熱帯のニーチェ 奥野克巳

2017.8.15

16最終回 開かれた全体としての森

 

 いかなる動物も、したがってまた哲学者なる動物も、おのれの力が十
 分に発揮されえて、おのが権力感情の最大限が達成されるのに好都合
 な最善の諸条件を求めて、本能的に努力する。いかなる動物も、また
 同じように本能的に、しかも<すべての理性よりも優れた>鋭敏な嗅
 覚をもって、この最善への道を塞ぐ、また塞ぐかもしれないあらゆる
 類いの妨害や邪魔者を忌み嫌う。

『道徳の系譜』

 

 8000万年ほど前の白亜紀の中期、これまでで地球の気温が最も温暖だった。その頃、動物に花粉や種子を運んでもらうように進化した被子植物が栄えるようになり、地球上で生命活動が盛んになった。4000万年ほど前の第三紀になると、今度は、地球は寒冷化に向かい、かつて地球上に広がっていた被子植物の森は赤道付近だけに限定されるようになった。現在、熱帯雨林が、アフリカ大陸、東南アジア、中南米の一部に残っているのは、白亜紀に大陸の分割が始まった結果である。
 東南アジア島嶼部では今日、海洋性の湿った空気が循環し、夏にはチベット高原で、冬には西太平洋で暖められた空気が上昇気流を生み、モンスーンとなって雨を降らせ、熱帯雨林を潤す。植物は、水分と栄養分を土壌と光から吸収する。水分と栄養分の絶対量が限られているので、植物の種は資源をめぐって競合する。熱帯雨林では、生存をめぐる激しい競争が行われるため少数の種しか生き残ることができないように思われるかもしれない。しかし、実際には、同じ場所に多種の植物がひしめき合っている。
 ボルネオ島の熱帯雨林では、フタバガキやマメ科の樹木には、高さ70メートルにも達するものがある。1ha400種以上の樹木が生育し、50ha1200種を超える樹種が確認されている。その樹種の多さは、地球上の他の森林形態を圧倒する。標高600メートルくらいまでの低地に分布する混交フタバガキ林は、数メートルの高さの草本層、数メートルの高さの低木層、10メートル以上に成長する亜高木層、林冠を形成する高木層および樹高60~70メートルに達する突出木層から成る。
 混交フタバガキ林での生命活動は、低温や乾燥という気候条件の制約を受けることはない。季節性がないため、そこでは、平均して数年に一度の割合で、多くの植物で一斉に花が開き、その後、一斉に実を結ぶ。
 一斉開花・一斉結実はなぜ起きるのか? 二つの説がある。一つは、動物が一年中活動できる熱帯では、連続的に種子を生産すると全ての種子が食べ尽くされるので、ふだんは種子を作らずに捕食者を飢えさせておいて、時々種子を作り、飽食して食べ残させるという、ヤンツェンらの「捕食者飽食仮説」。二つめは、同種の樹木が離れた場所に生育していることが多いため、一斉開花して花粉を運ぶ昆虫や動物を一気におびき寄せることで、繁殖効率を高めているとする、井上民二らの「送粉仮説」。ここでは、送粉仮説に沿って、ボルネオ島の混交フタバガキ林の動植物の活動を粗描してみよう。

 湯本貴和は、「現在の熱帯雨林は、白亜紀中期以降過去一億年の歴史を記した、被子植物や昆虫や脊椎動物との共進化の産物である」と言う。新生代に、地球上で鳥類や哺乳類が栄えると、種子散布を動物に依存する植物が出現した。移動距離のある動物に種子を運んでもらうために、果実は、動物にとっておいしく栄養価の高い食べ物となったとされる。
 植物は次世代を生みだすために、「送粉」によって種子を散布する。種子散布にはそれ以外に、「風散布」、「水散布」、「動物散布」、落ちるだけの「重力散布」、自分ではじける「自発的散布」がある。熱帯雨林では、これらのすべての種子散布が観察される。
 サラノキ属の花弁は完全に開くことがなく、基部に近い部位で、花弁間に隙間ができる。体長1ミリ前後の微小昆虫、アザミウマ目だけが、このわずかな隙間に入ることができる。サラノキの一種は、送粉を数種のアザミウマに完全に依存している。
 一斉開花期以外での混交フタバガキ林における最も重要な花粉媒介者が、ハリナシバチである。形態的に特殊化していない花の花粉は、ほとんどがハリナシバチによって運ばれる。他方で、オオミツバチは、一斉開花直前に混交フタバガキ林にやって来る。オオミツバチは、盛んに花粉を集めて働き蜂を増やし、新しい巣を作る。一斉開花が終わりに近づくと、オオミツバチは旅立ちに備え、燃料となる蜜をため込む。

