どうも、神父です。 大西勇史

2020.5.20

14こんな僕だがリーダーである

 

 この「あき地」での連載が始まってから半年が経った。連載を更新すると毎回インスタグラムに感想が届くのだが、その中で最も多い感想は「読みやすくて、おもしろい」だ。狙い通りだぜ、ふっふっふ。と言ってカッコつけたいところだが、本当のところ、はじめての連載でそんな余裕は一ミリもない。それはもう吐き出すように書いている。書いているというか、並べていると言ったほうが近い。では、なぜただ吐き出したものが「読みやすい」と言われるのか。何を隠そう、この連載には編集者さんがついている。いや、別に隠していないのだが。

 編集者さんは僕の送った原稿を見て、説明の足りないところや意味が通りにくいところを整理するためにアドバイスをくれる。僕は余程こだわりがある表現や書き方でない限りは、その方のアドバイスを聞くことにしている。僕の言葉はキリスト教の神父が書くものにしては随分平たいと思うのだが、それでも専門的な単語や、一般の人からしたら「なんのことだろう?」というような表現を知らず知らずのうちに使ってしまうことがあるからだ。

 たとえば、信者の方が相手だと「コロナウイルスで不安だけど、僕たちには聖霊がついている。聖霊が守ってくれるから大丈夫だよ。聖霊によって僕たちは繋がっている。一人じゃないから、安心しようね」と言えば、「イエスが死んで復活して、その後ふたたび天に上がられた後に僕たちを守るために送ってくださった、あの聖霊が守ってくれているのよね。そうだよね、安心よね」となる。イエスは天に上がる前に約束してくれていたのだ。自分がこの地上から去っても、自分に代わるものがあなたたちを守ると。「わたしが父のもとからあなた方に遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来る」(ヨハネによる福音書15,26)

 それに、「聖霊が共にいる」という言い方は、それこそ教会では励ましの定型句みたいになっている。しかし、信者でない方に「聖霊がついているから」と語りかけたって「聖霊ってなんだろう?」となるだろうし、聞く人によって「霊」という単語からは守護霊とかオバケとかを想起させてしまい、こちらが思っていることがうまく伝わるとは限らないだろう。

 だから、僕らには聖霊がついていますから、などと勢い余ってここで言おうもんなら、「そのままだと非信者の方には伝わりません」と丁寧だが鋭いツッコミが飛んでくる(本当はもっとソフトな表現である)。僕にとってそういうツッコミは、長く慣れ親しんでいる「キリスト教の」言葉遣いと世間のそれにはギャップがあることに気付くことが出来るので面白い。またそれをどんな風に翻訳できるかと考えるのは、楽しい試みでもある。

 神父になって3年目、神父を志しこの道に進んでからはもう15年が経とうとしている。知らぬ間に、僕の話し方や、考え方、生活スタイルなども「それ用」に変わっていっているのだろう。あまり自覚はないが、一つの世界に15年もいれば十分にそうなっている可能性はある。お腹もぽっこりそれ用になってしまったなぁ(遠い目をしながら)。

 

新型コロナウイルスの感染防止のため、ミサは現在は行っていないが、教会は開けている。ある平日の教会の様子。信者さんが祈っていた。

 

 言葉遣いに関連して言えば、前回のボランティア完結編の原稿のやりとりを編集者さんとしている中で、一つ興味深いことがあった。ここは表現を変えたほうがいいかも、と指摘してくれたメモにはこうあった。「今の大西さんの書き方だと、ボランティアの方のことを上から見ている印象を持つ読者の方もいると思う」この反応を受けて、僕は「そうか、これを上から目線だと受け取る人もいるのか」と、自分にはその自覚がまったくなかったので驚きつつも、面白いと思った。そして、こんなふうに答えている。

 「言われて気づいた。ありがとう。被災地にいて、ベース長は『安心してボランティアをしてきてね』という役まわりなんだから、しっかりしなきゃって思ってた。だから無自覚のうちに上から目線になっていたのかも。これは30代という比較的若くして教会の神父になって、『みんなのリーダー』をやっている今にも通じる」

 当時、僕はベース長というその場の責任者だった。ボランティアの方々に落ち着いて作業をしてもらうために、ちょっとのことでは動じてはならないと気を張っていた。まだ若かったから余計に、家長のように堂々としていなくては、と気負い過ぎていた部分もあったと思う。

 多数のボランティアの方々の受け入れ対応をしなければならなかったが、なるべく皆さんのフルネームを覚えようと心がけていた。しかし、人の出入りが激しくてベースが人で溢れているときや、2、3日の短期滞在の方々に対してはそれができないこともあった。

