熱帯のニーチェ 奥野克巳

2016.6.13

02朝の屁祭り

 

もしわれわれが一切のものを呑みこんで圧しつぶす印象にいつか一時的に身を捧げるとすれば、――それが近代的なお祭り気分なのである!――その後われわれは再び一層自由になり、回復し、冷静になり、厳格になり、そして倦むことなくさらに反対するものを、すなわち力を得ようとするのである

フリードリヒ・ニーチェ『曙光』271

 プナンは、今日、マレーシア・サラワク州政府から割り当てられた定住地に建ててもらった家屋に住み、焼畑農業にも従事して、米を作っている。その一方で、しょっちゅう森に入って、一時しのぎのキャンプを建て、そこを拠点として森の中に狩りに出かけるという半定住型の生活をしている。
 男たちは獲物を捕るために、朝から森の中に入っていく。手ぶらで戻ってくる時もよくある。そんな時、ハンターたちはキャンプや居住地に近づくと、獲物が獲れなかったことで妻子や家族への申し訳ない気持ちを最大限に表現した定型句を口ずさむ。さながら森のブルースである。

戻ってきたぜ、俺が死んだら残される子どもたちよ
すまない、獲物はぜんぜん獲れなかった
何も狩ることができなかった
嘘じゃない、嘘をついたら、父や母が死んじまう
ブタのでっかい鼻、かつてヒゲイノシシだったマレー人
トンカチの頭みたいなブタの鼻、でっかい目のシカ
夜に光るシカの目、ワニ、ブタ、サイチョウ、ニワトリが鳴いてやがる
あぁ~、獲物はぜんぜん獲れなかった
夜に光るシカの目、ワニ、ブタ、サイチョウ、ニワトリが鳴いてやがる・・・

油ヤシプランテーション脇の夜明けのロギングロード

油ヤシプランテーション脇の夜明けのロギングロード

 反対に、ハンターたちが、ブルースを口ずさむことなく、人々に最も好まれるヒゲイノシシを担いで戻ってくれば、居住地やキャンプは、一気に華やいだ空気に包まれる。解体され調理されたイノシシは、人々の口から胃に流し込まれるように、空腹を満たしていく。獲物がない時は何日も食べられないこともあるが、獲物が獲れた時は、食べたいだけ肉を頬張る。食べて寝、寝ては食べる。しかし、一日に四度も五度も食べつづけると、そのうちの何人かは吐き気を催し、腹痛を起こし、嘔吐や下痢に見舞われることになる。
 そんな時、狩猟小屋から、直接地面に吐瀉物をまき散らしたりすることもある。猟犬たちは群がって、それをなめようと突進する。他方で、食べ過ぎによる下痢は、時を選ばず襲ってくる。下痢に見舞われた人々は、夜中にいきなり小屋を飛び出して、闇に隠れ、近くで下痢便をする。静寂な夜には、時折、放屁と水便の音が、聞かずして耳に届けられたりする。下痢便にも、また猟犬が飛びつく。

撃ち殺したイノシシを担いでキャンプ地に戻るハンター

撃ち殺したイノシシを担いでキャンプ地に戻るハンター

 興味深いのは、プナン語で、「下痢」と「おかゆ」が同じアマウ(amau)と呼ばれることである。そう言われると、形状としては、下痢とおかゆは同じである。私の想像であるが、プナン語では、下痢こそが先にアマウであった。狩猟民であるプナンが、米を作る農耕民と出会って、彼らが作るおかゆを目にした時、目を丸くしたにちがいない。それは、下痢にそっくりだったからである。おかゆは、その日から「下痢」と呼ばれるようになったのである。私の憶測であるが。
 下痢になれば、白飯を食べるのがいいとプナンは言う。ごはんを食べると、下痢はしだいに固くなるというのが、彼らの知恵である。私も試してみたが、白飯を食べると、下痢は本当に回復に向かうから不思議だ。