オオミツバチが巣をつくった突出木

オオミツバチが巣をつくった突出木


 植物は昆虫や動物に送粉を担ってもらう反面、食害に遭う。ゾウムシは、フタバガキの未熟果実に産卵する。果実に穴を空け、尻にある産卵管を差し込んで卵を産みこむ。こうした食害を防ぐために、植物は棘をまとい、毒を含む被食防衛物質を含むようになった。
 鳥媒花とは、トリによって送粉される花のことである。花は、色覚が卓越した視覚によって行動する訪花性のトリを惹きつける。そのため、熱帯の珍奇な花は、特殊な送粉者をもつ特殊化した花である。
 熱帯では、トリに加えて、オオコウモリやサルなどの哺乳類も種子を散布する。大型のオラン・ウータンだけに食べられるために大型化した果実が、ドリアンやチュンペダである。果肉も甘くて多い。狩猟によってオラン・ウータンがいなくなった地域では、種子は樹木の根元に落ちるだけで定着できない。こうした「吐き出し散布型果実」は、人間にも好まれる。
 霊長類のうちラングール属のリーフモンキーは、樹上で暮らし、木の葉、若い枝や種子をかじったり、果実を食べたりする。小型の類人猿であるテナガザルも樹上性で、長い手を利用して、小枝をたわめて果実をとったりする。果実を中心として、若い葉、茎、花、トリの卵やひな、昆虫、はちみつなどを食べる。霊長類は、果実を食べて糞として体外排出することで、種子を散布する。
 地上性の動物たちは、植物にとっては葉や種子を食べる厄介な存在である。しかし、食べた種子を糞として排出することで、種子を散布させる。ヒゲイノシシは、落下した果実、種子、木の根、若い灌木や草、ミミズ、カエル、ヘビなどの小動物を食べる雑食性である。
 ボルネオ島に生息する動物の多くは、1年を通して個体数が大幅に増減することもなく、明確な繁殖期もない。イチジク以外の樹木の一斉開花・結実は低調で周期的サイクルはないが、数年に一度、一ヶ月以上雨が降らない時期が続くと、その12か月後には野生のマンゴー、ドリアンが次々と開花し、さらに25か月後には、大量の果実がなる。一斉結実は23ヶ月続き、その間にヒゲイノシシ、サイチョウ、ネズミ、リスなどの果実食動物の個体数が増加する。
 植物は自らが繁栄するために動物を工夫して利用し、動物もまた自らの生存のために植物を食対象として利用してきた。熱帯雨林では、このように、生態学的に高度な社会システムが築かれてきたのである。植物と動物の共進化によってつくりあげられてきた一億年の熱帯の森に、ずいぶん後になってから「人間」が入りこんだ。約20万年前にアフリカで誕生した現生人類は、出アフリカ後、今から42千年前ごろにボルネオ島にたどり着いたとされる。熱帯雨林が先にあり、動植物によって織りなされる生命活動の真っただ中に入りこんで、人間が暮らすようになったのである。
 人間は、ボルネオ島の熱帯雨林の新参者にすぎない。プナンは、熱帯雨林で捕食している点で、さしずめ、その末裔であろう。そんなちっぽけな人間存在が、熱帯雨林の中で、どのように生命活動を営んでいるのだろうか。

