どうも、神父です。 大西勇史

2020.7.15

18さいしょの一年

 

 神学校の新年度開始の時期は、復活祭の日付に左右される。復活祭はいわゆる移動祝日と呼ばれるもので、年によってその日付が変わるのだ。「春分の日の後の、最初の満月の次の日曜日」となっている。教会の年度も復活祭で切り替わる。僕たち神父の人事異動も、復活祭後に行うのが通例になっている。

 ただ、神学校の場合は復活祭が4月後半になったりすると新年度のスタートがあまりに遅れるため、そういう年は4月1日から始まることがある。

 僕が神学校に入学した年も復活祭が遅かったため、神学校のスタートが4月の頭からだったと記憶している(もしかしたら3月末だったかも)。一年目は、栃木県の那須にある「ガリラヤの家」という神学校が持つ合宿所で共同生活をしなければならない。僕たちの年は、僕を含め合計7名の新入生だった。このガリラヤの家での一年間について、先輩たちは「あの一年は最悪だった」「もう二度とガリラヤには帰りたくない」「下山(合宿所があるのはちょっとした山の上だからか)する日をカレンダーに記してカウントダウンした」などと言っていた。先輩たちは面白がって口々にそこがいかに過酷かを言ってくるのだが、今からゆかんとするこちらからしてみれば、「余計なこと言わないでよ」といった感じだった。でも、この先輩たちの脅しのおかげで、「よーし、絶対に楽しんで来てやろう」と思えたのも事実で、それは後から振り返ってもあの時期を乗り切るために必要な力になった。

 ガリラヤの家での共同生活は養成者(神学生とともに神学校で生活している神父)2名と、僕たち神学生7名(日本人6名と韓国人1名)でスタートした。最年少は僕で23歳、最年長は35歳。養成者は60代の日本人と、80代のフランス人だった。北は札幌から、西は広島からやって来ていて、年齢も出身地はバラバラだった。これは毎年大体そのようなのだが。

 朝は5時半に起床し、6時から朝の祈りをして、6時半にミサが始まる。その後に朝食があり、午前中は聖書や公文書の輪読、昼の祈りをして昼食をとり、午後は隣接していた障がい者施設でのボランティアをする。18時に晩の祈りをしたのち夕食、20時頃から寝る前の祈り、22時に就寝という日課だった。要するに厳しく律された生活を通して、神学生としての基本を身につける一年であるとともに、本当にこの道で生きて行くのかどうか、その覚悟が問われる一年と位置付けられていた。閉鎖的な空間で少人数の共同生活だったので、月日が経てば各人との関係性は濃くなり、それゆえに衝突が起きる。といったことが、前述の先輩たちの脅しの言葉に繋がっていただ。

 ただ、僕は決して真面目なほうでは無かったが、比較的楽しく日々を過ごした。与えられた4畳半ほどの部屋は二人部屋で、真ん中はカーテンで仕切られているだけだった。隣の相手が誰かということがものすごく重要なのだが、幸いにして僕のルームシェアの相手は温厚な同級生だったのでそれも良かったのだと思う。

 濃厚で、そこでの一年を振り返ると数え切れないエピソードが出てくるガリラヤの家での生活だが、特筆すべき収穫が二点あった。一つは、僕がこの道を歩むことは本当に神様の望みかどうかということ。もう一つは、10代後半からの課題であった「愛」についてのことだ。

 

ここはカトリック津和野教会の聖堂。僕は大体2カ月に1度、ミサをしに行く。

 

 僕は、本当にこの道を選ぶのがいいのか、確信が持てないまま一年を過ごした。志願したときから1ミリも変わらなかった。正確には、確信を持つことを恐れ、あえて持たないように過ごしたと言える。「神様が自分を呼んで、自分はそれに従っているだけ」と、どこか人ごとのような気持ちでいた。

 つまり、神様に自分を委ねるということは、言い換えれば、すべて神様の意図することとも言えるので「神が呼び、自分はそれに従っているだけだ」という僕の態度は、そこだけ聞くと間違いではない。事実、叙階式(神父になる式)の式中に司教が「あなたのうちに、よいわざを始めてくださった神ご自身が、それを完成してくださいますように」と言う場面がある。神父にならんとしようとしている者がこの道を歩み始めること自体、それはもともと神が始められたことで、それを完成するのもまた神である、という意味だ。

 もちろん大前提としてはそうなのだが、大事なのはまず一度きちんと自分でそれを強く望み、引き受け、そこから手放すという態度なのだ。僕はプロポーズされたことはないが、されたことがある方は、あなたがプロポーズされたときのことを思い浮かべてみるといい。「結婚してください」という相手の言葉に対して、最終的に「あなたのその言葉を信じて、あなたについて行きます」という返答をしたとしても、その前に必ず「私もあなたが好きで、そうなること望んでいる」という気持ちがあるはずだ。もしその気持ちがなく、「あなたがそう言うなら」と言う人がいたらどうだろう。あるいはプロポーズでなくても、家業を継ぐときに、「お父さんが継いでくれと言うなら」という気持ちしか持っていなかったらどうだろう。「いやいや、お前の気持ちはどうなんだ?」と、さすがのお父さんも息子や娘に聞きたくならないだろうか。

