どうも、神父です。 大西勇史

2020.4.22

12突然の任命

 なぜ、ヨネカワに行って教会を掃除するのか、なんとなく想像はできていた。しかしその理由をK神父の口からはっきり聞いたのは、目的地である米川教会に到着したことを報告した電話でだった。米川教会(司祭館)をベースにして、そこから南三陸へ出かけて行き活動するというのが本部の方針だと言う。

 米川という場所は宮城県北部の内陸にあり、ここから活動場所になる沿岸部の南三陸町までは車で40分かかる。南三陸町は人口約17,000人の町だったが、津波による死者と行方不明者は800人を超えていた。また、役場や防災庁舎といった町の主要な行政機関や公共施設も被災していた。一方、米川は津波の被害は受けておらず、地震の被害についてもほとんどなかったと聞いた。

 僕に命ぜられたミッションはベース開設に先立ち、そこの掃除をしてこいというものだったのだ。

 米川教会は田園風景を抜けた先にある集落の小高い丘の上に建っていて、遠くからでも聖堂の尖塔がよく見えた。同じ敷地に、附属幼稚園の園舎と古ぼけた小さな民家があった。幼稚園の先生に挨拶を済ませ、あたりを見回したが司祭館らしき建物は見当たらない。事前に言われていたとおり、すぐ近くに住んでいる信者さんのお宅を訪ね司祭館の鍵を借りる。信者さんについて再び教会へ戻ってくると、例の小さな民家の前に案内された。

 信者さんは「本当にこんなところに、ボランティアさんが来られるのかしらねぇ」と笑っていた。教会に神父は常駐していないため、担当の神父は米川から車で45分ほどの築館教会(宮城県栗原市)と兼任で、毎週日曜日のミサのときだけ来るということだった。この小さく古ぼけた民家が、米川教会の司祭館だったのだ。鍵を開けて中に入り唖然とする。あまりの汚さに「え、まじ。ここが司祭館なの?」と思った僕はK神父に電話をかけた。「本当にここ(司祭館)を使うつもりですか」と。すると神父は「そうだ、なんせ7年間も誰も住んでなかったからな。ワッハッハ」と笑っていた。これから南三陸の支援を行っていくために米川教会をベースにすることは納得出来たが、この司祭館はどう考えても小さいし古いし汚いし無理だ。せめて聖堂や、幼稚園の一角を借りるとか考えませんかという意味で聞いたものの、K神父は「司祭館でやる」の一点張りだった。

 司祭館を掃除してベースにするというミッションがこんな一大事だとは思っていなかった僕は、それならそうと出る前に言ってよねーと思ったが、そう言われたところで行くことを拒否したわけでもないだろうし、結局何も変わらなかったはずだ。心の準備が欲しかったのだろうか。いや、きっと今まで各地で見てきたベースとは、規模やキレイさなどがかけ離れていて驚いただけだ。信者さんもK神父も笑っていたしそう思いたかったが、「これは、えらいことになった」と僕は笑えなかった。

 その日はできる限りの掃除をした。掃除機をかけ、ありとあらゆる場所を雑巾で拭いた。その日のうちに仙台に戻るつもりでいたので、夕方17時ごろまで作業をして、モクモクするタイプの殺虫剤を焚いて出た。次に来るときに惨劇になっていそうで怖かったけど、この日の掃除中に出会った虫さんの数が夥かったので、そこはやむを得なかった。ごめんよ虫さん。

 3時間かけて仙台に戻り、K神父に報告すると「どうだ、凄かっただろう」と言ってまた笑っていた。こちらもなんだかおかしくなって「どうだじゃないっすよ、凄かったのは虫の数だけです」と答えた。米川教会はすぐにはベースとして使えないと思う、もう少し掃除や片付けをする時間と人手が欲しいと僕が伝えると、GWに間に合うように開設してもらいたいとK神父は言う。この日は4月27日だった。人によっては2日後、すなわち29日からGWだ。と思ったが、とりあえず明日また泊まり込みで行って、オープンギリギリまで自分が掃除や片付けをしていればいいやと思い直し、それ以上何も言わなかった。何か言っても「まぁ、(そう言わず)やれ」と言われただろう。なんだかんだで僕のことを信頼し始めてくれているのだなと伝わってくる、K神父とのそんな関係性が心地よかった。

 次の日も仙台から一人で出かけていった。懸念していた虫さんたちは、部屋によっては足の踏み場もないくらいびっしりと仰向けになられていた。こうなってくると「虫がたくさんいる」というより「虫の家にこちらがお邪魔してる」という気にもなってくる。しかし、すべて掃除機で吸わせていただいた。許しておくれよ虫さん。

 できる限りの作業をして、その日も仙台に帰った。そして、その翌日。米川ベースは4月29日に最初のボランティアの方々を受け入れた。受け入れたと言っても、やはり僕一人では掃除も片付けも終わらず、結局、ボランティアの方たちに手伝ってもらって箪笥や食器棚といった古くて使えなくなった家具などを運び出してもらい、なんとかオープンすることが出来た。

