どうも、神父です。 大西勇史

2019.12.11

03島根のダメ青年、神父を目指す(前編)

 

 「そうだ、神父になれば良いんだ」

 2005年9月26日、まだ夜も明け切らぬ朝四時ごろのこと。一人暮らしをしていた東京の真っ暗なアパートの自室で、22歳だった僕は、そうつぶやいた。しかし、なぜ自分がそうつぶやいたのか、また「そうだ」と言ってはいるものの一体何に合点がいったのかもそのときはわからなかった。

 話は数年前に遡る。高校時代、部活に明け暮れていた僕は一切勉強をしなかった。進路を決める段になり、親の勧めもあってリハビリ関係の大学や専門学校に進もうと受験するも、ことごとく失敗。結局一浪して地元のリハビリ系専門学校(3年制)に進学した。今思い返しても恥ずかしいのだが、「サラリーマンは僕には難しそう。人が好きだから人と関わる仕事で、自分のこの学力に見合って、将来のお給料もそこそこ良さそうなところ。それに医療系ってなんか聞こえが良いし」と、それくらいの気持ちで決めた進路だった。当時はそこまで意識していなかったが「親が勧めてきた職業」に就けばきっと彼らも喜ぶだろうという思いもあった。いずれにしても、自分の将来について真剣に考えることを、18歳の僕は先送りにしていたのだ。

 そうして入学した専門学校だったが、授業にはまったく面白さを感じられなかった。ちっともやる気が出ない。友達や彼女と遊んだり、バイトばかりするようになっていた。その結果、1年次から2年次に進む際になんと二度留年した。学費は親に出してもらっていたので、バイトはただの小遣い稼ぎである。それなのに二度留年するなんて本当にひどいと今ならばわかる。新設の学科で年間で単位を一つでも落とすと留年です、というシステムだったので、何人かの留年仲間がいたりもした。当然皆仲良しだ。オーマイゴッド。それでも仲間の中で流石に二留したのは僕くらいで、誰もが大西はここで辞めるだろうと思っていた。にもかかわらず、僕は三度目の1年生にチャレンジした。と書くと聞こえはいいが、20歳になっても僕は親が敷いてくれたレールから外れるのが怖くて、自分で考えて生きていく勇気がなかったのだ。

 そんな調子だから、三度目の1年生もうまくいくはずがなく、前期試験でキライな先生のテストを落とした。当然追試になるのだが、追試3日前の夜も特に勉強もせずに眠りについた。朝方、「キライな先生に『帽子を取りなさい』と言われて頭を捕まれる」という夢を見て、先生を振り払おうとしたら、ベッドの角に手が当たって目が覚めた。その瞬間、「ああ、もうダメだ。これ以上続けていたら頭がおかしくなる」と思った僕は、専門学校を中退した。両親はやっぱりか、といった感じで引き止めはしなかった。どう見てもやる気がないくせに、三度目の一年生をやると言われて困惑していただろうから、きっとどこかで安心してもらいたのだと思う。学校を辞めてたった2週間後の2004年10月1日。「自分の進むべき道を見つけたい」と意気込んで、僕は松江発、渋谷行きの夜行バスに乗る。

 学校を辞めて2週間で地元を飛び出したと言うと驚かれるのだが、そうでもしないと地元に残って何もせずに過ごす、という選択をしてしまいそうな自分がいた。そんな怠惰な自分を振り切って、心機一転やり直そう。生まれ変わって自分の道を歩いて行こう。そう思っていた。「たとえどんな仕事であっても、自分はこれをやっていたら幸せだ」と感じられるもの、他者にも「僕はこれをしていて幸せです」と胸を張って伝えることができる何かを見つけよう。

 しかし、その思いは上京して早々に打ち砕かれる。東京に来たからといって、おいそれと自分の進路が見つかるわけもなく、結局僕は目的があるようでない体たらくなアルバイト生活を1年近く続けることになる。

 自分は一生このまま何もしないんじゃないだろうか。最近はバイトに行くことすら億劫になっている自分に、やりたいことなど見つかるのだろうか。僕の好きなことって、したいことってなんだろう。そもそも、勉強も出来ないし、働くのもいや、まして毎日満員電車で通勤なんて、想像しただけで頭がクラクラする。といって資格やスキルがあるわけでもない。ないないない、足りないばかりの自分に向き合うのも、ほとほと嫌になっていたのだった。

