ゆるやかな性 Heshe Ləəy

2020.5.1

10「カルチャー」「らしさ」の向こう側

 

 昨今、ゲイの著者による著作や発信が相次いでいる。『ゲイ風俗のもちぎさん セクシュアリティは人生だ。』(角川書店)をはじめ、タイトルに「ゲイ」と表記されるコミックスも多く、メディアで歯に衣着せぬタレントが目立つせいか、人生相談形式の連載も多い。一方で、レズビアンの書き手によるものやレズビアンをテーマにした作品はさほど多くなかったり、取り上げられる機会が少なかったりする傾向にあると感じる。『おとなになっても』(講談社)では、女性同士の恋愛が描かれているものの、「レズビアン」という表記は見当たらず「大人百合」とうたわれている。いま思うと、学生時代からゲイカルチャーやレズビアンカルチャーの違いに戸惑うことも少なくなかった。

 大学入学当初、はじめてゲイの知人ハルに連れて行ってもらった新宿二丁目のゲイバーはドラマ『きのう何食べた?』(テレビ東京)などのロケ地にもなるような、界隈でも有名なお店だった。日中はカフェ営業、夜間はバーとして多くのひとで賑わい、常連客からわたしのような新参者までウェルカムでかなりオープンな雰囲気だった。アップテンポな曲が流れる中、ハルはどんどん奥へと進んでいく。長らく通う常連のようで、顔が広く行き交う人たちと楽しそうに挨拶を交わしていた。話を聞き得るかぎりでも、ハルはかなりモテていた。180センチをゆうに超える長身で、いわゆる細マッチョタイプ。ピタッとしたTシャツに短パンというラフな出で立ち。さほど外見にこだわっているようには思えなかったのだが、ハルいわくゲイ界隈でもファッションの流行り廃りがあるらしく、ゲイカルチャーのようなものもあるという。そんな話を、ちょうど『きのう何食べた?』(テレビ東京)のあるシーンを観ながら思い出した。ゲイの史朗さんがパートナーに連れられはじめて訪れたゲイバー。「決まったパートナーがいるのに、声をかけられたら困るだろう?」といままでゲイバーに来る必要性がなかったことをパートナーに伝えると、一言「大丈夫だって。お前、自分じゃ気づいてないかもしれないけど、ここいらじゃ全然モテるタイプじゃないからな」と返されてしまう。結局、その日の史朗は誰からも声をかけられず、鏡に映る自分を見て「OLがスッピンで合コンに行くようなものだったんだ……」とショックを受ける。その場ではなんとも浮いてしまった自分を想うシーンが、印象的だった。

 続いてハルに連れて行ってもらった2軒目のゲイバーは、個人経営でこじんまりとしながらも個性的なお店だった。「あ、そんなおブスと一緒って、なんなの〜」と、ママに出迎えられた。ハルはえらく気に入られている常連のようで、わたしは初対面の相手から開口一番「ブス」と言われたことにややショックを受けながらも席についた。ノンケでストレートらしき者が気軽に来店して不愉快に映ったのかと思っていると、どうやら違うらしい。打ち解けてきたバーのママに聞くと、「もう、冗談に決まってるじゃない」と笑われた。いわゆる「ブス」というのは、この界隈での挨拶のようなものらしい。それにしても少々キツめだろうと思いつつも、ママの人柄に次第に惹かれていった。40代のママはゲイという立場をとり、ハル同様Tシャツに短パンというラフな出で立ちで、マツコ・デラックスさんのような口調が特徴的だった。「おネエ★MANS」(日本テレビ)をはじめ、2000年代初頭にはメディアでもゲイやトランスジェンダーのタレントが多々取り上げられるようになる。おねえブームでノンケの客が増えた時期には「思ったより普通ですね」と言われたり、いわゆるメディアウケするオネエタレントのようなポジションを過剰に求められたりして不愉快な思いもしてきたというママ。「ゲイだから男女両方の気持ちがわかるとか思われて、よく人生相談に乗って欲しいなんていうノンケも来るけど……。正直どっちの気持ちもよくわかんないなりにここまできたから、どうしようもないのにね」と笑っていた。二丁目では「ゲイオンリー」(ノンケNG)をうたう店も多いが、ママのお店では商売上ノンケの客も積極的に受け入れているという。

