熱帯のニーチェ 奥野克巳

2017.5.12

13アホ犬の末裔、ペットの野望 I

おまえが永いあいだ深淵をのぞきこんでいれば、深淵もまたお前をのぞきこむ。

『善悪の彼岸』

 その頃、私は、プナンの3家族10数人とともに、アレット川沿いの油ヤシ・プランテーションの近くの狩猟小屋で寝泊まりしていた。夜が白々と明けはじめた午前6時前に、遠くから犬の吠え声が聞こえた。犬は、けたたましく吠えていた。ジャヤは、その吠え声が彼の犬、ピシットのものであると分かると、起き上がって腰に山刀をさし、ライフル銃を手に取って、小屋から飛び降り、吠え声がする方に向かって走り出した。ピシットがヒゲイノシシを追い立てていることを直観した私も、蚊帳の中から飛び出して、ジャヤにつづいた。5分もかからないうちにロギングロードにたどり着くと、あたりはようやく明るくなってきた。ジャヤは一瞬立ちどまって、ピシットの吠えつづけている方向を聞き定めた上で、一目散にそこを目指した。ピシットは、低く唸りながら仔イノシシに噛みついていた。ジャヤの「やめろ」という声を聞くと、ピシットは噛みつくのをやめ、後ずさりした。ピシットが口を離した部位から、血が勢いよく噴き出した。代わってジャヤが、山刀を振り上げ、もがく獲物の首の後ろを両断した。ジャヤは、「ピシットが食べてしまうところだった」と私に向かって呟き、地面に斃れた仔イノシシを片手で持ち上げた。
 それは、早朝の10分くらいの出来事だった。我々とともに小屋で寝ていたピシットは、闇の中に、親子で群れているヒゲイノシシの匂いを嗅ぎつけ、動きを察知したのではなかったのか。足音を忍ばせて近づき、吠えながら事態を主人に知らせ、ついには仔イノシシを追い詰めたのである。ピシットは、主人であるジャヤに忠実にとどめを指す役割を明け渡した。私はその時、人間にとっての犬の存在意義をまざまざと見せつけられた気がした。犬とは、本源的には、人間にとっての労役的存在である。
 犬が人間にとっての労役的存在であることを、獲物の視点から教えてくれるのが、映画『ノー・エスケイプ 自由への国境』(2015年、メキシコ=フランス)である。アメリカに入国を企てるメキシコからの15人の不法移民たちが、米墨国境の沙漠地帯を徒歩で抜けようとする。その時、正体不明の襲撃者に突如発砲される。その「人間狩り」の中でひときわ大きな役割を果たすのが、トラッカーと名づけられた襲撃者の犬である。隠れる場所がほとんどない沙漠のど真ん中で、まずは犬が移民たちを執拗に追い詰め、襲撃者はスナイパー銃で、無慈悲に襲いかかる。一体となって襲い来る犬と襲撃者に、獲物となった移民たちは、恐れおののき、逃げ惑う。犬がいなければ、襲撃者は獲物に近づくことも、射撃することもできなかったであろう。犬とは、かように、人間の活動の力を倍加させてくれる労役的存在である。

ヒゲイノシシの膀胱を咥える犬

ヒゲイノシシの膀胱を咥える犬


 犬について、菅原和孝は、『動物の境界』の中で、以下のように述べている。

  犬は能力資本であり、特異な洞察能力と犬的身体の構造とが不可分
  に結びついた機械である。

牧羊犬は、自分の仕事をわきまえ、いちいち人が命令しなくとも、嬉々として走りまわって牛や羊の群れを畜舎に追い立てる。猟犬も、自分の仕事をわきまえ、動きや匂いを察知して獲物を追い回し攻め立てる。自らのためではなく、主である人間のために。その意味で、菅原が言うように、「家畜化された犬の本性は『労役(作業)犬』として働くことである。人と犬とのもっとも健全な関わりかたとは、人の統制下で犬が労働することである」。
 プナンにとっても、犬とは、まずもって狩猟の機械である。

 プナンの口頭伝承では、犬が狩猟の労役に用いられるようになった経緯が語られる。
 人間は最初、虎を捕まえて、それを用いて狩猟に出かけたが、虎は獲物に接近しても吠えないので上手くいかなかった。次に猫を用いたがこれも吠えず、狩猟はうまくいかなかった。その後、猫科をあきらめて、プナンは犬とともに狩猟に出かけた。すると、犬は獲物を見つけ出して吠えたので、獲物が獲れるようになった。それ以降、人間は犬を大切に育て、猟に連れて行くようになった。
 犬は、この話の中で示されているように、もともとプナン社会にいたのではなく、外部の人間社会から導入されたようである。それにもかかわらず、犬を用いた狩猟は、プナンによって高い水準にまで洗練されたとされる。プナン研究者のラジンドラ・プリは言う。