 じつは、冒頭のつぶやきが出てきた9月26日は直前まで「付き合っていた彼にフラれた」という教会の友人の話を聞いていた。この友人は、18歳の時に広島教区(カトリック教会は日本を16のエリアに分けていて、広島教区はそのうちの中国地方の五県を管轄している)の中高生の合宿で知り合った岡山在住の一つ年下の子だった。電話口でわんわん泣くその子に、何も言ってあげることが出来なかった。傷ついた思いを受け止める相手として、自分が選ばれたというのに。ただ話を聞いているだけで良いのはわかっていたが、本当にそれしか出来ない自分に心底がっかりしていた。

 見えない先行きに対する不安が心の中には積もり積もっていたのだろう、「友人を励ますことすら出来ない」という出来事によって、いよいよそれが許容量の限界に達した。この状況を打開するにはどうしたらいいのか。電話を切ったあと、僕は部屋で一人考えに考え続けた。そして出てきたのが、「そうだ、神父になれば良いんだ」という冒頭のつぶやきだったのだ。

 それともう一つ、これは後で振り返って気がついたことだが、あれがつぶやきにつながったのだなと思う出来事があった。

 東京に出て来て半年が過ぎようとしていたころ、僕は上京してから通っていた教会の司祭館で不思議な体験をした。その日僕はいわゆる「懺悔」というやつを受けた。神父と信者がそれぞれ個室に入り、格子戸がガラッと開く、映画のワンシーンになっていたりする、アレだ。決してドリフのコントみたいに上からタライは降ってこない(昭和生まれなものでネタが古くてすいません)。ちなみに教会では「懺悔」とは言わず、それを「ゆるしの秘跡」と呼んでいる。人間の側が、悔いて謝るというよりも、神はゆるすかたで、その神のゆるしにフォーカスした言い方だと思ってもらったらいい。大まかな流れとしては、信者が心に抱えている罪の意識を言葉にして、格子戸の向こうで耳を傾けている神父に告白する。すると神父は、話を聞いて受け止めて、こんな風にしてみたらいいよと勧めと償い(お祈りを一回してくださいとか)を信者に与え、最後にゆるしの宣言をする。

 上京半年で早くも色々行き詰まっていた僕は、神父に誘われて司祭館で食事をした後、それまでの歩みを語りながら泣き出してしまった。要約すると「何かに対して心から打ち込むことが出来ない。その結果、周りの人に迷惑をかけ傷つけてしまう」というようなことだった。

 ずっと静かに聞いていてくれていた神父は、突然の涙に自分でも慌てている僕に向かって「全能の神、あわれみ深い父は御子キリストの死と復活によって世をご自分に立ち帰らせ、罪のゆるしのために聖霊を注がれました。神が教会の奉仕の務めを通してあなたにゆるしと平和を与えてくださいますように。私は父と子と聖霊のみ名によって、あなたの罪をゆるします」と言った。

 これは、上述した「ゆるしの秘跡」の最後にあたる、ゆるしの宣言だ。

 思ってもみなかった「ゆるします」という言葉に僕は、さらにわけがわからなくなった。この言葉が、「ゆるしの秘跡」のゆるしの宣言の言葉であることはかろうじてわかったのだが、そもそもこのときは「ゆるしの秘跡」を受けているつもりはなかったし、ただただ戸惑っていた。これをもって「ゆるしの秘跡」を受けたことには恐らくならないはずだが、その言葉は後になってじわじわと心に染み入り始めたのだ。「こんな自分なのに、ゆるされるのか」いや、すでに「ゆるします」と宣言されたということは「ゆるされたんだ」。こんな自分をゆるしてくれるなんて、神様ってすごいかも。それが神様なら、神様って本当に最高だ。

 神様に対する思い、そして僕にこの神様を、こんな信仰の世界を見せてくれた神父に対する憧れが、この時期から芽生え始めた。

 上京以前から自分の根っこにあった「自分はどうやって生きていくのだろう」という不安とともに、「この神様について行きたい」「この神様ならなんとかしてくれるかも」という期待もまたこの晩マックスに達し、二つが合わさってスパークしたのだった。

 

(第3回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2019年12月25日(水)掲載予定