どうも、神父です。 大西勇史

2020.3.11

09イザヤの言葉とともに東北へ

 

 3月になった。新聞もテレビもネットも連日新型コロナウイルス関連のニュースを報じている。「未曾有」という言葉を久しぶりに聞いた。

 9年前、2011年の3月にもこの未曾有という言葉をよく聞いた。当時僕は、神学校の5年目を終えようとしているところだった。神学校は6年制で、6年生にあがるタイミングで「助祭」という役職をもらう。だが、専門学校時代の苦い経験があるにもかかわらず、僕は神学校生活を真面目に送っているとは言えなかった。その上、成績も最悪だったので助祭に叙階されること(その役職に就くこと)を既に見送られていた。要するに、成績も内申点も最悪のダメ学生だったのだ。

 なので、4月からは病院とホスピス、老人ホームとそして教会が同じ敷地内にある施設で、教会に住み込んでお手伝いをさせてもらうということになっていた。僕のように、次のステップに進めない、もしくはなんらかの事情があって進まない神学生たちは、神学校を一度休学して外で研修期を送ることが多い。

 そうは言っても、気持ちをすぐに切り替えられるはずもない。同級生たちは念願の「助祭さま」になるのだ。助祭は神学校の最高学年であると同時に、聖職者の仲間入りを果たしたことになり、なんというか神学生たちとは格が違う。神学校内には聖堂があり、一日に三度、全学生揃っての祈りの時間がある。その時なども助祭は聖堂の前の方の席に座り、いかにもリーダーといった感じなのである。更に、神学校をあと1年で卒業したあとは、司祭叙階(神父になること)へと進んでいくので、なんだか雲の上の存在だった。入学1年目のときなどは、彼らのことを眩しく見上げていたものだ。

 同級生たちが叙階され、神学校での新たな年度が始まる4月に、僕は研修期に入る。少し拗ねたような気持ちで、4月末から始まる研修に備えていた2011年3月11日。その日は、昼過ぎから信者の友人達と吉祥寺で少し遅めのランチを食べていた。ビルの二階にあるカフェで食事を終えて話していたら、どーんと大きく揺れた。揺れたというよりも、周りの食器や窓が大きな音を立てたといった感じで、一瞬なんのことかわからなかった。そこから、大きく横に揺さぶられ始めた。店にいた大半の人が次々に外に飛び出していく。「あれ、お金払わなくても良いのかな」と言う僕に向かって友人達は、「もう店員さんもいないよ!」と答えた。あのとき、結局、お金を払ったのかどうか記憶にない。ただ、駅に向かうと電車が止まっていて、バスにも長蛇の列ができていた。駅で僕たちは解散し、それぞれ歩いて帰ることにした。立川にある教会にお世話になっていたので、吉祥寺から中央線沿いを立川まで歩いて帰った。結局4時間くらい歩いて教会へ帰り着いた。あたりは真っ暗で、教会に帰っても神父はおらず、心細く思った。テレビをつけると、ヘリコプターからの中継で、暗い海が燃えている映像が映し出された。そこで初めて、あの地震はとんでもなかったのだと知った。どのチャンネルも騒然としていて、あまり長く見ていられず、ちゃんと情報も整理できなかった。そうこうしていたら、神父から電話がかかってきた。水道橋の病院に行ったが帰れなくなったので、今夜は近くで一泊する。教会の戸締りをしておいてくれ、という内容だった。その電話を受けたことでずいぶん安心したのを覚えている。その日は早く眠ることにした。

 翌朝、ベッドでグズグズしているタイミングで神父が帰ってきた。まだ寝ていた自分が恥ずかしかったが、飛び起きて昨日のことをたくさん話した。大きな揺れを感じたこと、吉祥寺から歩いたこと、神父がいなくて殊の外、不安だったことまで。それにしても大変なことになった。

 地震が発生してからから5日後くらいだろうか。日本の教会もカリタスジャパンという組織を通じて、全国のボランティアを教会に集め、被災地に送り出すという活動を始めた。でも僕は、4月末から研修先に向かうことが決まっていたこともあり、その活動に関われないことを少しもどかしく思いながら日々の生活を粛々と送っていた。

 そんなある日、一本の電話が入った。出ると、司教様だった。「この事態をどう思ってる?」と彼は尋ねる。僕は咄嗟に、これはボランティアに行く気があるかを聞かれているのだと理解した。なぜなら僕に研修を受けさせると決めたのは、この司教様をはじめとする養成担当の神父たちだ。その上で司教様はこの質問をされた。そして、「ボランティアで東北に行ってみないか」と提案された。

 「行きたいです。ぜひ、派遣してください。ですが、一度行ったら簡単に帰ってこれないかもしれません。僕自身、そこで思いっきり働きたくなると思うんです。その場合、研修はどうなるんですか」

