どうも、神父です。 大西勇史

2019.11.27

02新米神父の失敗

 

 神父になってはじめての2018年の夏、大きな箱に入った信者さんからの贈り物が届いた。

 その贈り物を抱えて「ついに神父になったんだなあ」と僕はしみじみした。実は、2006年から2018年まで続いた長い神学生時代に「神父の所には夏になると贈り物(お中元)が届くらしい」ということを学習していたので、自分のところにもついに来た(僕も神父になったのだ!)と感慨深く思ったというわけである。

  ドキドキしながら包みを開けると、なんとそれは12個の桃だった。「ヒュー。桃の贈り物とか最高じゃん」僕は早速それを冷蔵庫に入れた。当時は岡山の教会で上司にあたる主任神父、日本で働くためにやってきたフィリピン人の神父との三人暮らしをしていた。僕はもちろん一番ペーペーだから、共用の冷蔵庫も一番下のスペースを使っていた。そこにいただいた12個の桃を入れて、こう張り紙をした。「どなたでもどうぞ、桃のいただき物をしました!」これはオレが貰ったんだぞ、と誇示するようにでっかい字で「大西」と書いた。桃の贈り物が届くオレ、それを気前よくみんなにお裾分けしちゃうオレ。どや! すごいだろう。オレオレやかましい自信満々の張り紙が、冷蔵庫のドアにバーンと張ってある。うむ、我ながら誇らしい。

 この年の夏は、西日本豪雨で中国地方に甚大な被害が出たため、僕は教会が主導する復興ボランティアに携わっていた。内容としては、全国から集まってくるボランティアさんの宿泊所の開設と管理である。加えて、それらが忙しくない日は、自らも平島という教会から車で30分ほどのところにある被災現場に出て作業をするというもの。桃が届いたその日も、宿泊所から連れ立っていった三、四人のメンバーとともに一日中泥を掻く作業を行った。作業中僕は何度か桃のことを思い出し、今日は帰ったら桃があるぞ。あの桃を食べるんだ。といつもとはちょっと違う1日のエンディングを迎えるのを楽しみにしていた。僕はお酒がめっぽう弱く、晩酌なるものに縁がないのだが、仕事終わりのビールを楽しみにするお父さんはこんな気持ちなのだろうか。ちなみに、神父は飲酒OKである。毎日しているミサでは少量ではあるもののワインを必ず飲むし、聖書にはあのイエスさまも大食漢で大酒飲みだったという記述があるくらいだ。

 夕刻、ボランティアから泥だらけのまま帰ってシャワーを浴び、準備万端整えて冷蔵庫を開けた。

 ん? え? あれ? 桃は思いのほか減っていた。

 イエスの12使徒と同じ数って思ったから、間違いなく桃は12個あったはず。ウチの教会にいるのは、先に述べたように僕の他にあと二人の神父。他の二人が1個ずつ食べたとしても、まだ10個は残っているはずではないか。いや、最低でも10個なければならないのだ、オレの桃は。しかし、桃は8個しか無い。

 まぁ、しょうがない。そもそもお裾分けしてるんだし、自分が思っているより少なかったからってそれがどうした。お前はよく施したと、神様は喜んでいるに違いない。なんだか釈然としないけど、早く気持ちを切り替えないとせっかくいただいた桃と僕の善意が台無しだ。冷えた桃を冷蔵庫から取り出し、スルスルと皮を剥き、皿に盛った。そして、果汁がしたたる白く美しい桃を口に運ぶ。う、う、うっみゃーい。……最高すぎる。一口食べたときの、あの美味しさって言ったら無かった。思えば、こうして自分で桃の皮を剥いて丸々1個食べたこと自体がはじめてだったのだ。それはそれは美味しく、だからこそ余計に計算より多く減っていた桃を惜しんでいる自分がいたが、その日のところは無視して寝ることにした。

 次の日も僕は作業に出かけた。冷蔵庫の桃を楽しみにしながら泥掻き作業をこなし、帰途につきながら、少しばかり心の準備をした。もちろん桃の残数に向けてである。あまりがっかりもしたくなかったので、昨日僕が食べたあとで桃の残数は7、きっとこれくらいは減っているだろう、と最悪の場合を考えた。前日同様、シャワーを浴びて準備万端。さぁ、と冷蔵庫を開けると桃はなんと、3個しか無かった。

 確かに減っていることを予想してはいた。がっかりしないように、最悪の場合をも考えてもいた。だけどそれは「まぁ流石にそんなことは起こりえないよね」というカッコ付きの話である。だが、最悪の場合と同じ数の桃しかそこにはなかった。ほんとなのだろうか、何かの冗談ではなかろうか。どうしたら2日で8個も桃がなくなるのだろうか。ウチ三人暮らしだよね。オレはまだ桃を1個しか食べていない。

 さては毎食後に食べた人がいる。そうとしか考えられない。それとも、誰かに来客があってその人にふるまったのか?

