どうも、神父です。 大西勇史

2020.4.8

11仙台での3日間

 

 その日、運行が再開した釜石発仙台行きの高速バスは何席かを除いてほぼ埋まっていた。アウトドア用の防寒着に、長靴、ヘルメットにスコップなどを持った、明らかにボランティアで来ているんだなとわかる人も何人かいた。僕は後ろのほうの席に座り、ベースを出る前に上着のポケットに入れていたiPodを取り出しイヤホンを耳につけた。東京を出発してから一度も使っていなかったため、電源を入れると、まだみんなと集合する前に中央線の車内で聞いていた曲が停止されたままだった。それを見て、ずいぶん時間が立ったように感じたが、実際は2日しか経っていないことに驚いた。

 途中、眠ったり起きたりを繰り返しながら約5時間かけて仙台に着き、仙台駅近くの停留所から歩いて10分くらいで目的地のカトリック元寺小路教会に着いた。ここの2階が仙台教区サポートセンターとなっていた。

 もう夜の9時だというのに、そこにいたスタッフ6人はパソコンに向かったり、電話をしていたりと、忙しそうに仕事をしていた。一人の男性が僕に気づき「こちらにどうぞ」とパーテーションの向こう側に案内してくれた。のちに友人となる赤井悠蔵氏とのはじめての出会いだ。ちなみに彼は前回、前々回の写真の提供者でもある。ボランティアに行ってどうだったか、どんな作業をしたかなど、いくつか質問をされた。このころ、教会のやっていたこの活動(被災地の教会をベースにして、そこに全国から応募のあったボランティアを送る)では、行くときだけでなく、帰る際も再度仙台に立ち寄り、フィードバック(聞き取り)が行われていた。これは、本部に情報を蓄積する目的もあっただろうが、むしろ、ボランティアに参加した人の心のケアが目的だった。毎晩ベースで分かち合いとして行われていたが、現場を離れて実生活に戻る前に、もう一度この仙台のサポートセンターでスタッフに話を聞いてもらうという仕組みになっていた。

 それにしても、僕は仙台にある本部で働くように呼び戻されてここにいるのだし、釜石での作業なんて実質1日半しかしていなかったので、そんなに話すことは特にないなぁとなんだか要領を得ぬまま赤井氏の質問に答えていた。

 そうこうしているうちに、僕を呼び戻したK神父が通り掛かったので「神父様、大西です。釜石から戻ってきました」と声をかけた。すると「おう、兄さん、よく来てくれた」と言って握手をしてくれた。そして赤井氏に向かって「これ、今日からここを手伝ってくれる大西神学生だから」と僕を紹介した。ここで二人とも謎が解けた。要するに伝達がうまくされておらず、赤井氏は僕のことを釜石、石巻、塩釜にある、いずれかのベースで作業を終え、フィードバックのために立ち寄ったボランティアの一人だと勘違いしていたようだ。「そうだよねぇ、なんか変だと思った」と赤井氏と二人で笑い合った。

 ここでの最初の仕事は、この日のスタッフの晩ご飯を買いに近くのコンビニまで行くことだった。働いていたスタッフは、信者の人、信者ではないけど教会に縁のある人、僕のような学生、そして神父にシスターと、みな災害支援の専門家ではない、いわゆる普通の人たちだった。

 僕は、東京を出る前にボランティアの登録フォームに書いた活動希望期間の「1週間」を目安に活動するということになった。すでに東京を出てから3日が経とうとしていたので、翌日からの3日間、仙台の本部で働くことが決まった。各ベースへ向かう前のボランティアの方々といっしょに、一階の大部屋で寝袋を敷いて寝た。

 そして、ここでの3日間は主に、物資の運搬をしていた。全国から本部に送り込まれる物資を仕分け、それを宮城県内の塩釜、石巻の2箇所のベースに持っていくというもの。送られてくる物資は衣類から食料品、日用品と幅広く、本部が設置されていた教会の一室は完全に倉庫と化していた。

 突然だが、読者の皆さんは「教会」というものにどんなイメージをお持ちだろうか。ただ建物を指すのではなく、宗教の「キリスト教」を象徴するもの。寄付やボランティアといった慈善活動を思い浮かべる方もいると思う。実際、教会では比較的頻繁に募金のお願いがあったり、福祉部のような組織があって地域の奉仕活動のようなことをしていたりする。

 僕は、全国から集まってくる物資の仕分けをしながら、教会はこういう活動、つまり物資を送って援助したり支援したりすることに慣れているなと感じた。そのノウハウが培われている。荷物の送り方が上手な教会がとても多いことに感心した。「上手な送り方」とは、開けたときにすぐ取り出して使いやすい、もしくは保管しやすいように梱包されている。受け取るこちらの状況を想像してくださっている。たとえ遠く離れていても、そうやって見ず知らずの相手の気持ちにだって寄り添うことができるのだ。「緊急時の物資」と一括りに言ってしまうと味気ないが(本当に緊急な場合は味気ないなんて言ってられないと思うが)、ひとつひとつの段ボールが「あなたのために何かしたい」「あなたのことを想っている」という思いの詰まった贈り物だとこのときに感じた。