 そう答えた僕に対して司教様は「その時はその時です。もし、そうなった場合はなんとかするのでとりあえず一週間くらい行ってきてください」と言った。

 こうして僕は、3日後に仙台に向かう知り合いの神父が引率するグループに、同行させてもらうことになった。最低でも一週間、最長だと10日間になると言われた。でも内心、行ったらそのあともそこで活動したいってなりそうだな自分、と思っていた。もちろん、困っている人たちの手助けをしたいという気持ちがあった。しかし、今から考えると、不本意な研修よりもこの「未曾有」の事態に立ち向かうボランティアの方が燃えるという、打算的な思いもあったのだ。

 東京を発つ日の朝ミサで、僕は「ちゃんと役に立ちにいくぞ」と決意した。ボランティアに行くんだから、そんなことは当たり前かもしれない。それなのに敢えてそう決意する必要があったのは、はじめてのことをする際に言いがちな「足手まといにならないように」とか「自分には何もできないかも知れませんが」みたいな下手な謙遜も遠慮もしないよう気をつけたい、ここを出発したらちゃんと「役に立ちにきた」という姿勢でいようと思ってのことだった。

 旧約聖書の中にイザヤの召命という箇所がある。それは預言者イザヤが神様から「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」と呼び掛けられ「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応答した場面だ。その、後先をあまり考えない「今、ここ」に対するまっすぐさに惹かれていた僕は、彼のその場面と重ねて、自信なんてないけど「自分はここにいて、やりたいと思っています。必ず、お役に立ってきます」と思ったのだ。

 ちなみに、それから紆余曲折があって7年後に迎えた自分の司祭叙階式(神父になる式)の時の記念カードに記した聖句は、「わたしがここにおります」にした。そのことについては、またいつか書くことがあるかもしれない。

 二台の車に詰めるだけ物資を詰め込んで、ほぼ全員がはじめましての寄せ集めメンバーは仙台を目指して出発した。4月2日のことだった。みんな緊張していたため、道中は会話も弾まず気まずかった。教会のボランティアは当時、仙台を拠点に、塩釜市、石巻市、それと新たに釜石市での活動を始めようとしているところだった。この活動は信者/未信者を問わず、誰でもベース(被災地にある教会)を使ってボランティア活動に参加できるというものだった。要するに被災地にある宿泊所だ。ホームページ上にあるボランティア申込フォームを書き、登録を済ませた全国からのボランティアたちは現地に行く前に、仙台に集結し、そこでオリエンテーションを受けて各地に割り振られるという流れになっていた。僕たちの行き先は、新設の釜石ベースに決まったが、その日は既に遅かったので仙台で一泊し、翌朝早く発つことになった。

 仙台の拠点になっていた教会の中には事務局があり、東京を出発する前に司教様から「仙台の事務局にいる神父様に連絡しといたから、よろしく」と言われていた。仙台に到着した日の夜、僕はその神父を見つけて「東京からきた大西です、司教様がよろしくと言っていました」と挨拶した。いわゆる神父のような格好ではない私服だったこともあり、強面のラガーマンみたいに見えた。神父は、ニコニコしながら「おう! あんたがそうか。ありがとうな。頼んだよ、兄さん」とだけ言って去っていった。「に、に、兄さんってなんだ!?」と一瞬思ったけど、この方との出会いが、のちに僕の被災地での活動を大きく方向付けることになる。しかし、このときの僕はまだそれを知るよしもない。

仙台のベースにて photo:Yuzo Akai

 翌朝、僕たちは釜石に向けて出発した。仙台市内は、コンビニに商品がなかったり、所々屋根にブルーシートがかけられていたりはしたが、東京でニュースを見聞きしていた印象よりは機能しているように思えた。仙台から東北道を通って北上し、沿岸部の釜石市にある釜石教会に向かう。高速道路の途中にも、道路が隆起していたり陥没しているところがあり、地震の影響を感じたが、はっきり言って僕の目では津波の影響はわからなかった。

 だが、車のナビが釜石教会までの所要時間を残り15分と表示し始めたあたりから、突然景色が変わった。目に入るすべての世界が泥で覆われている。その日は曇っていたので、空まで灰色で、色のない世界に迷い込んだように思えた。

 後部座席から、窓の外の流れていく景色を見ながら、出発前に決意した思いが霞んでいきそうになるのが分かった。こんなところで一体自分に何ができるのだろうか。まだまだ、自衛隊や特殊な訓練を受けた人たちしか活動できないんじゃないか。そういった気持ちに支配されそうになっていた。しかし、不意に泥だらけの街を歩く地元の中学生らしき少年の二人組が視界に入り、僕は我に返った。そして、切れそうになる決意の糸を再び強く結び直すように車の中で小さく十字を切った。「父と子と聖霊の御名によって。アーメン」

 

(第9回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年3月25日(水)掲載予定