 プナンは、フェノロジー(生物変化)に関してつねに大きな関心を払う。そのことは、最大の好物であるヒゲイノシシの分類に如実に表れる。彼らはヒゲイノシシを三種に分け、一斉開花や結実との関わりで、その到来や食感などに言及する。
 「一斉開花の(時期に獲れる)ヒゲイノシシ」に脂身はない。「キュウカンチョウのヒゲイノシシ」と呼ばれるヒゲイノシシも同様である。それは、一斉結実の季節にやって来るキュウカンチョウの落とした実を食べる。これらの二種のヒゲイノシシは、近くの森に住むヒゲイノシシである。
 それとは別に遠くから大勢でやって来るのが、「オオミツバチのヒゲイノシシ」である。脂身が厚く、好まれる。オオミツバチは一斉開花の季節に混交フタバガキ林に飛んで来て、突出木の中上部に巣をつくる。プナンには、「オオミツバチがやって来たら、念入りに狩猟の準備をせよ」という金言がある。オオミツバチの巣を見つけると、プナンは森に入って、植物や動物から毒を集め、毒矢のストックをつくるだけでなく、銃弾を手に入れたり、吹き矢やライフル銃の整備を進めたりする。オオミツバチのヒゲイノシシは、遠くから歩いてやって来るため、「歩き回るヒゲイノシシ」と呼ばれることもある。一斉開花期に交尾をしたヒゲイノシシが一斉結実期に出産し、実を食べてたっぷりと太るからである。

森の中のヌタ場(ヒゲイノシシの水浴び場)

森の中のヌタ場(ヒゲイノシシの水浴び場)


 一斉開花・一斉結実を含めて、果実の到来と動物たちの行動を知るために、プナンにとって、トリの活動はひときわ重要である。トリは食の対象であるとともに、トリの囀りは、メッセージを含むものとして注意が払われる。
 カンカプット(学名:不明)という名のトリがいる。それは、果実の季節を告げに来るトリとして、動物譚の中だけでなく、人々の日々の話の中に頻繁に登場する。しかし、そのトリを間近で見たとか、捕獲したというプナンはいない。高い上空で鳴くため、見たり、捕まえたりすることができないともされる。カッコウの一種だという説もあるが、その生態は、その存在を含めて謎である。その意味で、カンカプットとは、「果実の季節の到来を告げて回るトリの総体」のようなものである。カンカプットの飛来は、果実の季節の到来を示す。
 木々に果実が成る。最初に、トリがその実を啄みに来る。次に、樹上性の動物がやって来る。つづいて、落下した実を食べに、地上の動物たちがやって来る。それらの動物を狙って、人間が森に猟に行く。プナンは、そうした因果についてよく知っているが、森の生命現象の開始を、プナンは、カンカプットという架空のトリに仮託して語り始めるのである。
 プナンにとって、滑空するトリは、カンカプットのように、地上世界に実りをもたらしてくれる。何らかの拍子にふと聞こえてくるトリの鳴き声は意味を運んでくる。トリは、カミの言葉を運ぶとも言われる場合がある。卜田隆嗣が言うように、「プナンの場合、鳥の声をカミの声として、プナン語で聞くことが少なくない」。プナンのカミとは、「魂」から「神」までを含むような多種多様な存在のことである。いつも狩猟に成功する男には「狩猟のカミ」がついているとされる。「咳のカミ」がいると人は咳き込む。カミはまた天上界にもいる。天高きところには、動物に対する人の粗野な振る舞いに怒って、雷雨や洪水などの天候激変を引き起こす「雷のカミ」、稲妻を起こす「稲光のカミ」などがいる。トリの鳴き声は、後者のカミの意思を運ぶ。
 しかし、トリのメッセージは、人間だけに届けられるのではない。
 ソッピティ(学名:未同定、サイホウチョウの一種)は、ピティ(「暑さ」)をソッ「開く」)と名づけられるように、暑さを告げる鳥である。ソッピティ、ソッピティと囀って、雨が上がって晴れ間が訪れることを告げる。キヨン(学名:Gracula religiosa、キュウカンチョウ)は、キヨン、キヨンと鳴いて、果実があることを告げて回る。プナンは、そうした鳴き声は人間だけに届くのではなく、人間以外の動物たちにも等しく届くという。トリの声は、その意味で、あらゆる生きものにとっての共通言語のようなものである。
 果実の季節には実がなり、森は動物たちの楽園と化す。それはまた、人間がお腹いっぱい食べることができる喜びの季節でもある。人間は、果実だけでなく、個体数が増えた動物の肉にありつく。花の季節に、ヒゲイノシシは樹下に集う。オスもメスもやってきて、そこで交尾をする。その後訪れる果実の季節からほどなくすると、一斉に、あちこちで子連れのメスのヒゲイノシシに出会うようになる。子ヒゲイノシシの肉は、柔らかくゼラチン質で、美味としてとりわけ好まれる。

