ゆるやかな性 来生優

2021.6.18

17“わたし”を名のるとき、付されるもの:表象と標榜

 

LGBTQの方なんですね!」
 初対面のひとにこう言われたら、あなたはどうするだろう。実際に面と向かって言われたわたしは、呆気にとられ、あんぐりしてしまった。ジェンダー・セクシュアリティに関する研究を発表する機会があり、「発表するからには」と、多少なりとも勇気を出して、自身の立場を自分なりの言葉で伝えてからはじめた。発表後の質疑応答の際、なんの悪気もなく、の反応だった。別のひとからは「ああ、いま流行りですしね〜」と言われたこともある。おそらく彼らにとっては、「性的少数者」と巷で話題の「LGBTQ」はほぼ同義で、なんの違いもない画一的な存在に映ったのかもしれない。あるいは、はじめて目にしたカテゴリーの人間に、純粋に驚いたのかもしれない。
 それ以降、付き合いの浅いひとやまだ距離感がはかりかねるひとに対しては、自らの性的話題について触れるのはためらわれるようになった。石巻市出身の友人は、上京後、地元をたずねられる度に「宮城」と、ざっくり答えるようになったという。「“石巻出身者”っていうと、どうしても“被災者”っていうイメージがついちゃって。『震災で大変でしたよね』って哀れみの目が向けられて。なにかにつけて気遣われるから、一時期仕事もしにくかった」。そう漏らしていた。まっさらな“わたし”をみてほしいのに、相手にとって印象的で、都合のいい情報が先立ち、ときにまとめられ、そのひとに対して付与されてしまう場面は、わたしたちの日常のすぐそばにある。
 小山田浩子さんの小説『穴』では、夫の転勤に伴い、その実家の隣家に越したことを機に、名をもつ29歳女性の“わたし”が「妻」から「嫁」に置き換わったことで、戸惑い、揺さぶられる機微が描かれる。わたしのある友人も、結婚を機に夫の地元である関西へ引っ越し、初対面の夫方の親戚から「“自分”はどこ出身なん?」と尋ねられ、ショックを受けたという。関西弁では、しばしば“あなた”の代わりに“自分”が用いられる。相手に悪気はなかったものの、名前でもなく、代替可能な“自分”という語を重ねられたことに傷ついてしまったのではないかと、いまでは関西弁が染み付いてしまった彼女が、当時を思い出しながら自分なりに分析していた。やはり名前は、そのひとを表す大切な語のひとつでもあるのだ。「夫/妻」「男性/女性」に限らず、物心ついた頃から、変化する環境に応じて、なにかと他者からラベリングされたり、カテゴライズされることへの違和感をぬぐいきれずにいるひとも多いのではないだろうか。一方で、そのような枠組みや呼び名は、ときにわたしたちの名付けようもなさやわからなさに、安心感や居場所、手がかりなんかを与えてくれたりもする。一体、わたしたちが自らや他者を形容しうる言葉や語彙は、どれほどあるのだろう。
 ここで、これまでのわたし自身の構成要素をざっと因数分解してみる。断片的であれ、自己表象しうる用語はいくつかある。「(傍から見た外見的には)女性」「日本人」「双極性障害」「全性愛者(パンセクシュアル)」「性的少数者(セクシュアル・マイノリティ」)」「性的虐待のサバイバー」「大学院生」「書店員」「もの書き」……。なんだか前半、重々しい感じになってしまったが心配ご無用。案外元気にやっていたりもする、根明な人間だ。中高時代に性的揺らぎから孤独を感じたときには、友人や先輩から勧められた村山由佳さんや石田衣良さん、よしもとばななさんらの小説を好んで読んだ。「同性愛者」「ゲイ」「レズビアン」「トランスジェンダー」をはじめ、本から多くの言葉を知った。
 大学進学後まもなくして、「セクマイ(セクシュアル・マイノリティ)」を名乗るサークルの存在を知り、長年苦悩してきた自身の性にまつわる諸々を重ね合わせる、集団的な自称に出逢えたような気がして、嬉しかった。フィクションの世界だけの話でもなかったんだ。わたしだけでもなかったんだ、と。「ここにいていいのかもしれない」と、どこか安心できたことを思い出す。しかしながら、付き合いの浅いひとに対しては、冒頭のような具体的表現での自己表象は無意識のうちにでも避けようとする自分もいる。実態とはかけ離れた“悲壮感漂う可哀そうなひと”と憐れみを受けた経験があるからだ。ともすると、それ以外が取って替わられ、よりセンセーショナルでインパクトがあるものによって、意図せずとも“わたし”が上書きされてしまうこともある。これらの語は、あくまでも断片的なものであれ、自らが進んで引き受けていないものであれ、わたしを構成する一要素となっていることも、否めない。また、これらの共通項を互いに見出すことで、つながれたひとたちもたくさんいる。
