいか」と列に加わった。

 東京と埼玉の境にすむ私にとって巣鴨は生活圏内ではない。巣鴨で酒を飲もうと考える時点で気持ちに余裕がかなりあったのかもしれない。

 とはいえ、わざわざ巣鴨にエビフライを食べに行ったわけではない。
 墓参りの帰りに「酒でも飲むか」となり、それならばエビフライを食べるかとなったのだ。「法事の後に定食屋でエビフライを食べるのかよ」と思われるだろうが、確かに喪服で一族そろって定食屋の前に並ぶのはいささか不思議な光景だ。
 つまり、身内の法事ではない。その頃、傾倒していた文士の辻潤の墓参りだ。

 今から考えると何の縁もない人の墓参りにわざわざ出向くなんて、よほど入れ込んでいたわけだが、その定食屋にはその後も辻の命日前後に4、5回行った。ということは、4、5年は年に1回墓参りに行ったことになる。そう聞くと熱心なファンに映るかもしれないが、2回目からは墓参りに行きたかったのかエビフライを食べたかったのかよく覚えていない。「エビフライも食べたいし墓参りでも行こうか」といったところだろうか。

 辻潤と聞いても「誰だよ、それ」が大半の反応に違いない。下手すると「迂闊(うかつ)」と読み間違えてしまうくらいマイナーな文士だ。
辻は明治生まれの翻訳家でありエッセイストだ。主に西洋の思想の翻訳者として知られたが、今と違ってインターネットもなく、往来も盛んでない時代。翻訳者の地位は高かった。大正期には辻をモデルにした小説も数多く生み出されている。
 近年では妻だった伊藤野枝との関係で注目されることが多い。というよりも、野枝との関係でのみ言及されるといってもいいだろう。

 2022年には吉高由里子が野枝を演じたドラマ「風よあらしよ」で稲垣吾郎が辻を演じていたが、少しばかりおかしな人の設定だった。さかのぼれば、97年の朝の連続テレビ小説「あぐり」では森本レオが演じていたが、完全に怪しい人だった。
 多くの劇中ではプラプラしていて何をやって食べているのかわからない人として描かれている。「辻潤は変人」というのが世の評価なのだろう。だが、それは史実通りともいえる。何者かでありそうで、何者でもなく、本人も何者かになろうとしなかった。それが辻潤だ。

 1884年に、裕福な家で生まれた辻だが実家が没落。苦学して女学校の英語の教師の職を得るが、野枝との出会いで人生が大きく変わる。女学校の生徒であった野枝と恋愛関係になり、27歳の時に職を辞して無職になる。
 当時、辻は母と妹と住んでいた。一家の大黒柱だ。何かしら職をみつけなければいけない。辻はどうしたか。働かない。そのうち、野枝まで転がり込んできたが、それでも働かない。
 もちろん、何もしないわけではない。知人に回してもらった翻訳や代訳などを手掛けていたが、家計は火の車だ。

 その後、自ら出版社に持ち込んだロンブローゾ『天才論』の翻訳が版を重ねる。全集ブームにもうまく乗り、各種全集に収められたため、印税が辻の生活を支えるようになる。
 ちなみにロンブローゾはいまではめっきり聞かなくなったが、イタリアの精神病の研究者で犯罪心理学の創始者といわれる。天才と狂人の類似性を科学的に証明しようとした。「天才と狂人の差は紙一重」とはよく聞くが、ロンブローゾがそう断言したという説もある。

『天才論』の翻訳が出版されて以降は、翻訳以外にエッセイなど原稿依頼も来るようになる。ちょっとは食えるようになったかと思っていたら、私生活が行き詰まる。1916年4月、野枝がアナリストの大杉栄と恋仲になり、家を出てしまう。

 この時、辻潤31歳。さすがにショックだったらしく、住居を変え、心機一転に新しい仕事を始める。「英語 尺八 ヴァイオリン教授」の看板を自宅にかかげる。英語や尺八、ヴァイオリンの塾を開いたのだ。
 英語は女学校の元教師で翻訳も手掛けるくらいなので問題ない。「尺八?」と思ってしまうが、辻は10代の時に偉い先生に弟子入りしてプロを目指したこともあった。人の家の門前に立って、尺八を吹いて小遣い稼ぎできる腕はあった。

