どうも、神父です。 大西勇史

2020.3.25

10釜石で唱えた「主の祈り」

 

 僕たち一行は、4月3日14時ごろに釜石ベース(カトリック釜石教会)に到着した。釜石教会は既に信徒会館をボランティアに開放しており、一階のホールに荷物を置き、地元が釜石だという女性スタッフからオリエンテーションを受けた。聞けば、信徒会館は床上まで浸水し、敷地内には自動車や瓦礫が押し寄せ、地震直後はとても立ち入れる状態ではなかったようだ。

 釜石ベースは前日開設したばかりで、僕たちが二組目のボランティアだった。作業の内容については、今作業に行っているボランティアが帰ってこないとわからないが、きっとどこかで瓦礫の片付けをすることになるということだった。食堂には、カップラーメンや缶詰、お菓子などがあり、ある程度は好きに食べたり飲んだりしていいとのこと。

 このころ、カトリック教会が運営母体となって行っていたボランティアでは、ボランティアにやって来た人たちに各ベースで宿泊所と食事を提供していた。全国の信者から仙台に物資が集まっていて、それを各ベースに供給出来ていたのだろう。震災から約三週間後だが、あのとき、あの状況の中で、べース開設までに一体どれほどの方の尽力があったのかを思うと、今でも言葉が出ない。簡単には言えないが、そこには「人の力を超えたなにか」が働いていたのだとしか思えない。僕たちキリスト教の信者は、そういう力や働きを感じた時に、「神様」を思うことがある。

 オリエンテーションを終え、同行していた神父が一緒に来ていた皆を聖堂に誘った。少し皆で祈ろうということだった。

 そこで神父が話し始めた。この惨状を見て、驚いていること。ベーススタッフや地元の方が一生懸命働いていることなど。そして最後に「ここで出会う方々、特に傷ついている方々に私たちが寄り添えますように」と結んだ。そして、皆で「主の祈り」を唱えて聖堂を後にした。「主の祈り」は、イエスキリストが「祈るときには、このように祈りなさい」と人々に教えた祈りで、僕ら信者がとても大切にしている祈りだ。ミサはもちろんのこと、日々の暮らしの中でもことあるごとにこの祈りを唱えているので、信者にとってはもう水のようなものだと言っていい。そして、この日のこの祈りの時間は、僕たちに落ち着きを与えた。皆さんは、どこか知らない場所に迷いこんだときや不安な状況に陥ったとき、「いつもと同じなにか」に触れたくならないだろうか。見知らぬ場所でも、いつも行くコンビニチェーンを見かけて、そこにいつも買う定番のお菓子があったら安心しないだろうか。いつも味方でいてくれるあの人に、電話をかけたくなったりしないだろうか。主の祈りによって落ち着いたという事実は、そういう感覚に近い。

 祈りとは、どこでも、どんなときにも味方でいてくれる神様にかける電話みたいなものなのだ。そこでは話す内容もさることながら、そういう相手が自分にもいるのだということを思い出し、その相手に「向き合う」という行為のほうに意味があるように思う。

 外に出たところでベースのスタッフから、少しあたりを見てきたらと言われたので、一緒に来ていたボランティア仲間と三人で、でかけることにした。教会は地区の中でも少し高い場所にあったが、それでも前述のように床上浸水の被害が出た。だから教会より低いところにある民家はすべて被害にあっていて、一階二階とも浸水している家がほとんどだった。道路だけはなんとか通れるようにしてあるといった感じで、瓦礫はまだ道の端に寄せられ、積まれたままになっていた。

 その瓦礫の中にたくさんの小さなサメを見た。釜石は雪が降るほどの気温だったが、震災から三週間近くも経っていたので僕は驚いた。津波とともに打ち上げられた他の魚はもう腐っていたはずだ。後でスタッフに聞くと、サメは皮が硬く、腐りにくいのだそう。

 町は、泥だらけであるとともに、酷く埃っぽく、異様な匂いがしていた。ところどころで焚き火をしている人たちがいた。外から来ているボランティアなのか、地元の人なのかの見分けがつきにくく、声をかけるのをためらった。結局僕たちは1時間くらいあたりを歩き回ったが「うわぁ」「やばいな、これ」くらいしか言葉を発さなかった。