  犬猟は、(狩猟民)プナンに特徴的なものとなった。というのは、
  彼らは犬を育てる技能をマスターし、家の中で犬に餌をやり、眠ら
  せることさえあるのだと農耕民たちに言われている。プナンは森の
  中でイノシシを追跡する強健な能力を持ち、かつ身体が大きく危険
  な獲物に向き合って、それを殺害する勇猛さと技量を持ち合わせて
  いるからである。

 森の中でのプナンのたぐい稀なる狩猟精神と体力が、犬を高度な猟犬へと成長させたのである。プナンは「良い犬(aseu jian)」を高く評価する。良い犬は狩猟の際に敏捷にヒゲイノシシを見つけ出し、森の中でヒゲイノシシに出くわしたなら、遠くにいる人間にまで届くように吠えながら、追いつめるまで我慢強く追跡する。ヒゲイノシシが逃げたら、プナンはそれを犬のせいにすることさえある。

ヒゲイノシシを追いかける犬の動きを遠巻きに待つ狩猟者たち

ヒゲイノシシを追いかける犬の動きを遠巻きに待つ狩猟者たち


 ところで、人類と犬の付き合いは長い。近年の有力な説では、今から1万4000年ほど前に、犬は家畜化されたとされる。人間と犬のパートナーシップは、人間による家畜動物の飼育化に先立っており、人間と犬の関係が、動物の家畜化を準備したという仮説も提出されている。これに対して、人間とオオカミの関係の起源が10万年前に遡ることができるとする遺伝学的証拠に沿って、今から5~10万年前に、カニス・ルプス(オオカミ)からカニス・ルプス・ファミリアリス(犬)へと進化したという説もある。その説が正しいとすれば、人間と犬の関係は、いまから5万年ほど前に起きたとされる「文化のビックバン」、すなわち、人間が人間である証としての宗教や芸術の誕生に先んじていたことになる。人間と犬は、他の動物との間には見られないような、長い長い時間をかけて共進化してきたのである。そのため、「犬がヒトをつくりだした(dogs makes human)」という言い方がなされることもある。
 犬に関する動物学の研究は、すでに相当の蓄積がある。他方、人文科学では近年、心理学の観点から犬の気持ちに接近したスタンレー・コレンの研究や、人類学者であったエリザベス・M.トーマスによる身近な犬をめぐる探究などがある。最近では、ダナ・ハラウェイが、人間と犬は他者であると同時にかけがえのないパートナーでもあるという、「意味ある他者性(significant otherness)」によって結ばれていると唱えて、犬をめぐる人文科学の研究を牽引している。

 人間の目を見て、意味を読み取らせる認知をめぐる比較動物学的な実験によれば、犬は、遺伝上人間に最も近いチンパンジーと比較して、人間に対してより協力的だとされる。『ヒトは犬のおかげで人間になった』の著者ジェフリー・M.マッソンは、以下のように指摘している。

  犬は私たちの心を読み取る。心を知りたがる。絶えず表情や体の動
  きから感情を理解しようとするのである。不思議なもので、人間よ
  りも犬のほうが人の気持ちを理解できることも多い。他の動物が人
  間の感情を気にかけるとは思えず、これほどまでに注意を怠らない
  のは犬のほかにはいないだろう。

犬は人間の心を読み取り、人間よりも人間の気持ちを理解できるほど、人間にとっての大切なパートナーである。ニーチェの言葉をもじって言えば、「おまえが永いあいだ犬をのぞきこんでいれば、犬もまたお前をのぞきこむ」。かくのごとく、人間と犬の関係は深い。

 しかし、人間と犬のパートナーシップは一様ではない。互いの深淵をのぞき込むかのような関係を築くのではなく、犬を毛嫌いしたり、邪険に扱ったりする人たちがいる。インドネシアのバリ島では、人間は犬を叩き、石や棒を投げつけるだけでなく、車の運転中に、ブレーキを踏まずに轢いてしまうことさえある。「犬は泥棒の生まれ変わり」だという考えに基づいて、犬に対する暴力は、前世の罪の当然の報いだとされる。バリ人は、バリ島ではなくアメリカで生まれ、可愛がられる犬は、よいカルマの報いだとも言う。それもまた、犬に対する人間のひとつの態度である。