ヒゲイノシシの頭を担いで狩猟小屋に戻った子ども

ヒゲイノシシの頭を担いで狩猟小屋に戻った子ども


 トリの囀りは、メッセージを運ぶだけではない。メッセージとは、主体の意志の表われなのだとすれば、トリの囀りは、より積極的、より具体的に動物を動かし、人間に影響を与える。
 地上性のボルネオハシリカッコウは、ヒゲイノシシが木の下で果実を齧っていると、その傍にやって来て、うるさくがなり立てる。落下した果実にありつこうとするためである。落ち着いて実を食べることができなくなったヒゲイノシシは、その場から逃げ去ってしまう。そのため、ヒゲイノシシは、果実を齧る音を聞きつけてやって来る人間の捕食から逃れることができる。逆に、狩猟者は、ヒゲイノシシを逃してしまうことになる。
 卜田によれば、基本的には、天上界にいるカミがボルネオハシリカッコウを通じて、ヒゲイノシシの味方をしている。ボルネオハシリカッコウの鳴き声は、ヒゲイノシシを遠ざけることにより、人間の狩猟行動を左右する。ボルネオハシリカッコウはヒゲイノシシに捕食者が近づいていることを警告しているのだと、プナンは解釈する。
 動物の味方をするトリは、それ以外にもいる。プナンは、ハイガシラアゴカンムリヒヨドリを、ジュイト・バンガット(学名:Pycnotus goiavier)と呼ぶ。和訳すれば、「リーフモンキー鳥」である。頭部は灰色、腹面が黄色い。図鑑を片手に、トリの名前を調べている時に、サルの名前の付いた不思議な名前のトリがいるものだと、漠然と思ったものだ。
 狩猟者は、リーフモンキー鳥が飛んでいるのに出くわすと、その傍には、リーフモンキー(学名:Prebytis hosei)がいるという。そのため、私は、リーフモンキー鳥という名前が付けられているのだと思い込んだ。ところが、プナンに直接尋ねてみると、必ずしもそうではないことが次第に分かってきた。リーフモンキー鳥という名前は、それが、リーフモンキーを助けるために、人間の近くを飛ぶことから来ているのだと、プナンは口々に説明した。
 プナンが想像する図は、だいたいこんな感じだ。リーフモンキーが樹上に登って実を齧っている時に、リーフ―モンキー鳥の囀りを聞いたとする。リーフモンキーにとって、リーフモンキー鳥は、人間が傍にいる危険を警告するために鳴いているのだと、プナンは解釈する。リーフモンキーは、リーフモンキー鳥の鳴き声を聞くと、捕食者である人間がいることに気づいて、その場から人間とは反対方向に逃げ去る。リーフモンキーは、そのようにして、リーフモンキー鳥の囀りによって命拾いをする。逆に、狩猟者はリーフモンキーを取り逃がしてしまう。
 「テナガザル鳥」(学名:Pycnotus flavescens)と名づけられた鳥もいる。プナン名は、ジュイト・クラブット。和名は、カオジロヒヨドリである。プナンによれば、それは、テナガザル(学名:Hylobates muelleri)を助ける。
 リーフモンキー鳥にせよ、テナガザル鳥にせよ、そのようなヒヨドリたちは上空飛行し、囀って、捕食者である人間がいることをサルたちに伝え、動物の命を助ける。トリの鳴き声は、人間だけに届けられるものではなく、すべての動物に届けられるものであることを、プナンは強調する。そこに、森の中では動物と人間は等価であるとする、人間例外主義ではない、プナンの動物観の一端を見ることができよう。
 ところで、ここに現れるのは、トリ、サル、人間の三者がつくる世界である。三者からなる世界は、もっぱら狩猟によって生きる糧を得る人々にとって、どのような意味があるのだろうか? 
 リーフモンキーとテナガザルは、ブラガの森に棲息する霊長類のうち、両方とも樹上性である。すでに述べたように、リーフモンキーは、葉食の霊長類で、長い尾と長い腕を持ち、木の枝を駆け上り、駆け抜ける。リーフモンキーは多くの種子を食べて破壊してしまう。それに対して、テナガザルは、樹冠のみに住む類人猿で、腕を伸ばして、細い枝先にある実や葉を食べる。大量の果実を消費し、ほとんどの種子を丸飲みし、広い範囲で無傷の種子を排泄する、哺乳類の中でも最も効率的な種子散布者である。リーフモンキーとテナガザルの生態は、ヒヨドリたちの捕食行動と樹上で交差する。人間側から見ると、ヒヨドリたちがそこにいることはそれらのサルの存在を示すと同時に、サルがけたたましく鳴くヒヨドリに驚いて逃げてしまうこともある。サルたちは、トリたちの喧しい鳴き声にうんざりして逃げてしまう。サルをしとめようと近づいているプナンにとって、トリはサルの命を救うために鳴いているように映る。
 いかなる動物もあらゆる類いの妨害や邪魔者を忌み嫌う。そのことが、人間の言葉で言い換えられ、凝縮された時、リーフモンキー鳥やテナガザル鳥という名になったのではなかったか。
 アフリカ各地からも、トリが動物を助けたり、逆に、人間を助けたりすることが報告されている。アフリカ中央部のイトゥリの森に住むエフェ・ピグミーたちは、以下のように言う。