 神学校一年目の僕は、ずっと「あなたがそう言うから」をやり続けた。それほどまでに、自分は神父に相応しくない、お門違いだなどの思いがあったのだろう。その身の丈に合わない感じを誤魔化すために、自分で選んでいないことにしていたのだ。以前書いたように神学校を目指そうと決めたときにもそれを感じていたのだが、神学校で難しい公文書や哲学のさわりのような授業を体験して「勉強についていけるだろうか」という不安が募り、「あなたがそう言うから」がふたたび出てきたのだ。

 それだけではなく、彼女とあんな別れ方をしてしまう自分には愛がないと思っていた。「神父になる」という選択をしたことで、僕は一人の人を愛する生き方とは違う道に進んだ。しかし、実際に誰かに言われたわけではないのだが、「一人の人もちゃんと愛せない奴が、多くの人を愛せるはずがない」というツッコミが時折どこかから聞こえていた。だからこの問題を避けては通れなかった。結局どれだけ誰かを好きになっても、自分のことが一番大事で、見返りを求めない無償の愛なんて自分にはありえないと思っていた。そんな自分が神父として、みんなのお父さん的な役割を担うことが出来るのか、多くの人を教会に招き、みんなのために生きていくことが出来るのか、ほとほと自信がなかったのだ。

 そういう不安な気持ちも、今ならば言語化出来る。当時の自分に「怖いのは分かるけど、どこかでちゃんと望んでるって言わなきゃね」とも言ってあげられるのだが、このときの僕はその責任をなかなか自分で背負うことが出来ないでいた。覚悟が決まらなかった。

 しかし、年度の終わりが近づき一年間を振り返るレポートを書く段になり、はじめて「ちゃんと『望んでる』って言おう」と思えた。ここで一年生活してみて、楽しく思ったり、悪くないなと思っている自分がたしかにいる。その自分をきちんと認識しているにもかかわらず、いまだに「神様がそう言われたので、従っているだけです」と言い続けるのは、良い加減神様にも失礼だろうと思ったのだ。一年の間、散々渋ってようやくそう言おうとする踏ん切りが付いたのかもしれない。なのでレポートには、「ガリラヤの家での共同生活を通して、自分は司祭になることを望んでいると、自分自身にも、また、他者に対しても表明出来るようになった」と書いた。

 そしてもう一つの「自分には愛がない問題」も自分なりに考え続けていた。

 そもそも「愛する」という言葉は、愛を動詞として使うからややこしい。人間が何かをする行為について述べるとき、きっとその中には自分の望みが含まれている。「食べる」や「眠る」は、我々のこの身体を生かすため。「話す」や「聞く」にしても、何かを伝えたいとか何かを知りたいとか、そういう理由がある。いずれにしても僕らの行為というのは、基本的に「自分がその行為を必要とするから、するのだ」という利己的な動機に基づくものなのではないか。

 それで考えると「愛する」にも利己的な気持ちが含まれるのか? それは「無償の愛」ではなくなるのではないか、僕はそんなふうに考えていた。こと自分発信で「愛する」という動詞を使うと、途端に胡散臭くなってしまう。そこには自分の望み、「自分がしたいから」という意味合いが含まれている気がしたのだ。

 だが僕だって、おばあさんが道で転んでしまったり、ベビーカーを押したお母さんがお店の扉を押そうとしていたりといった場面に出くわしたら、何も考えずにそういう人々に手を差し伸べるだろう。そこには、無償の愛と呼ばれるものがないわけでもなさそうだ。

 人はもとより、自分を生かすために行動する。それが僕らの心と体にインプットされているのだとしたら、「愛する」ことをそんなに大袈裟に捉えなくてもいいのでは。「そんなもんらしいから、仕方ない」と割り切って、その地点から物事を設計していけば良いんじゃないか。僕はこの一年でそう思うに至ったのだ。どうしても自己満足を求めてしまうなら、「人の喜びこそが自分の満足なのだ」という自分に変えていってしまおう、そう意識改革しようと考えたのだ。

 その根本には、このままではまずいという思いがあった。神父としてまずいという以上に、「人として」そんな思いやりのない自己中心的な人間にはなりたくなかった。

 それに自分が憧れた神父は、人を喜ばすことが大好きで、いつも誰かのために働いているような人だった。あの方の生き方に近づくためにはどうしたら良いか。自分にとって理想的な生き方を実践していた先輩のことを意識していたことにも気がつかされた。

 自分なりの答えにたどり着き、視界がクリアになった途端に笑えてきた。教会がありとあらゆる手段を使って、2千年間人々に伝えてきた「人のためにしなさい」が僕の求めていた答えだったからだ。小さなころから何度も聞いたこの言葉。永遠の真理にたどり着いたかも、天才! と思っていたので、答えは初めから自分のすぐそばにあったんだと妙におかしくなった。

 しかし、誰かに言われて気がついたのではなく、自力でそこまでたどり着けたことは、今振り返っても良かった。「誰かのために」と「自分のために」は両立出来る。それを両立させても良いと思えたのは、その後の神学校生活を通して見ても大きな収穫だった。

 

(第18回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年7月29日(水)掲載予定