 さて、糞便について。プナンは、日ごろ、居住地やキャンプから少しだけ離れた森の中の「糞場」で、人目に付かないように用を足す。山刀を手に森に入って、倒木の幹や枝の上にしゃがみこんで、地面に糞便をする。糞便処理に用いられるのは、山刀で切られた木の枝切れである。それで、糞便の残りカスをこそげとる。彼らは、州政府がつくったトイレには目もくれない。それらは、ふつう物置になっている。
 プナンは、糞場を通り過ぎる時、これは、昨日食べ過ぎた誰某のものであるとか、腹を下している誰某のものであると意見を言い合うことがある。「あれだけ猪を食ったのに、熊の肉のようにひどい匂いだ」などと評したりもする。「いやもう少し赤っぽかった」「いやあれはむしろ紫だ」と、視覚に基づいて、感想を述べることもある。そのように、居住空間の近くにまき散らされた糞便は、他の人の目にさらされ、品評の対象となる。それらは、共同体のメンバーの食と健康の指標ともなる。
 こうした、排泄物を管理するのではなく、まき散らすだけのやり方は、故があることなのかもしれない。一般に、霊長類や遊動生活をする人類は、食べ物の皮や残りカス、排泄物のゆくえについてほとんど注意を払わない。プナンの排便をめぐる習慣もまた、こうした狩猟民の遊動性に関わっている。狩猟キャンプの近くの糞場は、遊動によるキャンプの放棄に伴って、やがて移動するからである。
 森のなかで野糞をすることはまた、自然の摂理にもかなっている。今から6500万年くらい前に、地球上で鳥類や哺乳類が栄え始めると、植物は種子散布するために、動物に依存するようになった。動物に種子を遠くへと運んでもらうために、果実は、動物にとっておいしく栄養価の高い食べ物となったとされる。
 熱帯域では、種子散布は、鳥に加えて哺乳類によっても担われる。動物たちは、植物にとっては葉や種子を食べる厄介な存在である一方で、食べた種子を糞として体外排出することで、植物の種子散布のパートナーとなるのだ。プナンもまた、野糞をすることで種子を散布し、植物の役に立ち、さらには、森の生態に深く関わってきたのである。

森の中で涼をとるプナン

森の中で涼をとるプナン

 ある時、プナンの父子を町に連れて行き、ホテルに泊まったことがあった。部屋には、水洗式のトイレとシャワーが一体化したレストルームが付いていた。15歳の男児は最初、レストルームの扉を開けっぱなしにして小用を足した。その後、トイレを水洗せずに出てきた。どうやら、水洗のレバーの使い方が分からなかったらしい。私は、彼に水の流し方を示してみせ、町のトイレでは用を足すと毎回水を流すことになっていると教えた。
 翌朝、男の子は、糞便をするさいにも、レストルームの扉を開けっぱなしにしてしようとした。私が扉を閉めてするように言うと、彼はしばらくして不機嫌な顔で、レストルームから出てきた。糞便処理には、備え付けのトイレットペーパーを使ったようだった。
 その後、父親と二人きりになって、息子のトイレの仕方に話が及んだ時、彼は、他の誰かがすでに使った、狭く薄暗い密閉された空間で用を足すのを、好ましく思っていないのだと語った。そのことから推測すると、プナンの親子は、トイレの箱型の空間で閉め切って用を足すことに違和を感じていたことになる。たしかに、プナンの目から見れば、場所はどこにでもあるのに、みなが同じ閉鎖空間で用を足すというのは、不思議なやり方なのであろうと、私は感じた。先述したように、定住地ではトイレが物置になり、トイレ利用がなかなか進まないことにも、同時に納得が行った。
 糞便処理に関しては、赤ん坊に対するそれが印象深い。赤ん坊は、固形物を口にするようになると、うんちを垂れ流すようになる。オシメなどはない。赤ん坊が便を垂れ流すと、母親は飼いイヌを呼び寄せて、肛門をなめさせてきれいにするのである。イヌの道具的な利用のひとつでもある。イヌが赤ん坊の肛門をぺろぺろとなめると、赤ん坊は気持ちがいいのとこそばゆいのとで、きゃっきゃっと騒いで喜ぶ。
 赤ん坊は成長して幼児になると、高床式の木の板の隙間から糞便をするようになる。糞便処理は、母親が水で洗い流すか布でふき取るか、あるいは幼児自らが棒切れや木の枝に肛門をこすりつけて、残っている糞カスを取り除くというものである。これがやがて大きくなって、木切れで糞便処理をすることにつながる。枝を用いるプナンの糞便処理は、インドや東南アジアで一般的に行われている、ウォッシュレットの起源のような、不浄の手で水を用いて処理をするやり方ではない。彼らは、糞場に行く時には山刀を携えて出かけるのだ。