 こう書いたところで、現在の世界についても思いを巡らせる。はっきり言って、地震や津波、ウイルスに罪はない。僕たちは、地震や津波が起き、ウイルスが存在する、そんな星に生まれ、そんな星に住んでいる。問題は、それら自然災害や疫病を完全に「ないこと」にして生きている僕たちの傲慢にあるのではないか。教皇フランシスコは回勅ラウダート・シで、この地球のことを「ともに暮らす家」と呼んだ。僕たちはこの家の設備について、この家にともに暮らす隣人、生物、そして生き物なのかも曖昧なウイルスのような存在について、そろそろ真剣に考えなくてはならない。自分の生活や行動のなかに、それらを織り込んでいくことを始めよう。

 今、僕たちにとって「会う」ことはなかなか難しくなってしまったけど、決して一人じゃない。僕が2011年に感じたように、想いや願いは送り合えるのだ。ウイルスに立ち向かうべく最前線で働いてくださっている医療現場の方、インフラを絶やさないために働いてくださっている方のことを祈りながら、互いに情報を共有し、知恵を出し合ってこの困難な時期を乗り越えたい。

 

これは今年の浜田の桜。

 

 話は2011年に戻って、支援物資の運搬先である塩釜ベース(カトリック塩釜教会)までは平時であれば車で40分、石巻ベース(カトリック石巻教会)までは車で1時間の距離だったが、当時は渋滞がひどく、塩釜までは2時間以上かかり、石巻に至っては3時間を要した。それぞれのベースには、ベース長とボランティアの食事の世話をしているシスターたちがいた。ベース長は長期で来ているボランティアさんがやっていた。シスターも全国のシスターたちが被災地にボランティアに行く取り組み「シスターズリレー」から来ていたので、それぞれ普段暮らしている場所は全国バラバラだった。このころの運営スタッフはどうやって集まったんだろうと不思議に思うことがある。のちに自分もベース長を任せられることになるので例外ではないのだが、あの当時の被災地には、どこに行っても、年齢や職業、出身地など、本当に多様な人たちで溢れていたように思う。それに、皆とても個性的で、「猛者感」が凄かった。

 物資を届けに行った塩釜ベースは、聖堂で男性たちが寝ていた。聖堂は本来、ミサをしたり、祈ったりする大切な場所なので、聖堂で宿泊することについては賛否両論があったと思う。まして、信者も未信者も一緒くたのボランティアたちだから、聖堂への意識はそれぞれである。だけど僕は、神様からしてみたらそんなのたいした問題じゃないだろうし、被災地にありながら、安心してぐっすり眠れそうでいいなとそのとき思った。寝袋が並ぶその聖堂は、僕の目には「神様のゆりかご」のように映った。

 本部での3日間の仕事がなんとか無事に終わり、東京に戻る日の朝を迎えた。忙しい中、玄関まで見送りに出てくれたK神父は「また、来いよ」と言ってくれた。僕にとって、はじめての災害ボランティアが終わった。

 しかし、別れ際に「また、来いよ」と言ってもらえたことはことのほか嬉しく、東京に戻り、司教様に報告する際に今度は自分から「また、行かせて欲しい」と頼んだ。すると司教様は、その場で春から決まっていた研修先に電話をしてくれ、ぼくはまた被災地に行くことを許された。そして、東京で4月24日と例年より遅めの復活祭を終えた翌日。今度は長期のボランティアとして、1ヶ月を目処に滞在する予定で仙台に向かった。

 東京に戻ってからも、仙台にいるスタッフとは連絡をとっていたため、このときの仙台行きにはミッションが課せられた。それは、東京駅から電車で10分、江東区の潮見にあるカリタスジャパンの事務所へ行き、そこからハイエースを運転してきて欲しいというものだった。僕は東京から潮見に向かい、そこから一人、ハイエースで仙台に向かった。7時間くらいかかったが、自分のことを必要とし、待ってくれている人がいるという喜びと、既に仲間のように接してくれるスタッフたちのことを思いながらだったので、ちっとも苦じゃなかった。

 到着したら、スタッフ総出で出迎えてくれた。今にして思えば、あのチームは本当にみんな明るかった。元気だった。「おかえり」と声をかけてもらって、この人たちのためにも頑張ろうという気持ちが満タンになった。

 そこから、2、3日は以前と同じような物資の仕分けや運搬の仕事を手伝っていた。少しずつだが各ベースや本部の内情も知れて、チームの一員となってきている実感があった。そんなときだった。気仙沼、南三陸という地名が全体のミーティング中にたびたび発せられるようになり、聞くところによると、どうやらそこに新しいベースを立ち上げるのだという。僕は、次はそこに物資を運ぶことになるのかなと思いながら、ミーティング中は黙って聞いていた。

 翌朝、K神父に「米川教会に行ってくれ」と言われた。「それどこです?」と聞き返すと、ナビ見て行けと言われた。行ってどうするんですかと聞くと、そこの司祭館をベースにしたいから掃除してきて欲しいという。教会のすぐ下に信者さんが住んでるから、そのかたに鍵は開けてもらってくれ。それだけ言って、「よろしくね」と神父は去っていった。

 とにかく「ヨネカワってとこに行って掃除してくりゃいいんだな」と思って、物資の倉庫に行って掃除道具など役に立ちそうなものを車に積んで、ぼくは一人ヨネカワへと向かった。

 

(第11回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年4月22日(水)掲載予定