 ヴァイオリンは東京音楽学校(現東京芸術大学)卒の佐藤謙三が教えにきていた。貧乏長屋に国内有数のヴァイオリニストがなぜきているのかについては「仔細あって」としか辻は述べていないが、立地の悪さもあり生徒はほとんど集まらなかった。英語は数人いたが、尺八はゼロでヴァイオリンは一人。辻自ら「苦しまぎれ」とかたっているように生計を支える術にならなかった。

 原稿依頼はよほどの売れっ子以外は波がある。暇を持て余して家でダラダラしていたら、いつのまにか暇人たちのたまり場になってしまった。昼間から飲めや、歌えやの大宴会も珍しくなく、辻がいなくても誰もが遠慮なく出入りするようになる。辻も辻で特に文句をいわず、一緒にダラダラする。朱に交われば赤くなるというか、朱色なのは辻か。

「仲間たちと昼間から飲んだくれなんてとんでもない」「ちゃんと働け」と思われるかもしれないが、実はこのネットワークが辻にとっては人生の生命線となった。いつの時代も窮地を救ってくれるのは人の縁であることがわかる。

 野枝と離縁した後、仕事も増えたが酒量も増える。野枝が1923年に関東大震災後のどさくさで大杉とともに憲兵に虐殺されると、酒に完全におぼれ、おかしな行動が目立つようになる。当然、まともに働けない。働きたくもない。仕事は順調だったが酒の飲みすぎでノイローゼ気味になり、女性と自殺未遂にも及ぶ。厄介なのは、常に酔っぱらっているので自殺しかけたことも忘れていた。

 さすがに周囲も心配する。あいつは大丈夫か。大丈夫なわけがなさそうだということで「辻潤後援会」が1925年に発足する。ただの酔っぱらいに後援会かよと突っ込みたくなるが、発起人が10人集まり、彼らが呼びかけると谷崎潤一郎や佐藤春夫、豊島与志雄ら今となってはそうそうたるメンバーが名を連ねた。
 後援会は会費制で月額1口1円からで、期間は10月から翌年3月までの半年間とした。当時、東京のコーヒーが10銭だった。
 最高額となる10口10円の会費を支払ったひとりが谷崎潤一郎だ。(もう一人は生田春月。生田は詩人で辻をモデルにした小説「相寄る魂」を書いている)。
 見舞金で静岡県の志太温泉で静養する。

 辻は谷崎とは親交が深かった。「英語 尺八 ヴァイオリン教授」の看板を出した自宅が単なるたまり場になった時に、「少しは仕事をしようか」と下宿を新たに借り(これも変な話なのだが)、翻訳に取り組む。その際に資金を得ようと、唯一の蔵書であった『バルザック全集』を売り払うがその相手が谷崎だった。
 
 また、辻は谷崎が計画していた洋行に一緒に行く手はずを整えていたが、谷崎が計画を断念したため、話は流れる。結局、辻は全集ブームで得た想定外の印税を元手に1928年に読売新聞の特置員という肩書で1年間、パリにわたる。谷崎は旅立つ前に辻の家族を招き、送別会を開いている。わざわざ中華料理のシェフを呼び寄せてもてなした。

 ちなみに、辻はパリ滞在中に出歩くことはほとんどなく部屋に閉じこもって中里介山の『大菩薩峠』をひたすら読みふけっていた。「そんなもの、すぐに飽きるだろ」と突っ込みたくなるだろうが、『大菩薩峠』は大長編の代名詞として知られる。辻が渡航する時点で新聞連載がすでに15年近く続いていた(掲載媒体をかえたり、書下ろしたりしながら30年近くかけて書き続けるが、未完のままとなった)。それだけの大作なので読んでいれば自然と時間はつぶれただろうが、パリに時間をつぶしに行くとは本末転倒だろう。

 ただ、身体には健全だった。パリにいる間は友人知人が周りにいないので酒盛りになることはなかったからだ。パリ滞在中に日本に送った手紙でも「こっちの生活は仕事のできるようにできている。実にウルサクなくていい。毎日酒を呑んでグラグラしているのは全くバカみたいなものだ」と書き、帰国後は酒を慎み、人付き合いを見直すことを誓っている。
 