 糞便の話はこれくらいにして、もう一つの出すこと、放屁について。文化人類学的な放屁論の開拓者、O・呂陵によれば、人間以外の動物たちにとって、放屁とは、少しも可笑しくはなく、いささかも哀しくはない、自然現象の一つに過ぎない。しかしそれは、人類にとっては、「自然現象であると同時に、いやそれ以上に社会的な現象である」。

自然現象とは、その風の暴威の前ではなす術もなく無力な人間も、その個々人がおのれの体内を気儘に吹く風の猛威に全力をあげて抗し、全霊を傾けてその放逸を押し止めなければならない。社会規範がそれを命じ義務づけているからである。こうして体内の自然の風は抗う術もなく社会現象となっているのだ。

「人体が創り出す小さな風もまた、文化の亀裂からふきこんでくる時に、その力は一気に増幅されて極大となり、社会を揺るがす脅威となる」。その意味で、総じて、放屁は「反文化的な現象」となる。
 放屁は、音と臭いを発する点で、聴覚と嗅覚の賜物である。それは、その人そのものとして視覚的に捉えられているひとつのまとまった人格から漏れだす「異質なるもの」ではあるまいか。そのため、放屁は周囲の人々に嫌悪や笑いなどをもたらす。
 反文化的な現象としての放屁は、プナン社会においても観察される。それは、ネガティヴな反応や笑いを引き起こす。森のなかで臭い屁を放るために嫌われているテンをめぐって、以下のようなよく知られた口頭伝承がある。

キエリテンは、かつて森の王であった。あるとき、キエリテンは、人間に大木を切り倒すように命じた。人間が木を切り倒すと、今度は、それを削るように命じた。人間は、その木から何をつくるのかを知らされていなかった。人間は口々に、カヌーをつくるのだろうか、あるいは、板をつくるのだろうかと囁き合った。そのとき、キエリテンは人間に近づいて、耳かきをつくるように命じたのである。人間たちは、大木を切り倒して、そんな小さな耳かきをつくらせるとはいかがなものかと噂した。その後、キエリテンは、動物の王の位から転落し、臭くてたまらないような屁を放る動物となったのである。

