ゆるやかな性 来生優

2019.5.27

01消したい事実と、消えない痛み


 

 にぶい痛みを感じた。あの嫌な感覚は、今でもわたしを苦しめる。
 地方の田舎町で、女系家族の長女として生を受けたわたしは、当時、祖父母を含む家族7人で暮らしていた。授業も終わり、冬休み期間に突入した小学3年の冬。親しい人から声をかけられ、誘われるままついていくと、肩をつかまれた。そのひとの手はわたしの胸、腹部、そして陰部へと順になぞるように伸ばされていく。今、自分の身に何が起きているのかすら理解できず、ただただそのときがはやく終わることだけを願った。「いい子だから。賢い子だから、わかるよね」。そんなわたしを無視して、そのひとはわたしの耳元で、低い声で囁いた。
 いつもとは違うそのひとの声に、気味悪さを感じた。下腹部の痛みが襲い続ける。その日、両親は仕事で不在。妹も塾に行っていて、全員外出中だった。誰もいなかった。呆然としながらも、一目散に自宅の自室へ向かい、部屋に入るなり真っ先に鍵をかけた。何年も暮らす家なのに、自分の部屋なのに、どこにも居場所がないように思えてきた。ただただベットの中で小さくうずくまり、つきん、つきんとする痛みに耐えた。「お母さん、ごめんなさい。」よくわからない罪悪感から、涙が頰をつたった。「お母さんが帰ってきたら、どんな顔をすればいいんだろう」。さっきまでここにあったはずの自分の身体が、得体のしれないものに思えてくる。太くて短い、畑仕事で汚れただろう土ばんだ指の爪を思い出すだけで、気持ち悪くなり、全身を吐き気が襲う。怖かった。普段あんなに優しそうに振舞っていたあのひとは、わたしになぜこんなことをしたんだろう。なんでこんなにも痛いことをするんだろう。わけがわからなくなっていたわたしでも、これだけは直感的にわかっていた。「きっとわたしは『女』だからこんな目にあったんだろう」ということ。そして、このことを誰かに話してしまえば、こんな田舎で地元のひとたちに知れ渡ってしまえば、これまでのすべてが壊れて、元通りにはならなくなってしまうということを。わたしはこの日から、そのひとの言う通り、物分りのいい、賢い子を演じることにした。当時は名付けられずにいた一連の行為の意味を知るのは、もう少し先のことだった。
 立て続けに、忘れられない出来事があった。母親にすすめられて行った個別塾の冬期体験授業。ふたりきりの個室で、男性教師から突然身体を触られた。ちょうど国語の時間で、思春期の学生たちが題材の物語を読んでいた。いざ問題を解こうとしていると「ぼくも、こんなふうになれたら嬉しいなあ」などと言われ、身体のあちこちを触られた。大人の男は、なんでこんなことをするんだろう。まったく理解できない状態で、身体がなまりのように固くなり、少しも動けなかった。声を出そうとしても、一向に身動きがとれず、金縛りにあっているかのようだった。ちょうどこの頃から、男性への嫌悪感が強くなっていった。学校で告白されても「気持ち悪い」と感じてしまい、体育の授業で同級生の男子生徒と少し手が触れるだけでも、ぞっとするようになった。「男たちはわたしにこれ以上近づいてくるな」。警戒心は、強まるばかりだった。
 誰にも言えない痛みを感じていたわたしにも、唯一心を開けるような親友がいた。江藤くんとは同じクラスで、周囲からは「オネエ」とも呼ばれていた。まるでお笑い芸人のように明るく、クラスのムードメーカー的存在だった彼。身長も高く大柄だが、どこが女性的な立ち居振る舞いに安心できた。いわゆる「男性らしさ」が全面にでていない、どこか中性的な彼の立ち位置は、ほかの男子生徒とは違っていて、彼となら心おきなく接することができたのだ。
 そんな彼が、冬休み明けから学校を休むようになった。先生に聞くと、「ご家庭の事情で」と言うだけで、本当のところはわからない。授業中も、放課後も、ぽっかりと心に穴があいてしまったようで、脳裏には彼の表情が浮かんでは消えていった。クラスメートの男子生徒から「おとこおんな〜」「お前はあっちだろ、女子の列並び直せよ」とからかわれるたび、「やめてよ〜」と笑い飛ばしていた彼。そんな彼が席に戻り、ふと見せる切なそうな表情。わたしが落ち込んでいるときには、それとなく察して、無理に理由を聞き出そうとせず、変な顔をしておどけて見せてくれた。わたしを救ってくれた彼を救えなかったわたしは、罪悪感でいっぱいになった。
 江藤くんがいなくて、すっかりつまらない毎日だった。そんなある日、アムネスティーインターナショナルが出張授業にやってきた。人権問題について考える授業が1時間ほどあり、授業後にはアンケート用紙が配布された。記入日、クラス、名前に続く性別記入欄に「男」「女」「その他」の記載があった。「その他…?」鉛筆を握るわたしの手は、そこでとまって動かなくなってしまった。この冬におきたことが走馬灯のように駆けめぐってきた。「男でも、女でもなく、わたしも『その他』だったら、あんなことをされずに済んだのかもしれない」「江藤くんは男でも、女でもないのかもしれない」……。その日、出会った「その他」をきっかけに、わたしの性と生に対する葛藤がはじまった。ちょうどその時期から、わたしはスカートを履かなくなった。正しく言えば、履けなくなってしまった。あの日、たまたま履いていたスカートを見るだで、すべてが蘇り、ひとり暗闇に引きずり込まれてしまいそうだった。当時の写真に映るズボンばかり履く自分が、こちらを睨みつけている。無防備ではいられなくなったことを悟り、幼いながらに強固な鎧を身にまとおうとしていたのだろう。できるかぎりの女性的な部分を排除して、少しでも男っぽい、どこかボーイッシュなキャラを自分自身で過剰演出演しよう。自分なりに身を守る術を身につけようと、毎日必死だった。

 

(第1回・了)

この連載は月2回更新でお届けします。
次回2019年6月13
日(木)掲載