 当時は外国との距離が遠い時代。洋行帰りとなれば仕事も集まる。だが、どういうわけか筆は走らない。スランプの時こそ仕事に真剣に向き合わなければいけないとも思うが、案の定、有象無象の人々が土産話を聞かせろとばかりに、辻の自宅に集まる。当然、酒盛りになる。せっかく健康になったのに、元の木阿弥だ。
 夜通しで飲むのは当たり前、二日三日ぶっ続けで飲むことも珍しくなかった。飲みながら寝ているし、本人も起きているか寝ているのか酔っているかもわからない。変なことをつぶやき、はだしのまま外にかけていってしばらくするとケロッとして戻ってきたり、いきなりテーブルの上に飛び乗ったり。常軌を逸した行動も目立ち始める。
 当時交際していた女性の前で別の女性と性交渉を始めたり、自宅を訪れたファンを犯そうとしたり、もはや完全に一線を越えていた。

 極めつけは自宅の2階から「天狗になったぞ」と飛び降り、新聞沙汰になり病院に入院する。奇行はアル中ともヤク中とも梅毒に脳をやられたからともいわれた(今ではアル中といわれているが)。というのも、厄介なことにいずれになってもおかしくない生活を送っていた。

 こんなとき助けてくれるのも友達だった。入院中の辻を助けてやろうと、1932年、辻潤後援会がまたもや発足する。谷崎、佐藤、北原白秋、萩原朔太郎、武者小路実篤、新居格などの名が発起人に並び、辻は見舞金で伊豆大島にて療養する。やはり、持つべきものは友なのだ。
 ここで完全復帰するかと思いきや、33年には名古屋を放浪中に警察に保護され、病院に入る。当然、友達は心配し、退院の翌年には「辻潤君全快お祝いの会」が開かれる。面子はこれまでとほぼ同じだ。みんなめちゃくちゃ優しい。

 ところが、だ。全快を祝ったはずだが、全くもって全快していなかったようで、辻は33年以降に明らかになっているだけでも35年、37年にも警察に保護され、病院に送り込まれている。
 さすがにここまでくると、生活もままならない。お祝いの会が開かれたころには、辻の仕事はめっきり減ってしまっていた。執筆は続けていたが、シンパがいる読売新聞社や改造社を除くと稿料が出ない自費出版のような雑誌がほとんどだった。原稿の依頼も減ったし本人の気力もなかった。鶏と卵のような関係でどっちが先かはわからないが、生活費どころか飲み代にすら困る生活に陥る。

 友人たちも年がら年中、後援会を発足させるわけにはいかない。
 それならば、自分で稼ぐしかない。金が無くなれば尺八を吹いて人の家の前に立った。それでも、お金が集まらなければファンの家に居候させてもらった。
 仲良くなったファンの家には昼夜を問わず押しかけた。さすがに何度かすると向こうも警戒するので、家にあげてくれない。しかたがないとばかりに、「電報です! 電報です!」と深夜に叫び、電報を届けるふりをした。当然、夜中に電報が来れば家人は「何事か!」と扉を開ける。そこに無理やりあがりこむ。

 辻は白いものを白、黒いものを黒と叫んでいたため、戦時体制になると仕事は完全になくなり、文字通りの居候人生を送った。反戦の姿勢を隠さず、酔っぱらった勢いで窓から飛んでいる飛行機めがけて切り出しナイフを投げつけたこともあった。右翼に糾弾されたこともあったし、「俺は共産主義でなく降参主義だよ」とうそぶいていたが、当局に執拗にマークされていた。周囲からは狂ったと目されていたが、世の中が狂っていた時代。果たしてどちらがおかしかったのか。辻は筋を貫き、1944年に餓死する。

 辻は好きに生きた。それを支えてくれる友人、知人もいた。「金がなければ金持ちと友達になればいい、バカならば頭がいい奴と友達になればいい」。そんな人生を実践した人だ。「最後に餓死したじゃねーか」と言われればそれまでだが、好き勝手してあの時代に60歳まで生きたら御の字ではないか。

 辻の死後、友人たちで金を出し合って墓を建てようという話になる。冒頭で触れた巣鴨駅近くの墓だ。生前から後援会ができるくらいだから、寄付は集まったが、頑なに断った者もいる。辻を生前、陰に陽に気にかけた谷崎だ。谷崎はこういったという。

「生前あれだけ迷惑をかけておきながら、死後もまだ迷惑をかけるつもりか」

 

今回の教え:できないことは任せよう!