ゆるやかな性 Heshe Ləəy

2019.8.13

06HIV/AIDSと、“性”教育

 

「サワッディーカー!」「サワッディーカップ!」元気な声が、校庭中に響く。タイ東北部の小学校を訪れ、わたしがたどたどしいタイ語で挨拶をした直後のことだ。はじめて見る日本人に興味津々な生徒たち。合掌(ワイ)をしながら、あふれんばかりの笑顔を向けてくる。あまりにもまっすぐな視線に、目を合わせるのがはばかられるほどだ。男女ともに、カーキのシャツにスニーカーという出で立ち。なんというか、みんな似たようなミリタリーシャツを着ていて、とてもかわいかった。ズボンの子もいれば、スカート姿の子もいる。先生に聞いてみると、生徒が好きなほうを選択できるのだという。今となっては、制服制度自体が廃止されていたり、服装に明確なルールが設けられていなかったりする学校も増えてきた。わたしはいわゆる“女子高生”だったので、当時はセーラー服にローファーといういかにもな格好だった。スカートを穿いているとなんだかスースーするあの感じが、今でもたまらなく苦手だ。当時は満員電車での通学で、何度か痴漢というものに出くわした。それが嫌で、いつもスカートの下にはえんじ色のジャージ、というのが定番スタイルになっていった。授業は比較的ちゃんと受けていたので、先生は大目に見てくれたのだと思う。その出で立ちを理由に怒られた記憶は、あまりない。
 わたしがペーたちタイ人スタッフとこの小学校へやってきたのは、課外授業のためだ。タイ、特に農村部ではまだまだHIV/AIDSに関する知識が十分ではなく、差別や偏見が残っているという。今日は、HIV陽性者のリンさんも一緒だ。リンさんは、30代後半の頃HIV/AIDSへの感染が判明した。ラオスに出稼ぎに出ている夫を待ちながら、女手一つで子育てをして、懸命に働いていた。「しばらくして帰ってきた夫から感染したんだと思うの」。のちにリンさんはこう話してくれた。タイではこうしたケースが少なくない。出稼ぎ先の国で、別の女性と関係をもつ。その際に感染してしまったことを知らずに帰国し、無自覚のうちにパートナーに感染させてしまう……。リンさんの感染を知った夫は、再びラオスへ出稼ぎに行ったまま帰ってくることはなかったという。薬を飲み始めれば、死に至る病気ではないものの、当時は「治らない病」として、周囲からも恐れられるほどだったという。今ではほがらかな笑顔が印象的な彼女だが、第一印象はまったく違っていた。
 初対面は、HIV陽性者グループが集まる集会だった。どこか疑うようにして、こちらを睨むような鋭い目つき。「ああ、いつかのあの目に似ている……」。以前、インドのマザーハウスで会ったHIV陽性者の女性を思い出した。単なる訪問客への眼差しとは、明らかに違う。歓迎されていないことは、すぐにわかった。わたしが挨拶しても、そっけなく腰をおろす40代らしきタイ人女性。
 これがはじめて見た、彼女の姿だった。その後、HIV/AIDSへの理解を深めるためのワークショップや病院での懇話会で次第に打ち解けるようになった。一旦休憩に入り、リンさんはわたしに飲み物を勧めてきた。ジュースを注いだのは、彼女がさっきまで口をつけていたコップだった。リンさんは、じっとこちらを見ていた。まるでわたしを試しているかのようなその行動に、思わず涙がこぼれそうになり、鼻がちくりと痛む。「ありがとう。いただきます!」わたしはそのコップを受け取るなり、一気に飲み干した。実際に、喉も乾いていたからか、思わず一気飲みをするような形になってしまった。リンさんや周囲のタイ人の沈黙が続く。「アロイマーカー!」(めちゃくちゃうまい!)。わたしが現地の方言でそう言うなり、どっと笑いがおきた。「……も、もっと飲みなさい!」「ほら、これもあげるわ!」と、次々飲み物やお菓子を勧められる。安堵に満ちたその表情からは、先ほどの不信感はもう感じられない。「そうか。リンさんたちは、こんな些細な言動にも敏感にならざるを得なかったのか……」。彼女たちが日々直面してきた現実は、決して優しいものではなかったのだろう。わたしを試すかのような行動の理由を想い、胸が苦しくなる。大学の国際保健の講義でHIV/AIDSに触れる機会があったとはいえ、実際にこんなにも身近に感じる日がくるとは思ってもみなかった。リンさんと出会い、どこかの国の誰かの話ではなくなった。目に見えないだけで、もうすでに、わたしたちは同じ時間を生きているのだ。
「わからない」「知らない」ことの怖さを、痛感した。それは私だけではなく、その日、ワークショップに参加した小学生たちも同じだった。早速、HIV/AIDSについて理解を深めるためのアクティビティが始まった。まず、スタッフから一人ひとり、水が入ったカップを手渡される。そのカップを手に持ち、近くにいる人同士で自己紹介。その後、お互いの水をそれぞれのカップに注ぎ合う。終了時間がつげられるまで、そうした水の交換が行われる。最後に、スタッフがそれぞれのコップに特殊な液をスポイトで流し入れていく。いよいよ、私の番だ。ペーが私のカップにある液体を流し入れた途端、水の色は透明から紫色に変化した。周囲からは「わーっ!」と悲鳴にも近いような歓声が上がる。HIVの感染が広がっていく実態を実感できるようなしかけになっていたのだ。つまり、わたしはさまざまな人と水の交換(性交渉)をした際、どこかでウイルスに感染してしまった。今となっては、そのウイルスが誰から感染したかのか見当もつかない。実は、特定のカップにだけ紫色に変わる特殊な液体が混ぜられていたのだ。透明な水が入った、透明なカップをみな一様に手にしていたから、まったく気づかなかった。HIVウィルスは、年齢や性別、職業に関係なく、誰でも感染する可能性のあるウィルスだということを身をもって実感した。