人の周りをうろつく犬

人の周りをうろつく犬


 犬に対する人間の態度の文化による違いを考える上で示唆に富んでいるのは、エドゥアルド・コーンの民族誌である。南米エクアドルのキチュア語系の先住民ルナ社会の人間と犬の関係を描きだしたコーンによれば、ルナは、犬は言語を解さないと考えている。人間の言語を用いて、犬とやり取りできたら、人間と犬の境界が曖昧になる。それは、ルナにとって危険なことである。そうだとすれば、人間が犬に対して何かを教えなければならない時、いったいどうするのか。
 ある時、一匹の犬が性的に活発になったのと引き換えに、森の中で動物に気づく能力、つまり狩猟能力が減退した。飼い主は、その犬を捕まえて、犬の口を草の束で縛ったうえで、「ツィタ」という名の、アグーチ(げっ歯類の哺乳動物)の胆汁のような、植物と他の物質の混合物を犬の口中に注ぎ込みながら、唱え言をした。それは、犬をシャーマン的な状態にすることに関わっている。ルナの世界観では、「犬<人間<森の霊的な主たち」という宇宙的な階層秩序が存在する。下位の存在が上位の存在にコミュニケートしようとする場合には、人間が森の霊的な主たちとコンタクトする時のように、意識の状態を変えなければならないとされる。
 唱え言では、犬に対して二人称が用いられることはない。ルナは、直接犬に呼びかけることはない。代わりに、犬に呼びかける時には、「それ」という三人称が使われる。厳密にいえば、犬に命令する時には、「斜格」という形式が用いられ、二人称の相手に対して、三人称で語りかけるような形式で指令が出される。コーンは、犬に命令する時に用いられる言語を「種=横断的なピジン」と呼んでいる(ピジンとは、異言語間の言語接触によって生まれた言語のことである)。種=横断的なピジンは、「ピジンのように、緩められた文法的構造によって特徴づけられる。それは完全な『語尾屈折』をせず、『最小限の節の埋め込み』と単純化された人称の指標を示す」。犬に対する語りかけには、人間と犬との種の違いをまたぐピジンが用いられる。
 私たちは、人間と犬は言語のレベルで交通可能だと、漠然と考えているのかもしれない。しかし、ルナに言わせれば、犬は人間がもつ言語を持たないし、それを解することがない。種=間のコミュニケーションを可能にするために、ルナは種=横断的ピジンの中に犬の発話要素を用いて、人間の言語に統合されないような「言語」をつくり出してきた。ルナは、人間のものでもないけれど、犬のものでもない、両者のインターフェイス上にひとつの言語のようなものを生み出して、人間と犬のコミュニケーションを成り立たせてきたのである。
 別の時に、調査地にコーンが連れて行ったいとこのヴァネッサが、二度にわたって、イラリオの家の犬に咬まれたことがあった。ルナの家族はこの時も、犬に幻覚性物質の混じったツィタを与え、犬をしつけた。
 取り組まなければならなかったのは、人間の言語を使用せずに、いかに「するな」を伝えるのかという難題だった。犬に咬むことを教えるには、咬む動作を繰り返すだけでよいが、ルナは、犬に咬まないことを教えるために、鼻を縛って、犬に咬む動作をさせたわけである。鼻を縛っていたために、犬は実際には咬むことなく、傷を負わせるようなことはなかった。コーンによれば、犬への命令が、「類像記号」と「指標記号」を組み合わせた記号過程によってなされたのであるが、彼の解説はここでは措くとして、ルナが、最初から最後まで、犬の観点に立って、犬に命じたことは見逃されてはならないだろう。ルナは、犬を人間の領域に呼び込むために、犬に幻覚剤を注ぎ込み、人間の言語を理解しない犬の立場に立って、犬に人間の言うことを分からせようとしたのである。
 人間と犬の間のコミュニケーションを探究するコーンの民族誌は、私たちが当たり前すぎて疑うことがない、種=間のコミュニケーションを問い直すものであるように思われる。私たちは、人間と犬のパートナーシップを、長い共進化のプロセスを経て、犬と人間が相互に理解しあうことができるようになったことを前提として考えてしまいがちである。コーンの議論は、私たちのそうした認識に対するひとつの問題提起にもなっている。
 ここで見たように、ルナは、犬は人間の言語を理解しないと考えていた。それに対して、プナンは、犬の中には、人間の言語を解する犬と、解さない犬がいると考えている。前者は良い犬で、後者は「アホ犬(aseu saat)」である。