 日本ではメディアの影響もあり、しばしば「ゲイ=オネエ」と混同されることもあるが現実は異なる。マツコ・デラックスさんはゲイで女装家を公言していて、体は男性。はるな愛さんは、性自認が女性で実際にタイで性別適合手術を受け、男性から女性の体となった。KABA.ちゃんも、性別適合手術と声帯手術を同時に受け、戸籍上の名前や性別も変更している。同じように男性を好きであっても、表装をはじめそれぞれのスタンスは異なる。ゲイライターの伊藤悟さんは、「マツコさんのように男性として男性が好きな人もいれば、はるな愛さんのように“女性”として男性が好きな人、またしぐさは女性的でも男性として女性が好きな人もいる。一方で、『ゲイ』という言葉は男性の同性愛者を指しますが、ゲイだからといって全員が女装をするわけではない。普通に男性の服装をしていて、男性が好きというゲイのほうがむしろ多い」と話す。(※1)実際にゲイバーで出会ったひとたちも、メディアで取り上げられるようなエンターテイナーよりは、先の『きのう何食べた?』のシロさんやケンジのような出で立ちのひとも多い印象を受けた。Tシャツに短パンという出で立ちも、一種テンプレート化された「ゲイ」の表装と言えるのかもしれない。

 一方、同時期にレズビアンの那月に連れて行ってもらったレズビアンバーは雰囲気がかなり違っていた。場所は二丁目界隈に位置し、ゲイバーとも至近距離だったのでなおさら驚いた。レズビアンのオーナーが切り盛りするお店は女性限定のカフェのような雰囲気で、女子校育ちのわたしは慣れるまでにそれほど時間はかからなかった。店内は数組が利用できるような間取りで、各テーブルごとの距離も一般的な飲食店よりもゆとりがある。半数以上の席の天井からは天蓋カーテンのようなものが吊るされていて、店内もやや薄暗い。那月いわく、身バレしたくないお客さんを思ってのオーナーなりの心配りだという。周囲にはカミングアウトしていないひとも多く、なかには学校の先生をしていて、学区からかなり離れたこの店を目当てにわざわざ足を運ぶひともいる。那月やその友人の話を聞いていると、代表的な「レズビアン・アイコン」のようなイメージをもっているひともさほど多くはなく、いわゆるレズビアン同士でモテるファションについても顕著な傾向はないと言う。たしかに、店内にはフェミニンな服装のひとからビジュアル系のまでさまざまで、当時通っていた女子大とさほど変わらないような感じがした。

 よりオープンな雰囲気で活気のよさが印象的なゲイバーと、こじんまりとしていて、よりクローズドな空間を重んじているレズビアンバー。その後、連れて行ってもらった別のお店でも似たような傾向があった(たまたま連れて行ってくれたひとたちの好みによるのかもしれないが)。思えば、タイのゲイ友達とペーに連れて行ってもらったバンコク市内のゲイバーも新宿二丁目と似たような雰囲気だった。以前バンコク市内で「カトゥーイ」として紹介を受けたひとたちと昨年、8年ぶりに再会することができた。すると、「LGBTQの『G』」「ゲー(Gay)」として自己紹介し直してくる人たちが複数いて、服装もフェミニンなものからTシャツに短パンという出で立ちに変わっていた。別人かと困惑してしまうほどで、カトゥーイによくみられる独特の語尾「チャーイ」も聞き取れなくなっていた。以前は、ペーのように男性から女性への性別越境者、トランスジェンダーとして自らを「カトゥーイ(kathoey)」と名乗っていたはずなのに……。「彼らはバンコクで長く働いてから変わったみたい。洗練されたからか、なにか勘違いして強がってるのかもね」とペーは小声で漏らし、皮肉っぽく笑ってみせた。