 ここ数年、性的少数者を表象する語として「LGBTQ」という総称が浸透しはじめ、さまざまな理解への一助ともなれば、一方でどこか粗雑で乱暴な把握のされ方をしているものだな、とも感じている。この動きに拍車をかけているのが、悲しいかな「SDGs」でもある。よく耳にする話題のパワーワード。メディアもこぞって取り上げ、いちムーブメントを超えて、もはやブームと化している感すらある。外務省によると、「持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)とは、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標」とある。17のゴールや169のターゲットから構成され、地球上に「誰一人取り残さない(leave no one behind)」ことを誓っている。「5: ジェンダー平等を実現しよう」(※1)という項目があることも手伝って、さまざまな企業も一見“LGBTフレンドリー”な取り組みをはじめている。その文脈で用いられるのが「ジェンダー」「LGBTQ+」などの言葉でもある。一見ものわかりよく、略された横文字ワードに最初は目新しさや、一種のかっこよさをも覚えるかもしれない。が、果たして内実はどうなのだろう。最近の動きをみていると、どこかスローガンと化していて、企業や地方自治体の大義名分、建前として形骸化して、実態は置いてきぼりになっているような気もするのだ。
 「LGBT」。そう一概にいっても、さまざまなひとがいる。2021年5月には、「LGBT理解増進法」について、性的少数者への差別を禁じる点などをめぐり、与野党でも議論が紛糾。結局、本国会では見送りとなってしまった法案だ。まずここで想定される「LGBT」とは、どのような人々を指すのか。また、「理解増進」とは具体的になにを意味するのか。詳細までを知るひとは多くはない。もちろん「理解が増進され」(あまり聞いたことがない言葉の組み合わせ)、当事者の生きづらさが少しでも緩和されれば、それに越したことはない。が、果たして法的整備は個人的性や生をどれほど後押ししてくれるのだろうか。当事者間でも意見が割れ、哲学者で同性愛者を公言する千葉雅也氏はこう指摘する。「いわゆる性的少数者の問題が、経済・社会福祉な文脈における弱さとして、単なる公共政策の話になってしまっているのではないか」(※2)「性とは何か、の深い問いかけなしに、諸々の性的アイデンティティをそう主張されているところの『属性』として扱って、それらの市民権を公共政策として確保するようなジェンダー・セクシュアリティの扱いは浅薄であり、僕はそれだけの公共的議論には与しない。僕は、性とは何かを問う。」と。(※3)詳細はさほど吟味されず、法案成立ばかりが声高に叫ばれる姿勢を垣間見るにつれ、どこかブームと化してしまってはいないのかと、わたしも冷静に考えてしまうのだ。あくまでも法案は手段であり、目的ではない。わたしには、性的“少数者”を“弱者”と位置づけ、“救済する”という名目のもと、お情けとして擁護してあげようというような、“過剰包摂社会”像としても映る。
 「LGBTQのひと」。メディアでよく目にする違和感ある表現だ。「LGBTQ」は、あくまで性的少数者を総称した語で、「LGBTQのひと」なんて、いないのだ。最近では「ホモソーシャル」という語も、誤った文脈において、巷でよく聞かれるようになった。本来は、恋愛や性的な意味をもたない同性間の結びつきや関係性を意味する用語だ。ホモソーシャリティは、ミソジニー(女性蔑視)によって成り立ち、ホモフォビア(同性愛嫌悪)によって維持される。(※4)文学研究者のイヴ・セジウィックによる概念で、日本では主に上野千鶴子氏などが用いることで、広められた語だ。そんな文脈を知らないままに、安易なノリで用いられるケースもよく見る。また、いわゆる女性蔑視発言に疑義をとなえるだけで、「(神経質な)フェミニスト」と揶揄されもする。「フェミニスト」を標榜するひとの内実もさまざまであるにもかかわらず、ここでは均質的で一般化されすぎたイメージが先行してしまう。
 2019年、WHOが「性同一性障害」を「精神障害」の分類から除外し、2022年からは「性別不合」(Gender Incongruence)とされることが決まった。日本では、よく聞かれるようになった「性同一性障害」という言葉も、国が違えば、反応も違う。