 プナンにとって犬は、ヒゲイノシシやマメジカやブタオザルなどと同じ「動物(kaan)」カテゴリーに属している存在ではない。犬は「犬(aseu)」というカテゴリーに分類され、そのカテゴリーに分類されているのは、犬のみである。犬はまた、ブタやニワトリなどの他の家畜とも異なる。プナンは、犬以外の家畜を飼っていないが、近隣の焼畑稲作民が家畜化しているブタやニワトリを、人間に飼い馴らされている点で、野生動物よりも一段低い存在であるとみなしている。プナンは、犬を除いて、人の手によって飼い馴らされたものを野生のものよりも下位に位置づけるのだ。そのことは、飼いブタよりも野生のヒゲイノシシ、飼われているニワトリよりも森の中のキジのほうが肉の味がいいという言い方に、端的に示される。
 すでに述べたように、プナンにとって犬は、特別な存在である。それは、人間以外のあらゆる存在者のうち、人間(kelunan)に最も近い存在である。それどころか、犬は一般に、人間の赤ん坊よりも人間に近いと考えられている。
 プナンにとって、人間は「身体(tuboh)」、「魂(baruwen)」、「名前(ngaran)」という基本構成要素がそろった存在である。発育や成長によって形態面で変化し、物質的な条件の影響を受けやすいのが「身体」であり、揮発的で実体がないために、自由に動き回ることができるのが「魂」である。その二者の結合は不確かであり、その結びつきを固めるのが「名前」であるとされる(第8回「デス・ネームと死のドラマトゥルギー」参照)。生まれたばかりの赤ん坊(赤い子)は、身体と魂はあるが、まだ名前はない。よちよち歩きを始めたころに、先祖の名前から選んで、赤ん坊に名前が付けられる。それに対して、犬には人間と同じように、これら三つの基本構成要素が備わっている。
 犬には、サブン(石鹸)、ムアット(強い)、ディマック(車の名前)や、冒頭で述べたピシット(懐中電灯)など、人間に付けられることがない個別名が付けられる。人間の赤ん坊に名前が付けられず、たんに赤ん坊と呼ばれるのとは対照的である。その点で、犬のほうが、生まれたての赤子よりも人間に近い存在なのである。犬は、名前を与えられることをつうじて、人間を頂点とする社会の階層秩序の中に組み入れられる。
 プナンは、眠っている間に尻尾を動かす犬は、「霊」を見ているのだと言う。夜中に急に鳴いたり、吠えたりする犬もまた霊を見ているとされる。その意味で、プナンにとって、犬は目に見えない超自然的な世界にも通じる存在である。霊に会った時にも犬は吠える。獲物がいないのに吠えた場合、犬が霊を見たからだとされる。プナンは、犬を、人間社会の中に居ながら、人間と霊的な他者とのインターフェイス上にいる存在としても位置付けている。

 プナンの犬は短命であり、長生きしたとしても2、3年である。犬は共同体の内部で繁殖せず、プナンは、犬の繁殖の管理にいっさい携わることがない。プナン社会で生殖することもあるが、それはプナンが与り知らぬことである。すでに述べたように、犬は、一般に、共同体の外部からつれて来られる。遠くのプナンの共同体に出かけた折には、犬を数匹連れて帰ってくることが一種の慣わしとなっている。また、近隣の焼き畑稲作民たちから犬をもらったり、買ったりすることもある。
 良い犬を手に入れるための手がかりがある。それは、胸部から腹部にかけてある五対の乳腺である。その並び具合や大きさや見た目に基づいて、犬のよしあしが一時的に判断される。プナンの見立てでは、乳腺の位置や大きさが、能力や性格などに対応している。それは、個人のそれまでの犬経験の積み重ねからひねり出されるもので、プナンはよく犬をひっくり返して、乳腺を見ながら、これは良い犬になる、いやアホ犬だと、犬談議をしている。
 しかし、良い犬の素質を示す身体的な特徴を持っているように見えるとしても、必ずしも良い犬になるとは限らない。良い犬をめぐる共同体外との贈与交換では、良い犬とともに、アホ犬候補もまた同時に引き渡される。その意味で、共同体には、良い犬とアホ犬が入り混じっている。特別良い犬は、一匹1000マレーシア・リンギ(2017年現在、約2万7000円)という高値で取り引される場合もある。
 犬はまた、共同体の内部で贈与されることがある。AからBへと贈られる場合、犬たちはBのものになる。贈られるのは、つねに良い犬である。飼育されるというよりも、餌が与えられるだけであるが、そうした犬たちは、AとBの社会関係の目印となる。贈与の線をたどって、人間と犬から成る狩猟仲間が築かれるからである。その犬を使った猟で獲れたヒゲイノシシの頭の取得権は、Aに帰属する。