 教会に帰る途中に教会近くの銭湯が営業しているのが目に入った。出かけるときは、開いていなかったから、自分たちが歩いている間にオープンしたのだろう。張り紙が貼ってあったので近づいて読んでみると、「どなたでもどうぞ。お代はいただきません」と書いてある。その場を立ち去ろうとしたときに声をかけられた。「よかったら。入ってってー」明るく元気な声だった。振り返ると、この銭湯の人らしきおばちゃんだった。僕たちはボランティアで来たから遠慮しておくよ、地元の人から入ってもらわないとと、それっぽいことを言った。

 そうしたらおばちゃんは「そんなこと関係ない。私たちは自衛隊やボランティアの人、みんなに助けられた。だから、いつまでもお世話になりっぱなしじゃなくて、少しでもあんたたちに恩返しがしたい」と言った。

 被害にあっているのに、他者のことを慮ってくださるなんて。と思うより先に、到着初日でそんなことを言われて、僕は訳がわからなくなった。「する側/される側」という関係性はいつだってすぐに入れ替わるし、どちらもがお互いの存在を前提として成り立っているのだ。

 その日は、ベースの夕食の時間も迫っていたし、何しろ着いたばかりで団体行動をしなければという意識が僕たちにはあったので「何日かいるので、また来るね」と言い残して、ベースに戻った。

 戻ると、初日から来ていた別グループの人たちが作業から帰ってきていた。食堂が狭かったので何人かずつ入れ替わりで食事をとった。出てきたのは中華丼だった。絶対カレーだろうと思っていたので、ちょっと驚いて「すごいね、中華丼出るんだ」と言ったら「レトルトだけどね」とスタッフは笑っていたけど、温かいご飯を食べれただけで、随分ほっとした。

 食べ終わると「分かち合い」の時間。これも、ここのボランティアの特色だった。だったというより、この後、各ベースで続いていくボランティア活動の一つの柱となっていくものだった。その日の作業のフィードバックと言えばいいだろうか。それをみんなで共有する。感じたことを、言葉にし、それをそれぞれぞれが受けとりあう。そんな時間だ。この日は、僕たちも合わせてボランティアは10人以上いたと思う。

 まだ到着初日だった僕たちは、さっき見てきた街の様子などを話した。僕は銭湯のおばちゃんに「恩返ししたい」と言われて、訳が分からなくなったことを話した。みな黙って聞いていた。この分かち合いは誰かの発言に対して、何か意見を言ったりすることを禁じていた。教会で行う聖書の分かち合いも似たようやり方でやる。そうすることによって批判を恐れず言いたいことを言葉にしやすくなるという配慮だろう。当然、他言無用。だが、このときは、誰かに何か言ってほしいという気持ちが自分の中にはあった。自分の感じたことは正しいのか、間違ってはいないか。この日に見たもの、聞いたもの、そしてここで起きたことが自分がこれまでに経験してきた以上のもので、どう受け取っていいのか、キャパシティを超えていたのだろう。自分の感じ方を疑うことを普段あまりしなかった僕も、すっかり自信をなくしていた。だから、この分かち合いでみんなと「答え合わせ」をしたいという気持ちだった。そんな思いを残したまま分かち合いは終わった。

 夜はみんなでホールに寝袋を敷いて寝た。まだ作業が始まったわけではないが、長い1日が終わり疲れていた。だが、妙に頭が冴えて寝付きが悪かった。近くで寝ていた仲間が何度もひどい咳をしていた。いつの間にか眠りに落ちて、気がついたら朝だった。

 

釜石、仙台を経てその後僕が活動していた南三陸ベース(当時は米川ベース)の事務所にて photo:Yuzo Akai

 

 2日目。いよいよ作業が始まる。簡単に朝食をすませ、残りのご飯でおにぎりを作らせてもらって準備万端。2グループに分かれて釜石市の社会福祉協議会(以下、社協)へ向かう。と言っても、社協の建物も壊滅状態なので、向かったのは近くに張られたテントだった。ボランティア登録を済ませ、車に乗るように指示された。向かった先は、どこかの小学校の体育館だった。そこは物資の集積場になっていたため、運ばれてくる物資を下ろして、分類するのが仕事だった。