 aloo(サイチョウの一種)もアカオザルやブルーモンキーと一緒に行
 動し、サルに近づくものがあれば鳴いて知らせる。アフリカヒヨドリ
 (akpupole)は、キノボリセンザンコウを見つけると鳴いて知らせるこ
 ともある。

サイチョウは鳴いて、サルたちに危険な動物の接近を知らせるし、ヒ
ヨドリはセンザンコウの居場所を教える。
 カラハリの原野のグイからも以下のような報告がなされている。

 人間にライオンの接近を知らせてくれるツォエン(キクスズメ)の声
 は、ゲムズボックが狩人の接近に気づくことをも助けるのである。


キクスズメは、ゲムズボックに対して人間の狩猟者の接近を知らせる。このように、アフリカでは、トリたちは、サルに危険を知らせたり、人間に獲物の居場所を教えたり、動物に狩猟者の接近を告げたりする。
 プナンにとっては、トリはもっぱら、サルに危険を教える。そこには、人間を手助けするトリはいない。トリは、動物の味方をする傾向にある。このように見てくると、プナンのヒヨドリたちの命名は、トリの「聞きなし」が圧縮されたものではないかということが透けて見えてくる。聞きなしとは、川田順造によれば、「元来言語メッセージを含まない異類の発信に、民俗信仰に裏打ちされた言語メッセージをあてはめること」である。
 リーフモンキー鳥が囀る時、近くにリーフモンキーがいることが示される。同時に、人間はリーフモンキーを捕まえることができないということもまた示される。従って、ハイガシラアゴカンムリヒヨドリ(リーフモンキー鳥)の聞きなしとは、リーフモンキーが近くにいるが、それは逃げて獲れないだろうという「ある事実の指差」となる。聞きなしは、ここでは、民俗的な信仰の類ではない。合理的に、物事の因果を示している。

 このようなプナンの聞きなしの習慣は、「パースペクティヴ」という概念を用いて捉え直すことができる。パースペクティヴ性とは「ある視点に立つ能力」のことである。人類学者ヴィヴェイロス・デ・カストロは、人間と非―人間のパースペクティヴ性をめぐるアメリカ大陸先住民のパースペクティヴ主義を論じている。そこでは、動物や精霊は自らを人間として見る一方で、人間のことを非―人間存在と見る。ジャガーは血をマニオク酒として、死者はコオロギを魚肉として、クロハゲタカは腐肉に湧く蛆を焼いた魚肉と見る。
 プナンは、トリが囀るのを聞いて、トリのパースペクティヴを積極的に読み込む。プナンは、狩猟行動に影響を及ぼす人間よりも高位の、空の上から起きている出来事を一望できる高みにいるトリのパースペクティヴに到達している。
 プナンは、トリもまた魂がある、人間と等しい存在だという。ところが、トリは事物をトリ独自のパースペクティヴから見ているのではない。トリは、果実を果実として見ている。その意味で、プナンのパースペクティヴ主義は、アメリカ大陸先住民のパースペクティヴ主義とは同じではない。プナンにとっては、トリは、人間をつねに恐ろしい捕食者だと見ている。トリたちは、吹き矢やライフル銃で殺そうとしてくる人間より、果実を頬張るサルたちにより親近感を感じ、サルたちを助ける。