 僕は、オープンから3日間この米川ベースに滞在し、その後は仙台の本部に戻って働いていた。ところが、ベースが動き始めて一週経った頃だろうか。ベース長を務めていたある神父と、常駐スタッフの関係がうまくいかなくなった。そのとき問題になったのは、スタッフとボランティアの食事についてだった。ちなみに、ここに限らず他のベースでもそうだったのだが、基本的にボランティアの方は各自レトルトの食事を持参するのがルールだった。スタッフはそれを受け取り、それらをアレンジしたものを毎食提供していた。そして、ボランティアとスタッフは揃って同じものを食べていた。

 ベース長の神父はそこが気になったようだ。彼曰く「スタッフは長期で支援するのだから、健康に気をつけてきちんとした食事をするべきだ。何も短期のボランティアに合わせてレトルトばっかりとる必要ない」と言い、スタッフは「自分たちはチームだ。同じ釜の飯を食べることこそ大事じゃないか。そもそも、この小さい食卓で、自分たちだけちゃんとしたものを食べるなんて、考えられない」と主張した。

 確かに1ヶ月や、それを超える長期の滞在となるとスタッフの健康が気になる。だからと言って、小さなベースの小さな食卓で揃って食事を取るのに、その中身がスタッフとボランティアの方とで違うのは忍びないと思う気持ちも分かる。僕はどちらの言い分ももっともな所があるし、なんとか折衷案で事態を収められないかと考えて「じゃあ、ボランティアさんが作業に出かけている昼に、栄養バランスのいいメニューを食べることにしましょうよ」と提案した。そうすれば、少しはスタッフの体調面をケア出来るし、ボランティアの方が作業に出ている間なら、心情的な後ろめたさが多少和らぐのではないかと思ったのだ。

 しかし「ボランティアさんが働いているときに自分たちだけちゃんとした食事をするなんて申し訳ない」とスタッフは言い、僕の提案は受け入れられなかった。その後、両者の話し合いは「夜の分かち合いのやり方」や、「スタッフ間の情報共有や神父への報告の仕方」など食事以外のことにも及び、収集がつかなくなってしまった。

 なかなかまずい状況だと思い、仙台に戻った僕はK神父にそのことを報告した。すると珍しく深刻な顔をして考え込んだK神父は、しばらくしてこう言った。「兄さんがやるしかねぇかもしんねぇな」仙台と米川を行ったり来たりするではなく、専従のスタッフになれと言われているのだ。「やっぱそうですかね」と僕は返した。するとK神父は「やってみっか、ベース長」と言いながらニヤニヤしていた。「えーーーーー!!!! そういうことなんですか」とそれはそれは驚いた。専従スタッフになれというのは、ひょっとしたらありうるかもなと覚悟していたものの、まさかベース長をやれと言われるとは微塵も思っていなかった。どこのベースも、歴戦の強者のような人たちがベース長を務めていて、自分がその並びに入ることなど想像もしたことがなかった。だから、このときばかりはさすがに一晩考えさせてくださいと言った。そして、その晩は聖堂で祈った。

 こういう、自分にとっての無理難題を前にしたときに思い出す聖書の箇所がある。ダヴィンチの絵で有名ないわゆる受胎告知、マリア様のところに天使が現れてイエスを身篭ることを告げる場面である。

 『六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカによる福音書1,26-38)』

 このくだりで好きだなと思うのは、あのマリア様ですら天使に反論したというところだ。教会では、一番最後の「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」という言葉と態度が「良い信者の見本」として、ミサの説教や講話、婦人会のスローガンなど、至るところで標榜されている。しかし、その前は案外見落とされているように感じることが多い。けれど、この場面で一番重要なのは、マリア様の「神様の言う通りになりますように」という言葉の意味もさることながら、神様に対して臆することなく、正直に自分の気持ちを表現したその姿勢だ。マリア様のその正直な姿勢は、神様に対する「この方は、なにを言っても自分を受け入れてくださる」という絶対的な信頼からくる。戸惑い、考え込み、反論した後に受諾するという彼女の心の動き、無理難題を受け入れるまでのプロセスがはっきりと見て取れる。

 祈りながら、なんだかすごい展開になってしまったと思った。米川ベースの状況が改善されたらと良かれと思って報告したものの、これでベース長が僕に交代してしまったら自分のしたことは単なる告げ口になるんじゃないのか。それにもし引き受けたとしても、最前線であの猛者たちを束ねて活動していくことが、若輩者の自分に果たしてできるのか。不安な思いを神様に向かってすべて打ち明けた。不安はまだまだあったが、その不安を意識化してやることとで、少しスッキリした。そして「ベース長を引き受けよう」と心に決めた。

 翌日、K神父にベース長をやると告げた。「おう、やってくれるか。よろしくな」と言われた。そして、仙台に置いていた荷物を全部持って米川に向かった。そこから、約5ヶ月間、僕は米川ベースの初代ベース長として身を粉にして働いた。

 

(第12回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年5月6日(水)掲載予定