 わたしのフィールド、タイでは医療関係者などを除いては、馴染みのないひとが大多数だ。同義語としては、現地の言葉を語源にする表現や、都市部の限られた人々の間では「LGBTQ」などが用いられることもしばしばある。タイでは、性的指向や性自認を表すカテゴリー名称として用いられる語彙が少なくとも18あると言われている。(※5)最近では、国内でのBL人気を受け、いわゆる異性愛者の男性ではなく、ゲイ男性やカトゥーイ(一般的にもとは男性と思しきひと、また男女の別がつきにくいひと)を性的に好む女性を“チェリー(シェリ)”とも言うそうだ。(※6)ちなみに、わたしが研究でお世話になっている人々を形容する“カトゥーイ”という語も、元は侮蔑的なニュアンスを含むものとされてきた。ときに差別的ともとれる表現(日本での「おかま」「オネエ」)をそのひと自身があえて引き受け、自称するとき、意味するものはなんだろうか。現地NGOが出張して行う性教育現場に参加させてもらうと、通り一遍「LGBT」などの用語も説明はされるものの、なるべく現地のひとびとの自称や語りに重きを置く様子が垣間見える。その際に、ファシリテーターとして、生ける経験としても重要な役割を果たしているのが「カトゥーイ」と呼ばれる人々なのだ。彼女たちは、LGBT運動や言説への共鳴、西欧発でどこか先進的ともされる動きへの同調を求めたりもしない。それは、彼女たちが、国際的なLGBT運動が「非西洋の性的少数者を救済する」という名目のもと、西洋的な規範を押し付け、現地の多様なアイデンティティや、西洋のそれではない仕方での実践を脅かしてきた(※7)側面も見逃していないからだ。西洋の概念では「タイのトランスジェンダー」と括られてしまう「カトゥーイ」の人々は、あえて土着の語を自らに掲げることで、西洋の向きには迎合しない。とくに農村部ではその傾向が強く、多く聞かれる「わたしたちは、ただのタイの“カトゥーイ”だ」という語りには、どこか誇りのようなものすら感じる。
 ある種パフォーマンス的に、メディアでタレントや著名人が「わたしみたいな“おかま”が〜」などと、面白おかしく、自虐的に話す場面を目にする。この言葉を、当事者ではない人間が誰かを指して用いるとなると、意味合いは自ずと変わってくる。Netflixのドキュメンタリー作品「クィア・アイ」でも知られる「クィア」という語も、元はドイツ語の「ゆがんだ、曲がった」を起源にすると言われている。(※8)19世紀後半以降には、「倒錯者」「異常で不道徳な“他者”」を表す病理学用語として用いられるまでになった。しかしながら、これを逆手に取った当事者たちが自らに誇り(Pride)をもち、積極的に自称するようになったことから、昨今ではさまざまなアクティビズムを形容しうる文脈でも用いられるようになったのだ。フェミニストで社会学者の上野千鶴子氏の言葉を借りるならば、「撹乱のための言説戦略」(※9)でもあった。
 セクシュアル・マイノリティについての議論がここまでなされていなかった時期においては、「LGBT」という語も、表象や当事者の連帯手段のひとつとしては、たしかに有効だった。2021年。ただブームで終わらせないためにできること、を考えてしまうのだ。ジェンダーやセクシュアリティの領域は、たしかに西洋的な概念や論考に牽引されてきた感は否めない。しかしながら、そこに寄りかかり、体重をかけすぎるのも危険なのだと思う。メディアがセンセーショナルに取り上げ、発信するいわゆるパワーワードも、ちょっとうがった見方でみてみる。メディアはわかりよく、ざっくりと括り、でっかい総称として都合よく用いる。まるで、流行りのファストファッションかのように、使い捨てられてしまいそうな気安さもある。より広範な性的少数者を内包できるよう「LGBTQQIAAPPO2S」(※10)という語まで登場している。ここまで長く、パスワードのようになってしまうと、当事者であれ、もうなんだかよくわからない。そこには、“だれひとり取りこぼさないように”というSDGs的な、公共政策的精神も感じる一方で、“その一語で手っ取り早く、すべての性的少数者を完全に形容しておけば、ひとまずはよい”とする身勝手さのようなものも感じてしまう。
 きっと簡単にはまとめきれないものを、安易にまとめようとしなくたって、よいのだ。目新しい、それらしい横文字に踊らされないこと。いまの“わたし”たちを重ね合わせ、形容しうる語は、数多の先人たちの存在や功績によって獲得されたものだ。いわば先人からの借り物だと思えば、中途半端な理解や誤った文脈でその語を掲げ、安易に他者を表象することは、はばかられるだろう。新しいことばに出会ったら、鵜呑みにせず、ブームとして多用するのでもなく、まずはその背景を探ってみる。また、一見わかりやすいそのひとの表層的なラベルを、ほんとうにそのひとが望んで掲げているのかどうか、注視してみること。自戒の念も込めて、改めて立ち返りたい。