 瓦礫の撤去をする気で来ていたが、長靴は体育館前で脱ぎ、ヘルメットもシャベルも置いての作業だった。午前中の2時間ぐらいは物資が運び込まれ作業らしい作業が出来たのだが、午後になるとパタリと物資が来なくなった。僕たちの作業はなくなった。いつ運ばれてくるかも知れない物資を午後3時過ぎまで待ったが、その日は来なかった。

 正直、拍子抜けした気持ちになり、僕は帰りの車中で「これもボランティアだぞ」と自分に言い聞かせている始末だった。思っていたことと違うことがあっても、自分を保つ。次に何かあった時に良い働きができるようコントロールしておく。だが、必死でそう言い聞かせねばならないほど、この日の作業は物足りないものだった。4時間近く体育館ですることを見つけられないまま過ごし、僕は明らかに不完全燃焼だった。

 ベースに帰ると、スタッフが「昨日のあの銭湯へ行ってきていいよ」と言ってくれた。早速、一緒に来ていたボランティアに声をかけたが、皆遠慮すると言い、結局僕と大学生の二人で行った。ざぶんとお風呂に浸かって、大学生と「生き返るね」と言い合った。東京を出て2日しか経っていないので大袈裟だが、震災以降、僕なりに色々なものを背負って緊張していた。「お風呂に入る」という日常の営みによって、その背負っていたものが洗い流された気がした。

 銭湯には僕らの他に三人の地元の人がいて、三人全員から感謝された。一人の人の家には今日ボランティアが来て片付けをしてくれたらしい。自分がやったわけでもないのに、なんだか嬉しかった。

 帰り際におばちゃんに「来てくれて、ありがとう。また来てね」と言われたので、「こちらこそ、ありがとう。最高のお湯だった。また来るね」と言って店を後にした。

 翌日は、朝から喉が痛かった。咳をしていた仲間は発熱のため、作業を休むという。「オレも、まずいかもな」と思ったが、まだ喉が痛いだけだし作業に行くことにした。この日社協で割り振られた仕事は泥かきで、場所は教会のすぐそばの民家だった。皆で、午前中いっぱい汗だくで作業し、このあとは二階からタンスを持って降りるぞというところで、お昼休みとなった。現場がベースに近かかったので、皆ベースで昼休みを過ごしていた。昼食をとり、さぁこれから行くぞと長靴を履いている僕の後ろで、スタッフが電話をしていた。「大西くんなら、ここにいますけど」という声が聞こえた。「あ、分かりました。今日の3時過ぎから仙台行きのバスが再開したところなので、それに乗ってもらいますねー」電話が終わってスタッフが「K神父が呼んでる。本部を手伝ってほしいみたいだから、3時過ぎのバスで仙台に行って」と告げた。え、オレ今から仙台行くの? このグループとはお別れ? まじ? K神父さん、あん時会ったのに、何にも言ってなかったよね。

 かくして、僕は2日目にしてグループを離れて一人、仙台に戻ることになった。午後の作業には結局参加せず、高速バスに乗り込んだ。あの二階のタンスは無事に運び出せただろうか。そして、「また来るね」と言ったきりになってしまった銭湯のおばちゃんのことを考えた。

 

(第10回・了)

 

 

追記
教皇フランシスコは自身のTwitterで「コロナウイルスのパンデミックという試練に、全世界で祈りと思いやり、優しさで対抗していきましょう。キリスト者の皆さん、3月25日の午後8時(イタリア時間は正午)に、天に向けて皆さんの声をひとつに、主の祈りをともに唱えましょう。」とツイートしています。この「どうも、神父です。」をご覧になられた方も、もしよろしければ、信者は主の祈りを、信者でない方は1日も早くこの困難な事態が収束するようご自分の言葉で祈りましょう。僕も島根県浜田市から全世界のみなさんと心を合わせて祈ります。

 

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年4月8日(水)掲載予定