どうも、神父です。 大西勇史

2020.6.17

16生業は「信じること」

 

 前回の終わりに「『信じること』を生業にしている僕たち聖職者」と書いた。普段から「神様が愛してくださっている、そう信じましょうね」とか、「あまり疑わず、お互い信じ合っていきましょう」とか「やっぱり信頼関係が大事です」というようなことを頻繁に言っていて、僕にとって「信じる」という行為はごく自然にやっていることなのだ。「信じる」という「言葉」も「行為」も、神父としてなくてはならない大切な仕事道具のようにも感じる。このことに頼っているとも言える。

 今回は僕が、自分なりの「信じるとはどういうことか」について書いていきたい。うまく結論が出るのか怪しいが、お付き合い願いたい。

 神父である僕のもとには、普段からそこそこの数のお悩みの相談や、神様や人間に対しての質問が寄せられる。これはきっと僕だけではなく、神父全般に言えるはずだ。そこには、神父であれば自分の話を聞いてもらえそう、何か助言がもらえそう、という相談する側の期待があるのだと思う。その期待に応えられるかどうかは正直分からないのだが、プレッシャーを感じたりするということはあまりない。何か正解を言わなくてはと思っているわけではなく、その方のその悩みに寄り添わせてもらうというか、分かち合わせてもらうという感覚で聞いているからだろうか。僕でよければ、この瞬間だけでもその荷物を少し持ちますよ、といった心持ちなのだ。

 寄せられる相談の多くは、人間関係についてだ。まぁ神父にお金の相談しても意味なさそうだもんね。ちっともお金がない上に、全然お金について詳しくない。「霞食って生きてそう」と言われることがあるけどあながち間違いではなく、今日も僕はからあげクンを食べて生きている。

 人間関係の相談の中身をさらに集約していくと、「人が信じられない」ということが結構多い。

 酷いことを言われて、信じられない。好きな人に裏切られて、信じられない。あんな人と同じ職場なんて、もう無理でやっていけない。といった話を聞くたびに、「そんな仕打ちを受けたのなら、それは信じられなくても当然だよなぁ」と思ってしまう。そういう人たちの「信じる」は、息継ぎなしの遠泳や、硬くて飲み込めないものを無理やりに飲み込もうとすることや、どう考えても手が届かない空中ブランコに挑もうとしているように見えるのだ。要するに、とても無謀なチャレンジに見えてならない。だから僕はまず「それは誰にとっても無謀なことですよ、その状況はそもそも信じられる状況じゃないです」といった趣旨のことを伝える。

 しかし、本来「信じる」ことはそんなに難しいことではないはずなのだ。信じるというのは自然な心の動きによるもので、それが出来るから良い、悪いというものではないと思う。だから、信じることの出来ない自分を「悪い自分」などと言う必要はまったくない(僕に相談してくださる方は、大体自分のことをそのように言う)。

 第一に言いたいのは、「信じる」基準は自分の中にあって良いということ。「信じるに値する」という言葉があるように、値すると自分が感じられれば信じ、値すると感じなければ信じなくて良い。私がこの人を信じられないのは、この人が信頼に足る人でなかったのだ。そう思えば良いのだ。神父が「信じなくて良い」というのもいかがなものかと思うけど、僕はそう思っている。

 酷いことを言われて、そのせいでその人を信じられないのだとしたら、それは自分を傷つける相手だから信じられないのだ。好きな人に裏切られて、というのもそうだ。「信じる」ためには、それに値するだけの材料が必要だ。信じられないあなたが人でなしなのではなく、単に相手を信じるための材料が不足しているのだ。ここでは、相手の良いところを探すという前提で書いているが――探さないと見えてこない「良いところ」って一体なんだろうとも思う。その人の全体をぼんやり眺めてみて、そこで浮かび上がってくるものという認識でいいのではないか。それで材料が見つからなければ、ある意味仕方ない。その人を信じられないからと言って、命がなくなるわけでも地球が滅ぶわけでもないから、諦めちゃってもいいのだ(みんなこれが簡単には出来ないから、ぐずぐずめそめそするのも分かっている)。

 反対に、誰かに自分のことを信じてもらいたかったら、それに見合う材料を相手に提供しなくてはならない。しかも先ほど書いたような、相手が自分のことをぼんやり眺めた程度で浮かび上がってこないといけない。提供しないとと書いたが、あまりこれみよがしなのもおかしいので、ここはあまり露骨にしないほうが良いだろう。誠実さと一生懸命さがあれば十分な気がする。それだけで、相手には何かしら伝わるだろうし、伝わらなければ諦めるしかないのだ。だから、私はこれだけやっているのに信じてもらえない、という嘆きには意味がない。なぜなら、相手が「この人は信頼に足る人だ」と思うかどうかが重要なのだから。

 

 