 「わたしたちは、わたしは何かという問いと無縁に生きることはできない。言語の中に生存する限り、何者でもない<わたし>は存在せず、<わたし>は何かの名称を背負って生きている」。(※11)英文学者で、数多くのジェンダー・セクシュアリティにまつわる名著の訳者としても名高い、竹村和子氏はこう話す。ことばを、さぼらない。名称を背負わずには生きられない、こんなご時世だからこそ。言葉の所以を知り、背景を探ってみること。略称や通りよい俗称でわかったつもりにならないこと。一方で、あえて名乗らないことで、そのひとが自己表象しうるものは、どのようなものなのか、眼差してみること。複数性や矛盾を帯びた“わたし”たちが誰かを形容するとき、同時にわたしたちも形容されうる“他者”のひとりであること、そして、図らずとも他者を傷つけてしまう暴力性をも少なからず秘めていることを、思い出していたい。

 

 

 

クイーンシリキットボタニックガーデン(通称「王女の植物園」)にて、タイの友人と(2019年10月撮影)

 

(※1)外務省「SDGsとは?」https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/about/index.html(最終閲覧日:2021611日)
(※2)千葉雅也「これからのクィアポリティクスについて考えようー否定性の複数性についてー」CGS主催、202167日オンラインイベント
(※3)千葉雅也、Twitter202168日、午前1059

(※4)上野千鶴子『女ぎらい』紀伊國屋書店、2010
(※5,7)日下 渉/青山 薫/伊賀 司/田村 慶子編著『東南アジアと「LGBT」の政治―性的少数者をめぐって何が争われているのか』明石書店、2021年
(※6)ジェームズ・ウェルカー編著『BLが開く扉ー変容するアジアのセクシュアリティとジェンダー』青土社、2019年
(※8)ジョー・イーディー編著/金城 克哉訳『セクシュアリティ基本用語事典』明石書店、2006年
(※9)上野千鶴子『<おんな>の思想 私たちは、あなたを忘れない』集英社、2016年
(※10)「『LGBT』はもう古い? 『LGBTQQIAAPPO2S』って何だ」デイリー新潮、2017822日掲載(最終閲覧日:2021611日) https://www.dailyshincho.jp/article/2017/08220803/?all=1
(※11)竹村和子『愛についてーアイデンティティと欲望の政治学』岩波書店、2002年

(第17回・了)

次回、2021年7月17日(月)ごろ掲載