 腹立たしさを抑えながらいただいた、僕にとっての2個目の桃もとっても美味しかった。しかし、惜しい、悔しい、腹立たしいを一通り通過して悲しみが僕を襲った。僕が貰った桃なのに。

 ここで、あの猛々しい張り紙は外そうかと思った。「どなたでもどうぞ、桃のいただき物をしました!」と書いてあるあの張り紙を。だけど、一応プライドがあるし、意地も信仰も少しあるから、僕はそのままにしておいた。ただし、お願いだから残りの2個の桃は食べないでくださいと願いながら。

 ……と、このあたりで一度現在の僕がツッコミを入れておくと、このときの僕の心は半分以上、悪霊に取り憑かれています。これでも神父です。続けます。

 その翌日、それはもう祈るような気持ちで帰ってきて、準備万端整え、冷蔵庫の前に立つ。神様に一言、「神様頼むよ、空気読んでよ」。一応、手も合わせる。

 桃はなかった。どこをどう探しても、一つのかけらもなかった。

 ふつふつと濁った気持ちが湧き上がってくる。だいたいあの桃は僕が貰ったものなのに、神父になって最初にいただいた記念すべき贈り物なのに。仮にも他人がいただいたものなのだから、普通はもっと遠慮というものがあっていいのではないか。感覚が違いすぎる、ここの人たちとは一緒にやっていけない……と僕はひどく感傷的になっていた。

 どうにもこうにも気持ちの収まりがつかないので、もうこうなったらなくなってしまった桃を自ら買いに行こうと思い立ち、自転車に乗った。近所のスーパーで、1個1000円近くする高級な桃を二つ買った。教会に帰って、その二つの桃を一気に食べた。はっきり言って、その桃の味は覚えていない。むしろ、いま思い返すだけでも恥ずかしさが込み上げてくる。僕は仮にも神父で、普段、人には善行を行うようにとか、貧しいものには施しをなどと教えている立場である。それなのに、自分の桃の取り分が減ったくらいで不快に思ったりしている。さらに、欲望なのか憤りなのか、はたまた八つ当たりみたいな気持ちで桃を買いに走り、一人でそれを食べているだなんて。もしかして地獄とは、こういう自らの恥ずかしい姿を隠しカメラで撮られていて、後で公開されるようなところなのかもしれない。絶対に行きたくない。

 それから2、3日は情けないし悲しいしで、いやな気持ちだった。神父になって初めての贈り物は、こうして苦い思い出とともに記憶されるんだと思っていた。

 それからしばらく経った夏の終わり、桃の出来事も忘れかけていた頃のことである。夏の間続いていたボランティア活動から戻ると、食卓の自分の席にまた大きな箱が置いてあった。開けると、なんと桃だった。数は12。

 「oh my god!!!」

 神様はこういうカタチで願いを叶えてくれるのだ。

 神「どうしたんだ、ゆうじ?」

 僕「はじめての贈り物にいただいた桃が、みんなに食べられちゃったんです」

 神「お前は良いことをしたのだから、それで良いのだよ。あっはっは」

 僕「でも、もう少し食べたかったしー。ぶーぶーぶー」

 神「わかったわかった、もう少しまっていなさい」

 みたいなカンジで、願いを聞き入れてくれたに違いない。

 だが、その桃をリビングで開けてひとしきり喜びに浸ったころ、僕のもとへまた悪霊がやってきた。そいつは一言だけ耳元でこうささやいて、立ち去っていった。

 悪霊「冷蔵庫に入れると、なくなるぞ」

 ふたたびすっかり悪霊の手玉にとられてしまった僕は、桃の箱を持って速やかに冷蔵庫前を通過し、自分の部屋へと向かった。

 翌日、ボランティアから帰って来て自分の部屋にある桃の箱を開けると、そこには一個も欠けることがなく、12個の桃が鎮座している。部屋中に桃の香りが立ち込めている。幸せだ。

 前回の経験を通して、僕が学んだことは二つあった。一つ目は、実は桃は食べる30分前に冷蔵庫で冷やして食べると美味しいということ。二つ目は、この冷蔵庫に桃を入れるとなくなるということ。なので、冷蔵庫に桃をしまった僕はタイマーをセットし、その前にある椅子に腰掛け、本を読んで待つことにした。

 30分きっちりに携帯のタイマーがなった。

 黄桃、肉厚と言っていいのか、食べ応えのあるほんとうに美味しい桃だった。もちろん、ほどよく冷えていた。いや、このくらいをほどよいと言うのだなとこのとき学んだ。

 そして、この一連の動作を2日続けた。作業から帰ってきて、箱を開けて減っていない桃の姿を確認し、それから冷蔵庫の前で桃が冷えるのを30分待ち、おいしくいただくという、幸せな日々だった。