 そうなると、対個人というよりも、どうしてもベース長である自分と「ボランティアの皆さん」という意識になりがちだ。

 こういったことが、気づかないまま僕の文章に表れ出ていたのだ。つまり、どこかでボランティアの方々をひとまとめにして考えていたところがあったのだろう。「そんなことない、あいつは昔から生意気なやつだったよ」と思う一部の方は、この辺でそっとページを閉じてもらって……いや、嘘です。そう思っていたとしても、もう少しだけお付き合いください。

 編集者さんから「上から目線では?」と指摘されれば、じゃあ書き方を改めてみようかなと考えるのだろうが、僕はこのとき「でも、そう思われても仕方ないな」と思ってしまった。そういった「長」的な役割を任せられた人間は、大小様々な出来事を俯瞰で捉え、グループの進路を見通さなければいけない。だから、自分たちを一つの群れとして捉える。誤解を恐れずに書くならば、そのためにグループの頂点に立っていないといけないときもある。それゆえ、発言が上から目線になる。対皆さんから対個人に切り替わったとき、このGoogleアース的なマクロな視点をスムーズにミクロなものに切り替えられたら問題ないのだが、そこがうまくいっていないのだ。ドンマイ、おれ、頑張ろう。

 もう一つ考えられるのは、僕が持つ「なるべくフランクにしたい癖」のせいだろう。こちらは、結構年季が入っている。この道を志してから、より顕著になったと思うのだが、「大西神学生」や「大西神父様」といった肩書を取っ払ってみんなと仲良くしたかった僕は、「敬語や丁寧語は極力いらないな」と思ったのだ。意識的にそうしたというより、そうなっていった。その結果、「軽い、チャラい、神学生らしくない」と言われることが沢山あった。今なら、距離が近いことだけが親しさじゃないと知っているし、そんなことで親しさを表現しなくてもとも思う。それに言葉は綺麗なほうがいいよなとも感じる。だけど、そんなふうにして僕のパーソナリティが育ってきたのは事実だ。

 そして、ベース長にしても今の神父にしても、自分には分不相応だと思っている。

 その役割は苦労して獲得したのではなく、何かの弾みで与えられたものだ。当然、自分が偉いわけでもなんでもない。いわば特段なんの能力も権力も持っていない僕が、何か大きな決定をしたり、人にものを教えなくてはならない立場にいる。その引け目から生じた上から目線発言なのだろうと自分では考察している。先ほどのスイッチの切り替えのこともそうだが、僕は今後、言葉の使い方も磨いていかなければならない。

 イエスの弟子も能力のある学者や、徳の高い立派な人たちではなかった。漁師や徴税人といった、いわゆる一般の人たちだった。

 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(コリントの信徒への手紙1,26-29)

 世の中でリーダー的な立場を担っている人に聞いてみたいものだが、きっとリーダーとしての自分と、等身大の自分にギャップを感じていると思う。ミサの説教で何を語れば良いかを聞いたとき、ある先輩神父は「自分の言いたいことを言うのではなく、言わなければならないことを言う」と教えてくれた。また、座右の銘は「自分のことは棚に上げて」だと言う先輩もいた。こんな自分がリーダーとしてみんなの前で語らなければならないという矛盾を背負いながら、やっていくしかないのかもしれない。それとすっかり当たり前になりすぎていて、大事なことを忘れていた。人前で語ったり、いわゆる「長」としての振る舞いを求められた時、僕は「神様、お願いね」と思いながらその場にいる。これは、神様が僕を選んだのだから、僕で足りないところは神様が補ってね、みたいな感覚だ。ある意味で究極の責任転嫁とも言えるが、教会で良く言われる「神様に委ねよう」「神様にお任せしよう」みたいなスローガンを地で行っているから良しだろう。

 しかし「理想のリーダー像」は、はっきりとある。こう言ってはなんだが、我らが教祖様は(こんな言い方、普通はしません)ある意味、2000年間全世界で慕われ続けているリーダーだ。そのイエスが、自分はこんなリーダーだよと僕たちに教えてくれている。

 「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。―狼は羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネによる福音書10,11-14)

 なんとわかりやすい。僕たちのリーダーは僕のために命を捨ててくださると言うのだ。お殿様のために命を捨てる家来の話はいくらでもありそうだが、家来のために命を捨てるお殿様の話は聞いたことがない。そして、この羊飼いは飼っている羊が星の数ほどいようとも、ちゃんと一匹の羊、すなわち僕のことを知っていてくれる。少し人数が増えたくらいで名前を覚えられなくなる、どこかのベース長さんとは大違いだ。どれだけかけ離れていようとも、僕はこのリーダーが好きだし、イエスキリストというリーダーに憧れている。僕も、これから先、ますます誰かに自分を差し出すことの出来る人になっていきたい。

 

(第14回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年6月3日(水)掲載予定