 タイにおけるセクシュアリティ、ジェンダーについて、ジャクソンらの研究では「第三の性」としての「カトゥーイ」を従来のタイのカテゴリーとすれば、1960年代から複雑なカテゴリー分化が進行したと指摘する。男性的な女性を「トム」、そのパートナーである女性的な女性を「ディー」、バイセクシュアルの男性を「スアバイ」と呼び、ゲイの男性のなかでも、受動役割、能動役割、両役割があるとした。(※2
 以降、西洋のセクシュアリティ観が流入しはじめたこともあり、とくに都市部では「LGBTフレンドリー」やその象徴としてのレインボーフラッグを掲げる店やホテルも数多く見られるようになる。こうした一連の動きは、タイを訪れる観光客向けの施策としてわかりやすく機能するだけではなく、少なくとも、国内における従来の呼称や自称までもを西洋化、画一化させてしまう方向に作用したのではないかと思う。ただ、むずかしいのは安易に「カトゥーイ=Thailand Transgender」とすることはできない点にある。カトゥーイである自身に誇りをもつペーやその仲間の語りから多く聞かれたのは、「あくまでもカトゥーイはカトゥーイなのだ」ということだった。一方で、カトゥーイはいわゆる差別的な意味合いを有してきた側面もあり、本人が自称するのと他者が「あのひとはカトゥーイだ」と言うのとでは、ニュアンスも違ってくる。カトゥーイについては先行研究がさほど多くないということもあり、まだまだわからないことも多く、奥が深い。

 ゲイやレズビアンカルチャー、そしてわたしなりに感じてきたことについて書いたが、結局のところ、「LGBTQ+」に代表されるセクシュアルマイノリティのなかの、「ゲイらしさ」「レズビアンらしさ」「トランスジェンダーらしさ」……そんなテンプレートのようなものはどうだっていいのかもしれないと、タイのカトゥーイと接していると常々感じる。日本では、心許せるメンバーが多いだろうコミュニティにおいても、メディアや周囲に構築された「らしさ」のイメージから逃れられず、かえって辛そうなひとたちを見てきた。実際、マッチングアプリがまだ浸透していなかった当時、那月はよくレズビアンのオフ会に定期的に参加しては、仲良くなった子とレズビアンバーに通っていた。大学入学当初は右も左もわからず手当たりしだいに参加していたからか、オフ会と言えどもピンキリで、なかには参加前にクエスチョンシートなるものを書かせるコミュニティもあったという。「フェム」(よりフェミニンなレズビアン)、「中性」(中性的なレズビアン)、「ボーイ」(より男性寄りのレズビアン)というカテゴリから選択する形式で、なんとも居心地の悪さを感じたそうだ。マイノリティの中でさらにカテゴライズ化を強制され、ラベリングされる対象としての自分をなんとも惨めに思ったと話す彼女はとても窮屈そうだった。

「男らしさ」「女らしさ」はもちろん、結局「らしさ」なんてあってないようなもので、周囲からの勝手な見立てだったり、時代によって移ろいやすく、脆かったりするものなのだろう。わたしも長らく性自認が揺らぎ、「わたしらしさ」なんてものも一向に定まる気配がない。思春期真っ只中、中学・高校時代には性別違和感に悩み、いわゆる「性同一性障害」なのかと悩んだ時期もあったが、同時に医学が過剰に介入している感が否めない昨今の日本の現状も知り、複雑な心境になったことを覚えている。刷り込まれてきた“あたり前”から距離をおき、日本の向こう側に目を向け続けて数十年。数多くのカトゥーイと接していても、ますます「kathoeyらしさ」がわからなくなる度に、目の前にいる「そのひとらしさ」に触れて魅力を感じる度に、このあいまいな性をそのまま引き受けて生きていくのもそう悪くはないのかもしれないと、改めて思うのだった。

カミングアウト・フォト・プロジェクト「OUT IN JAPAN」の大型写真展(「東京レインボープライド2019」会場にて)

 

※1:『女性セブン』(2010年12月2日号)
※2: Jackson, Peter A. & Nerida M. Cook (eds.) [1999] Genders and Sexualities in Modern Thailand, Chiang Mai: Silkworm Books.
Jackson, Peter A. & Gerard Sullivan (eds.) [1999] Lady Boys, Tom Boys, Rent Boys: Male and Female Homosexualities in Contemporary Thailand, Chiang Mai: Silkworm Books.  

 

(第10回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
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