はね罠にかかって狩猟小屋に持ち帰られたコシアカキジ

はね罠にかかって狩猟小屋に持ち帰られたコシアカキジ


 プナンのパースペクティヴ主義では、リーフモンキーには、捕食者(人間)そのものが見えていない。捕食者(人間)と被捕食者(リーフモンキー)の双方が見えているのは、リーフモンキー鳥である。リーフモンキーは、リーフモンキー鳥による注意喚起である囀りによって、捕食者の接近を知る。それは、人間からトリや動物を一方的に客体として見るのではない、トリのパースペクティヴへと踏み込み、そちらの方から眺めた、三者の関係によって築かれた世界の現われである。リーフモンキー鳥は、強い意志を持った主体として、プナンの前に現れる。

 これまで述べてきたことは、以下のようにまとめることができよう。ボルネオ島の熱帯雨林に遅れてやってきた人間は、捕食者と被捕食者という二者間関係の中に自らを投入する以上のことへと踏み込んだのではなかったか。獲物だけではなく、獲物に影響を与える動物をも巻き込むことによって、三者の関係において生命活動に携わろうとしたのではなかったのか。
 オオミツバチがやって来て、突出木に巣をつくると、プナンは、やがて、ヒゲイノシシが大量に現れることを知る。オジロウチワキジが川下から遡って来ると、ヒゲイノシシが獲れるようになる。果実の季節は獲物の大量出現を予示するが、プナンは、そのことをカンカプットという架空の鳥の出来によって語る傾向があることは、見たとおりである。そのようにして、他の動物たちが獲物の到来を知らせてくれる。オオミツバチやオジロウチアワキジのパースペクティヴから森の世界を眺めるならば、動物たちが、人間の味方をしてくれることになる。そうした三者関係のネットワークによって、プナンは森の摂理へと入りこんできた。そこでは、トリたちこそが、物事を開始する主語となる存在である。
 プナンを手がかりとしながら、人間が三者関係のネットワークを築いて、森の生命活動への参与を粗削りに描き出してきたが、ことによると、そうした三者関係は、人間と動物の間に見られるだけのものではないのかもしれない。パースペクティヴ主義を土台として主客二元論を超えて広がる三者関係は、必ずしも人間を中心につくり上げられていたのではない。それは、人間を超えて、植生分布や配置を本源的に含みながら、森に住まう全ての有機体の間に見られるものではなかったのだろうか。すなわち、植生と動物と人間の三者関係こそが、森の生命活動だったのではなかったか。

 そうした三者間関係を照らし出すためには、エドゥアルド・コーンがいう「形式」が一つの手がかりとなるだろう。狩猟が形式を活用する行為であることを、コーンは以下のように述べている。

 アヴィラの狩猟者は、動物を直接的に狩ることはない。むしろ、彼ら
 は、そのときそのときで実のなっている樹の空間的な分布や配置から
 創りだされる短期的な形式を見出し、活用する。これが動物を惹きつ
 けるからである。


コーンによれば、エクアドルのアヴィラの狩猟者は、動物を直接狩るのではなく、動物を惹きつける果樹の空間的分布から創りだされる形式を利用して狩りをする。「狩猟者はたいてい、動物を直接狩猟はしない。動物を魅了する形式を活用する」。アヴィラの森では、人々は、森で獲物を探すよりも、果樹のそばで身を隠して待ち伏せする狩猟を好んで行う。狩猟者は、動物に必ずしも二者間関係で対峙するのではなく、植物相の形式を介して狩りを行うのである。
 季節性のないボルネオ島の森でも果樹域は地理的に、時には狭く、時には広く分散する。ある地域で一斉結実があったとしても、その近くの森で全く実が結んでないことがある。果実を求めて、動物たちが食べに来る。プナンは、果樹を見つけて、あるいは、実を落下させた果樹を見つけて、そこに動物がやって来るのを待つことで動物を狩る。
 それは、形式を利用することでもあるが、同時に、植生が人間に獲物の到来を知らせてくれることを利用しながら、狩猟を行うことでもある。その場合、プナンは、植生をたんなる客体として見るのではなく、植生のパースペクティヴに立って、植生の分布と配置が人間に対して獲物の出来を告げていると捉えていると見ることもできる。花が開くこと、実がなることが主語であり、そのことが、動物たちを樹下へと集めるのである。
 しかし、コーンは、ここでは、人間による形式利用について語っているだけである。実際には、人間以外の動物たちもまた、形式を利用している。オオミツバチは花の分布に集い、トリや樹上性のサルは木の実が成るのをめがけてやって来るし、ヒゲイノシシなどの地上性の動物は落下した実を食べにやって来る。人間だけでなく動物たちもまた、植生の形式を利用して生命活動を行っているということができよう。

