どうも、神父です。 大西勇史

2020.10.7

24土砂降りのあの日に

 

 すっかり涼しくなってきた。朝のミサや夜サウナから帰るときなどは少し肌寒いくらいだ。昨夜、いつも通っている馴染みのサウナへ行き、店のおばちゃんに「おやすみなさい」と言って車に乗り込もうとした途端、風呂の水をひっくり返したような雨に降られた。今まさに、風呂から出てきたのに全身濡れてしまい最悪だ、と思いながら車のエンジンをかけ、雨足が弱くなるのを待った。ほどなくして雨は止み、無事に住んでいる教会に帰ることが出来た。

 土砂降りの雨、というと思い出すことがある。2018年3月21日に山口サビエル記念聖堂で行われた、僕の司祭叙階式の日のことだ。叙階式とは、それをもって、いよいよ神父になるという特別なミサのことで言わば受階者(叙階される者)にとってはハレの日である。この叙階は司教によってなされるのだが、叙階式では通常のミサの中に「叙階の儀」という部分が設けられ、そこでは司教や司祭団からの按手(頭に手を置く)や叙階の祈りという特別な祈り、油を手のひらに塗る塗油などが行われる。一般的にはそのミサ全体を指して叙階式とか、叙階式ミサと呼ぶ。受階者がそれまでにお世話になった神父やシスター、信者さんらが全国から駆けつけてくださるのも叙階式ならではだ。

 約12年、人の倍かかった準備期間が終わり、晴れて神父になれる。僕にとって待ちに待ったその日は、朝から嵐のような天気だった。

 この年の3月は例年よりも暖かく、僕がいる中国地方も春の兆しの感じられる気温20℃以上の日が続いていた。だが、天気は前日から崩れ始めた。

 朝5時に雨風の音で目が覚めて「出たよ、最悪」と思った。ツキがないというか、肝心なところがダメというか、オレの人生、ずっとこんなだなと。ここまで生きてきて、うまくいった試しがなく、ただでさえ落ちこぼれ感が強いのに、ようやく迎えたこの日に、やっぱり祝福されていないのか。式は午後から聖堂で行うだったのだが、結局雨が止むことはなかった。

 式の直前に、来場者の数が1000人を超えていると聞いた。どれだけ詰めても聖堂には300人しか入らないので、残りの方々は敷地内の別の建物や、聖堂の軒下のようなところにモニターを準備してミサに参列するということだった。土砂降りなので、昨日までとは打って変わってとても寒かった。後で調べたところ、気温は3℃だった。

 式が始まっても、会衆の一番前、受階者席にいた僕は、天気のことを引きずっていた。事前に準備してもらっていた屋外でのパーティは屋内への変更を余儀なくされた。直前まで準備のために働いてくださっていた信者さんや、聖堂に入れず雨曝しでミサに参加してくださっている大勢の方々への申し訳ない気持ちなど、神様に向かって「どうして、こんな天気にしてくれたんだ」と思っていた。

 開始から15分くらい経っただろうか。答唱詩篇という、会衆と独唱者が交互に聖歌を歌う祈りのパートに差しかかった。この日は「主はわれらの牧者」という曲で、会衆が「主はわれらの牧者 私は乏しいことがない」と歌う。いつもの馴染みの曲ではあったのだが、会衆の歌声を背中に浴びながら、はたと気づいた。

 「この大雨の中、この悪天候の中、これだけの方がわたしのために、来てくださっている。頑張ってほしいと思っている。期待している。希望だと思ってくださっているんだ」この悪天候は、それを僕に分からせるために神様が下さったしるしなんだ。そう思えた。愛されてるとか、期待されてるとか、あなたは希望だっていうことの実感が薄かった。だから神様が、「もういい加減分かれよ、お前。この12年間ずうっとみんなに祈られてきたし、これから先もそのまま行くんだ。わたしはお前を守ってきた」っていうことを伝えてくれたんだ、と。

 

撮影:山口明宏

 

 叙階式の最後にある受階者の挨拶では、皆さんのおかげで、自分は期待されているという気持ちを持つことが出来たと、上に書いた式中の気づきについてお礼を言った。そしてもう一つ、養成されるのに12年間かかったということは、人の倍もゆるされ、忍耐していただいたことであると述べた。僕も先輩の神父や皆さんにしてもらったようにゆるし、忍耐できる人になりたいと語った。

 イエスの語った『「実のならないいちじくの木」のたとえ。』を引用しておく。

「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(ルカによる福音書13章6節~9節)

 僕自身は、長く実のならなかったいちじくだったが、たくさんの園丁さんに助けられてなんとか神父になれた。そのことを忘れずに、自分もそんな園丁になろう。その気持ちを今でも強く持っている。

(第24回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年10月21日(水)掲載予定