 4日目のことである。

 僕は生来横着なこともあって、シャワーを浴びる前に桃を冷蔵庫に入れておくという作戦を作業からの帰り道の途中で思いついた。つまり、桃を冷やしている間にシャワーを浴びてしまい、そのあとにほどよく冷えた桃をいただくと言うわけだ。その30分の間にまた誰かに食べられてしまわないかという心配もあったが、その日はちょうど皆外出していて留守だったのだ。だが、いそいそと部屋に入り、桃を掴んだそのときのことである。指先に、じゅるっとした感触が伝わった。他の桃も確認してみると、ほぼ等しくずぶっと非常にジューシーなご様子である。

 つまり、日中締め切った暑い部屋に置かれていた桃は、4日で完熟しきってしまったのだった。

 「oh my god!!!」

 その瞬間、これに似た話が聖書にあったと思い出し、僕は聖書をめくった。

 あったあった、ルカによる福音書の12章にあるイエスのたとえ話である。その内容もさることながら、小見出しを見て僕は心底恥ずかしくなった。小見出しにはこう書いてあった。「愚かな金持ちのたとえ」

 (イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。"さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ"と』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」)

 要するに、欲張りな金持ちが、「自分のためだけに使うなんて何事か。神のため、みんなのために使え!」と神様に怒られるというたとえ話である。普段、人の為に〇〇しましょうね。と言う側の神父がこのザマである。しかも一度己の浅ましさに気がつきながらも、悪霊のささやきに心を奪われてしまっている。はい、「愚かな神父のたとえ」の完成。

 僕が自分のためにため込んだ恥ずかしい桃は、教会内にいた信者さんに全部配って回った。みな高価なものをと、喜んでくれた。中には「まぁ、この桃、完熟ですね!」と仰る方もいて本当に赤面ものだった。

 そして、神父である僕は考えた。結局、自分さえ良ければ良い。というエゴをコントロールしきれていないからこうなったのではないか。

 ではどうすればコントロール出来るのかとしばらく頭を悩ましていたとき、テレビのドキュメンタリー番組に出演されていたスーパーボランティア・尾畑晴夫さんの言葉にはっとした。尾畑さんのことは、2011年の東日本大震災の際に僕も南三陸町で半年働いていたことがあったため、その頃から知っていた。その当時も尾畑さんは個人で南三陸町にやってきて、テントを張って活動されていた。そんな尾畑さんのことをみな、テント村の村長と呼んでいた。

 そのドキュメンタリーの中で「どうして、そんな活動が出来るのか?」という問いに、彼はこう答えていた。

 「おふくろは、天国で自分の行動、言葉をじいっと見つめている。尾畑晴夫を見ている。おふくろに褒めてほしい。頭をなでてもらいたい。背骨が折れるくらい抱きしめてもらいたい。胸のあばらが折れるほど、抱きしめて欲しい」

 この言葉を聞き、それならいっしょだ、わかると思った。尾畑さんにとってのおふくろと、僕にとっての神様は同じなのだ。そういう感覚があった。

 つまり、こうだ。何かを独り占めにしたくなったり、自分さえ良ければ良いという気持ちが発動しそうになったときに、すかさず神のまなざしを感じるようにすれば良いのだ。神は見ているのだ、あなたのその選びを。だけど、このときのポイントは、神はたとえどちらを選んでも怒ったりはしないというところだ(明らかな悪は除いて)。

 神はあなたのその選択をにっこりしながら見守っていてくれる。そのまなざしをイメージしたい。

 「桃をみんなに分けてあげるあなたでも、一人で全部食べちゃう欲張りなあなたでも、あなたのことが大好きだよ」と、そんな優しいまなざしを意識することが出来れば、僕たちはより喜ばれるほうを選ばないだろうか。もちろん「どっち選んでも結果オーライだったら、欲張るほう選びまーす。神のまなざし、エゴの抑止力になってませーん」と思うだろう。実際、この桃の経験をしたあとも、正直に言って、僕は今のところ、日々己の欲望に負けたり勝ったりを繰り返していると思う。というより、まだまだ負けのほうが多い。欲張りでケチな自分は今日もいる。ちなみにあの消えた桃はというと、教会に来られたお客さんにふるまわれていた。同居人たちが食べたんじゃないかというのは、僕の完全なる思い込みであった。そしてこのエピソードに登場する先輩神父たちは、こうして話のネタにするのを快諾してくれていて、それもとてもありがたい。僕とのこの差を見よ!

 が、そちらを選ぶと「なってない!」と怒り出す神も、神に怒られるのは嫌だから自制しますわとなる私たちも、なんだか不自由な感じがしないだろうか。そういう思いもあって、とてもチャレンジングなことだとは思いつつも、僕は神父として勝ったり負けたりのこのスタンスでいくことにしている。神様見ててよ、と感じながら今日も生きているのだ。

 

 

(第2回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2019年12月11日(水)掲載予定