ボルネオ島低地混交フタバガキ林

ボルネオ島低地混交フタバガキ林


 花や実が動物を集わせる。それは、「動物が花や実のなる木へ集まる」という意味の安定性をひっくり返した言い回しである。坂部恵の述語性が主語を規定するという日本語の思考をめぐる議論を引きながら、中村邦生が「逆位の相補的関係の運動性」と呼ぶ、主語と述語を転倒させるレトリックに倣って、「花や実に集うことが動物を行わせる」あるいは「花や実が動物を集わせる」という言ってみるならば、植生、動物と人間の三者関係が、くっきりと浮かび上がってくる。レトリックは、創造性を孕んでいる。その表現によって、森が主語となる、演劇的で動的な運動、つまり森それ自体の生命活動が示されることになる。

 プナンは森の動植物の動きを感知して、狩猟をする。動物は、獲物の動きを知らせてくれる。植生もまた、動物の出現を教えてくれる。いずれにせよ、プナンは「動物を直接狩るのではない」。人間は、三者関係(動物―動物―人、植生―動物―人)の中で、生命活動を行う。
 同じように、動物たちもまた、フェノロジー(生物変化)という第三項を感知して、それを手がかりとしながら、生命活動を行う。三者関係は次の三者関係につながり、ひいては、森の中に住まう全ての有機体を覆う複数種のネットワークにつながっていく。
 森の中では、動物や果実がメッセージを発する、すなわち、動植物が主語、主格として語り始める。しかし、森の世界が、人やトリや動物たちの述部から成るのだとすれば、森があらかじめ主語として存在するわけではない。森は、コーンがいう「オープン・ホール(開かれた全体)」である。それは、複数種たちが絡まりあうことによって、刻一刻と創発され、制作される世界である。ボルネオ島の熱帯雨林の新参者である人間もまた、工夫の末、そうした複数種のネットワークが生み出す世界に参与し、その過程で、森の生命活動をつくり出してきたのである。

 

参考文献

井上民二 1998 『生命の宝庫・熱帯雨林』日本放送出版協会
川田順造 1998 『聲』ちくま学芸文庫
コレット、リチャード T. 2013 『アジアの熱帯生態学』長田典之・松林尚志・沼田真也・安田雅俊共訳、東海大学出版会
コーン、エドゥアルド 2016 『森は考える:人間的なるものを超えた人類学』奥野克巳・近藤宏監訳、近藤祉秋・二文字屋脩共訳、亜紀書房
坂部恵 2009[1976]  「日本語の思考の未来のために」『[新装版]仮面の解釈学』東京大学出版会
菅原和孝 2015 『狩り狩られる経験の現象学--ブッシュマンの感応と変身--』京都大学出版会
卜田隆嗣  1996 『声の力:ボルネオ島プナンのうたと出すことの美学』弘文堂
寺嶋秀明 2002 「イトゥリの鳥とピグミーたち」『人間文化』pp.17-31.
中村邦生×野田研一 2016 「【対談】鳥の表象を追いかける」野田研一・奥野克巳編著『鳥と人間をめぐる思考:環境文学と人類学の対話』勉誠出版
百瀬邦康 2003 『熱帯雨林を観る』講談社選書メチエ
安間繁樹 1991 『熱帯雨林の動物たち:ボルネオにその生態を追う』菊地書館出版社
湯本貴和 1999 『熱帯雨林』岩波新書
ヴィヴェイロス・デ・カストロ、エドゥアルド 2017[2005]  「アメリカ大陸先住民のパースペクティヴィズムと多自然主義」近藤宏訳、『現代思想』2016年3月臨時増刊号(特集:人類学のゆくえ)pp.41-79、青土社。



今回で本連載は終了となります。ご愛読ありがとうございました。
本連載は単行本として年内に刊行の予定です。こちらもご期待ください。