「キエリテンのように屁を放る」という言い回しは、時に、臭い放屁を指す表現として用いられる。すぐ後に述べるように、互いに密に接近した社会空間を生きるプナンにとって、屁を放ること、とりわけ、臭い屁を放ることは、その場の空気を乱し、人びとを混乱に陥れるだけでなく、社会秩序をも乱すことになる。
 王が大木を切り倒すように命じて、挙句の果てに小さな耳かきをつくらせたように、臭い屁を放ることは周囲の人々を困惑させることに一脈つうじる。キエリテンは、人びとを惑乱させたことによって、王位から転落し、強烈な匂いを伴う屁を放る動物になったのである。
 他方で、プナンにとって、放屁はほほえましい生理現象であるとも考えられている。人々は、それを、場合によっては、集団で笑い飛ばしてしまう。
 屁を放つとき、音を長続きさせるには、微妙な身体器官の調整を必要とする。プナンは、肛門の括約筋と腹筋を使って、できるだけ長く音を持続させようとし、身体に対する意識を高める。意識的に身体器官を調節して、長い音を出したり、音の数を多くしたりして、工夫して屁を放る。それは、身体を表現媒体として利用する、一種の放屁の美学である。そんな放屁の美学がありありと立ち現れるのは、早朝のことだ。
 プナンは、数家族からなる狩猟キャンプで、家族ごとにまとまって蚊帳を吊り、男女が一緒に雑魚寝をする。夜が白々と明けるころ、誰かが、たいていの場合、男が目覚めて、身体と意識を調節しながら、屁を放つ。すると、そのキャンプに響き渡る「目覚まし放屁」の音に、別の誰かが目を覚ます。彼は、最初の放屁音に応じるように、下腹にたまったガスをどのように放出するのかを頭の中で描いてから屁を放る。どれだけ音が持続するのかを自の課題としているかのような長い音の場合もあれば、音が途切れ途切れに、数多く放たれる場合もある。キャンプではその後、あちらでもこちらでも、いろんな調べの屁が放たれて、やがて放屁合戦とでもいうべき状況が出現する。そうなると、朝から屁祭りだ。
 そこでもまた、放屁の音の長さや続き具合、臭いなどが品評される。

プゥッ、プゥッ、プゥッ、プゥ
プゥッ、プゥッ、プゥッ、プゥッ、プゥッ、プゥーーー
プゥーーーーーー
プゥーーーープッ、プゥッ

 音がすごく長いとか、途切れ方が洗練されてないとか、あるいは、前夜にヒゲイノシシの肉をむさぼるように喰ったことが、その屁を異容なまでに臭くしているとか、食べ物がなく、水ばかり飲んでいたので屁さえ満足に出せないという話題が、早朝の狩猟キャンプで乱れ飛ぶ。屁の放り合いは、食と健康を互いが確認する機会を提供する以上に、寝ぼけまなこの人々を爆笑の渦に巻き込んでいく。朝の目覚めとともに、プナンは、放屁をめぐって高笑いすることで、一日を始める。
 放屁の美学は、家族の成員が密に寄り集まってつくる空間における、ある種の身体技法であると同時に、身体を利用した表現でもある。屁は、暴風となって身体を駆け抜け、人間が奏でる音を伴って、空中へと放たれる。屁祭りが終わり、人々はその後、自由になり、冷静になり、生きる活力をみなぎらせる。

主食のサゴ澱粉と猪肉を囲む華やいだ食事の風景

主食のサゴ澱粉と猪肉を囲む華やいだ食事の風景


 臓器を通過し、変わり果てた姿で色づき、居住空間の周囲にまき散らかされた人々の分身が、強烈な臭いを放つ。人々はそれらを品評しながら、食べたことや食べなかったこと、健やかであることや体調を崩していることを、互いに確認しあう。やがて、それらは静かに土の中へと還っていく。
 体内を気儘に吹き抜ける風の放埓は、無理に押し止められることはない。逆に、男たちは、飼いならすのに精を出す。それらは、それぞれの美的感覚によって生みだされた「作品」として早朝の劇場で奏でられ、寝ぼけまなこの聴衆に、時には嗅覚的な刺激を与えながら、激笑の渦を引き起こす。
 皮膚の内側にきっちりと収まっていて、そこから身動きができなくなっている私たちのそれとは異なる主体のあり方を、プナンは、時として垣間見せてくれる。彼らの日々の振る舞いは、長い時間をかけて、いつの間にか象りされてしまった私たちのやり方とはたいそう異なるように思われる。

 

参考文献
卜田隆嗣 1996 『声の力:ボルネオ島プナンのうたと出すことの美学』弘文堂
O・呂陵 2007 『放屁という覚醒』世織書房

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年7月12日(火)掲載