 実は、聖書に出てくるイエスの弟子たちも、イエスが救い主で、神であるということをなかなか信じられなかった。彼らの近くでイエスは人々を癒し、イエスが起こす沢山の奇跡を彼らは目撃し、体験していたはずなのにだ。たびたび「まだ信じないのか」とイエスに言われたりしているところを見ると、よっぽど信じられなかったのだと思う。弟子たちがイエスを信じなかった理由について聖書では詳しく書かれてはいないが、僕は信じられなかったのは極々当たり前のことだったのではないかと考える。つまり僕が弟子でも無理だろうな、と思うのだ。イエスが湖を歩いたり、死者を生き返らせたりしているのとは対照的に、弟子たちは誰が一番偉いかを話し合っていたり、肝心なところで眠っていたり、嵐の海で大騒ぎしたりと、とても人間的なのだ。そんなちょっと抜けている記述の多い弟子たちが、イエスが望む通りにイエスの思いを理解し、ましてや救い主だと信じたなんて、まぁあり得ない。しかし、イエスはそんな弟子たちをよく理解していたのだ。

 それについて記した箇所が聖書にあるので、引用してみる。この箇所はイエスが十字架にかけられて死んで復活し、弟子たちの前に現れた場面である。しかし、トマスというある弟子のところにはイエスは現れず、彼は他の弟子からイエスの復活を知らされて憤慨した。そのトマスのもとに、イエスが現れたところである。

 「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ。』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」(ヨハネによる福音書20章24-29節)

 まず、僕はトマスの気持ちは理解できる。苦楽を共にした師は十字架上で、わき腹を突かれ殺された。イエスの仲間とみなされるだけで自分も犯罪者にされてしまうのではという恐怖と、慕ってついていった人が、救い主ではなくただの「人」だったかもしれないという虚しさで絶望的な気持ちだったことだろう。そのショックも癒えないうちに、他の弟子たちが口々に「(復活した)イエスを見た」「自分のもとにも来てくださった」と言い始める。「そんなことあるはずはない。あの方は死んだ。仮にそれが真実であったとしても、なんで自分のところには来てくれないんだ」というような、そんな心持ちだったに違いない。それが「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言った言葉に表れている。

 そんな不信心なトマスに対してイエスは、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と言った。つまり、そうしないとあなたが信じられないのなら、そうしてあげるよと自らの肉体をさらけ出して見せた。これがイエスが不信心な弟子に示してくれた誠実さだ。つまり、先ほど僕が述べた材料をイエスは弟子に差し出したのだ。ほら皆さん、神様ですらこうしているのだ。もちろんその後に、イエスはきっちり「見ないのに信じる人は、幸い」と言ってトマスに釘を刺すのだが。

 聖書にも記されている通り、遥か昔から人間は信じるということが得意ではないらしい。僕もこの仕事に就いて、本当に多くの人が「人のことを信じたい」と悩んでいるのだと知った。みな信じたいのに、信じられないから悩んでいる。でも、信じられないのはその人が弱いからではない。無条件で何かを信じるということなど、そもそも人間にはできないのだ。だから、お互い信頼に足るよう、相手に安心してもらうためにできる限りのことをするのだ。神様を信じることだって同じことだ。目に見えない何かを信じている人がすごいという話ではない。信者の人は、闇雲に神様を信じているわけではない。神様に対して、信じるに値するだけの、その人なりの材料なり根拠を持っているはずだ。

 なんだか、「信じる」ためには情報を集めて、なるべく勝率を上げてから賭けるみたいな話になってしまって、申し訳ない気がする。もっとロマンチックなことを書きたかったのだが。

 しかし、最後に一つ付け加えておく。お互いがどれだけ信じるための材料を提供し歩み寄ったとしても、相手が自分でない他者である以上、すべてを知ることは不可能だ。すべてを知ってから関係を始めるなど不可能なのだから、最後はどうしても、えいやっと相手に向かって踏み込む跳躍が必要になる。もちろん、その距離は短いほうがいいのだけど、まったく飛ばずに信じ合えたなんてことはあり得ない。そうである以上、僕たちは信じて欲しい相手に向かって、最後は勇気を持ってこう言うしかない。

 「僕を信じて欲しい」と。

 

追伸

 一度、全部書き終えたのだが何故か全然しっくりしない自分がいた。「信じる」について半分位しか書けた気がしなかったのだが、大事なことを書き忘れていたことに気づく。それは自分の中に「自分は信じてもらってここまできた」という実感があることである。神学校入学のとき、教区を変わったとき、神父になったとき、僕は信じてもらえたと感じた。この連載が始まったときもそうだ。僕は一冊の本も出したことのない、文章を書けるかどうかは未知数のただのアラフォー(神父)である。僕が編集者に出した材料はと言えば、連載第一回目のプロットだけで、それはそれは拙いモノだった。でも、こうして連載は始まり、読者の方から毎回嬉しい感想をいただいている。これは「信じてもらった」以外の何物でもない。この思いに報いねば、と思う。

 

(第16回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年7月1日(水)掲載予定