 こうして、子どもたちも私も、同じ目線でHIV/AIDSに触れる時間となった。ペーたちスタッフや、HIV陽性者グループのメンバーは、最近こうした会に呼ばれることが多くなってきたそうだ。頭だけで重く考えすぎずに、あくまでも日々の生活と常に隣り合わせのテーマであることを体感する。そうした場において、リンさんはもちろん、ペーをはじめとするトランスジェンダーのスタッフの存在は一際大きい。彼女はユーモアあふれる人で、面白おかしくコンドームの付け方を子どもたちにレクチャーしはじめたかと思えば、ふざける生徒がいるといつもしっかりと注意をしていた。木彫りの熊ならぬ、木彫りの男性器を手に持ちながら、全グループをまわり、正しい方法で装着できているかどうか目で確認していく。恥ずかしそうにしている女子生徒がいると「一緒にやってみよう!」と、半ば強引にその場に参加させている。その光景は、性教育と呼べるものをあまり受けてこなかった私にとって、衝撃的だった。しまいには、ペーは少し遠くで見ていた先生たちの手を取り、大人たちも子どもたちのグループに混ざるよう促しはじめたのだ。上手くつけられずあたふたとしている先生を見て、子どもたちが大笑いする。その場は、驚きと学び、笑いであふれていた。
 ――小学4年生の頃の記憶が、ふと蘇る。「女子だけ、このまま残って。男子は教室に戻るように!」。体育館で行われた学年集会の最後に、先生がこう言った。「なんだよ〜、女子だけって」。男子は口々にからかい、文句を言いながらも教室へ戻り始める。女性教員が「皆さんは、生理というものを知っていますか?」と、唐突に、ぶっきらぼうに話しはじめた。わざわざ男女別々にしてまで話す内容が生理とは、なんだか大げさだなあと感じたことを今でも覚えている。メーカーから支給されたであろう生理用品をもらい、それをポケットに隠すようにして、こそこそと教室に持ち帰ろうとする女子生徒……。なんだか滑稽なその様子に、不謹慎にも笑いそうになってしまった――。
「あのときの、あの性教育的な時間は何だったのだろう……」。今、目の前でこうして楽しそうに、確実に性に対する学びと理解を深めている生徒たち(教師たちも)を目に、そう感じずにはいられなかった。性と生を語る場において、男女も、大人も子どもも、関係ないじゃないか。あそこまで居心地悪そうな空間よりも、オープンな場として機能しているこっちのほうが、よっぽどいい。素直にそう感じた。ペーたちスタッフは、皆が参加しやすいように音楽を用いたり、冗談を言って場を和ませたりしていて、ワークショップには欠かせない存在だ。そんな彼女たちは地元の新聞社にも取材され、周囲からの眼差しが変わったと教えてくれた。「以前は、田舎町で浮いた存在の『女々しくて、変な男の子』だったけど、学校でワークショップをするようになって変わったの。まず先生たちが褒めてくれて、次第に街の人が理解を示してくれるようになって……。今まで、変わり者扱いされてきたけど、堂々と皆の前でレクチャーできる自分になれて、親にも少しずつ認めてもらえて、嬉しい」。ペーたちは、現地で「MSM」(男性と性行為をする男性。Men who have Sex with Men)とも呼ばれていた。NGOスタッフや医療関係者の中では、HIV/AIDS感染率が高いことでも知られていた。だからこそ、自分たちで自分の健康を守ろうとNGOの勉強会に参加したり、本を読んだりするうちに、理解を深めていったという。「自分の性と生は、あくまでも自分のものだから」と話す人々に、たくさん出会った。その中には、リンさんはじめ、HIV陽性者のメンバーもいた。多くを乗り越えてきたからこそ、こんな場を作り上げることができるのだろう。
 こうして小学校でのワークショップを終えたわたしたちは、NGO団体の事務所に帰ってきた。長距離移動でトイレに行くのを我慢していた私は、まっさきにトイレへと駆け込んだ。ひと安心し、トイレットペーパーに手を伸ばしかけたそのとき、残り少しのペーパー越しの感触に、ぎょっとした。なんと、何気なく手を伸ばしたこのペーパーホルダーこそ、さっきまでワークショップで見ていた男性器のそれだったのだ!


「えーっ!」思わず声も漏れ出る。「あーっ、はっは!」。ドア越しに、ペーとリンさんたちの笑い声が聞こえてくる。わたしを驚かせようと、少し前にすり替えたらしい。まさかアレを、こう使おうとは。やれやれ……。なんとも、いたずら好きなタイ人らしい。「まあ、こんないたずらなら、いいか」。どこか寛容な自分に、私自身いちばんびっくりしていた。

(第6回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年8月27
日(火)掲載