前日の猟でヒゲイノシシを捕えた「よい犬」

前日の猟でヒゲイノシシを捕えた「よい犬」


 すでに述べたように、プナンは、犬を二種類に明確に区別する。狩猟において力を発揮する良い犬と役立たずのアホ犬である。プナンは、犬には「人間の言葉を理解できる犬」と「人間の言葉を理解できない犬」の二つの種類がいると考えている。
 狩猟をめぐる民話のなかに、良い犬とアホ犬が出てくる。

  ヒゲイノシシがやって来て、犬に力があるかどうかを問い尋ねた。
  アホ犬は、自分は速く走れるし、強いと言った。それを聞いたヒゲ
  イノシシは自らを鍛え、犬よりも早く走り、追いかけられても逃げ
  切った。ヒゲイノシシの問いかけに、良い犬は、自分は弱くて速く
  走ることができないと答えた。良い犬はヒゲイノシシよりも速く走
  って、ヒゲイノシシを捕まえたのである。

 ここでは、頭が働くかそうでないかを基準にして、プナンの犬が、良い犬とアホ犬に二分されている。アホ犬は、自らの力を自慢げに話したため、獲物であるヒゲイノシシに備えをさせ、猟の場面で獲物に逃げられてしまう。他方で、良い犬は、自らの力を控えめに表現し、獲物であるヒゲイノシシを油断させ、獲物を仕留める。良い犬は、自らを控えめに表現するという、人間の取るべき態度の範を垂れている。
 良い犬とは、日常の文脈では、人間が餌を与えても、食べよと命じられるまで待つ犬のことである。他方、アホ犬とは、食べ物を求めることに汲々としていて、人が言葉で命じても理解できず、食器や鍋などをひっくりかえしたりして、人々に混乱を引き起こす犬である。プナンは、良い犬の場合には慈しんで餌を与えて育てるが、アホ犬には餌も十分に与えず、ほったらかしにしておく。
 食事の最中に人間の周りをうろついたり、人間同士が話しているところに割り込んできたりした犬たちは、激しい言葉を投げつけられ、追い払われる。それらは、だいたいアホ犬たちである。「アジェ、アジェ」という言葉で追い払う。木の棒で叩かれることもあるが、ふつうは、棒で叩くしぐさだけで追い払われる。犬に対して実質的な暴力が用いられることはほとんどない。プリは言う。

  (狩猟の)先導犬は、つねに慈しまれ、よく世話されて扱われる
  が、一方で、弱く、病気がちの犬は、いつも軽視され、結果的に死
  んでしまう。

先導犬とは、狩猟で力を発揮するよい犬のことであり、弱く、病気がちの犬とは、狩猟という労役を十分に果たすことができないアホ犬のことである。良い犬が死ぬと、人間と同じように土の中に埋葬して、哀悼の意を表す。他方、アホ犬の死体は、川か藪の中に投げ捨てられる。人々は良い犬の死後、その名をあげて、あれは良い犬だったのにと、語ることもある。
 飼い主との関係性は、一般に、犬の側の適応性と潜在的な忠誠心によって高められる。良い犬には、そうした資質が備わっていると見なされるため、人の近くに寄ってきた時には撫でられたり、引き寄せたりして可愛がられることがある。ただし、いつもべったりと世話をするというような関係は築かれない。「お手」「座れ」などの芸を覚えさせるというようなことはまったくない。


 プナンはふつう、狩猟に長けた良い犬だけを森に連れて行く。より精確には、付いてくるように仕向ける。あるいは、狩猟者が森に入る時に、良い犬は自然と走り出す。狩猟者に先んじて森の中に入って行き、ヒゲイノシシやシカなどを吠えて追い詰め、喉元に食らいつく。「やめろ」という合図を与えなければ、冒頭で見たように、犬はヒゲイノシシを殺してしまう。解体や料理・食事の場面で、働いた犬には褒美としてヒゲイノシシの血や肉、骨などが与えられる。

 では、狩猟のお伴をしないアホ犬は、プナンの社会にどんな風に居場所を見つけ、存在しているのか。さらに、アホ犬の生き残るための戦略とは、いかなるものか。それらは、次回に語ることにしよう。

 

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2017年6月13日(火)掲載