どうも、神父です。 大西勇史

2020.6.3

15コロナ禍の教会と神父である僕

 

 先週、約1ヵ月半近く続いた緊急事態宣言が解除された。今回はこのコロナ禍における教会の様子について触れておこうと思う。

 日本のカトリック教会は、全国を16の教区に分けている。たとえば東京教区の場合は、そこに東京都と千葉県が含まれる。僕のいる島根県は広島教区(広島、岡山、山口、鳥取、島根の5県)の管轄だ。

 そして、それぞれの教区に司教という役職の責任者がいて、その司教が教区の方針などを決めていく。全国16教区の司教が集まる司教団という組織もあって、平時や有事にかかわらず司教団から声明や方針が出ることもあるが、今回の新型コロナウイルスの感染拡大に伴うあれこれは、それぞれの司教(教区)での対応になったようだった。僕たち神父は、司教の命令を従順にきく約束を立てているので、司教の命は神の声だと思って聞く。なのでこういう緊急事態には、まず司教の方針に耳を傾ける。ここに書くのは、日本のカトリック教会というよりも、広島教区の、さらに言えば浜田教会(島根県浜田市)、益田教会(島根県益田市)の対応と思ってもらったらいい。

 我が広島教区は、2月末に最初の方針が発表された。この時点では広島教区が管轄する中国地方では感染者が出ていなかったため、各教会に判断が委ねられた。ここでいう判断の最重要事項とはミサをするか、しないかである。もっとも、神父は毎日ミサをすることが義務付けられているので、教会でミサを行わないということではない。

 この場合の「しない」は、会衆(信者)の参加を控えてもらうという意味だ。つまり「非公開ミサ(神父一人ミサ)」だ。「非公開ミサ」という呼び方は僕の知る限り前例がなく、今回はじめて使われたはずだ。タイミングに地域差はあれど、日本中いや、世界中の教会が最終的には「非公開ミサ」を強いられる形になったと思う。

 話を戻すと、2月末時点での教区の指針は「教区内5県の状況が異なるため、小教区の事情によってミサを中止してもよい」というものだった。この指示を「ミサをするのが前提なのだな」と理解し、僕のいる浜田、益田教会ではミサをしていた。

 ただし、

 ・聖堂の入口やトイレ等に、アルコール消毒液を設置し、その利用を勧める。

 ・聖水の使用を見合わせる(聖水を入れる容器に不特定多数の人が触れることが問題)。

 ・ミサの奉仕者(司祭、助祭、臨時の聖体授与の奉仕者、侍者)は、手洗いを徹底する。

 ・ミサの前に、各自が拝領するパンを聖体容器に入れて準備し、奉納することを控える。

 ・直接、聖体を口に入れて授与することを控える(手先が信者の口に触れるため)。

 ・構造上可能な場合には、ミサの前後あるいは行事の休憩時間などに換気をおこなう。

 ・ドアのノブや手すりに触れる機会を少なくする。

 (広島教区HPより)

 など、教会ならではの独自の注意点に留意しながらやることになった。

 ところが、益田市は3月上旬に地域のイベントや集まりを自粛するように要請を出した。それにより、益田教会の信者から「教会だけ集まってミサをしているとまずいのでは」という声が上がり、緊急で教会委員会(神父と数人の信者による運営委員会みたいなもの)を開き、公開ミサの中止を決定した。

 一方、島根県では4月上旬まで県内で感染者が出ていなかったこともあり、浜田教会は4月11日の復活徹夜祭(イースター)まではなんとか続け、その後「非公開のミサ」に切り替える形となった。広島教区全体でも、4月16日に5月24日まで公開のミサの中止を発表し、教区公式YouTubeチャンネルでミサの配信をするなどのフォローを始めた。そもそも、トップダウンでミサの中止を宣言しても良いところを、ギリギリまで現場に判断を委ねてくれたのはありがたかった。常々、現場の主体性を大切に思ってくださる我が司教らしいやり方だった。それぞれの地域や教会によって、抱えている事情も様々でありデリケートな問題でもあるのだ。

 僕の生活について言えば、じつは平時とそんなに変わらない。毎日ミサをして、インスタグラムを更新し、原稿を書いたりしていた。人と会えないので信者からの相談や幼稚園の理事会、教会の信者との会議は無くなり、普段より時間はあった。昨年は車で3時間近くかけて学校に宗教の授業をしに行っていたのだが、今年はその仕事をお断りしたので、コロナの影響もさることながら去年よりうんと時間があるなという感じなのだ。

 ちなみに、4月19日の手帳にはこう記してある。

 『「人のツイートにいいね!することしかしていない。」と思ったことを手帳に書こうと思った。長らく書いていなかったのに、これは書いておいた方がいい。と思ったようだ。なんでだろうな。「焦っている自分がいたよ」ということを残しておきたかったのかもしれない。』

 このときのことを振り返ると、何か焦りを感じていたのだと思う。コロナに対応するなかで、たくさんの人が働き方や表現の仕方のアップデートを余儀なくされ、皆工夫してそれをやってのけていた。加えて、Twitterやブログなど、この時期に発表されていたいろいろな人の創作物に触れて感動するとともに、自分も何か新しいことしなきゃ、このままで大丈夫かな、「いいね!」してる場合じゃないよねと思っていたのだ。そして、コロナの時期にそう思ったこと、思えたことは、何かあとで自分史を振り返るときに貴重な資料になりそうだと思って日記に記したのだった。

 この期間中、僕は結局、インスタライブくらいしか新しいことを始めなかった。インスタライブはこのコロナ禍に友人のミュージシャンに対談で呼ばれてはじめて体験したのをきっかけにして始め、ここまで二度ほどやっている。事前に質問を受け付けて、それに答えるというスタイルで2週に一度木曜日の21時からの30分間。100~150名くらいの方が参加してくださって、気張ることなくやらせてもらっている。幸い「続けてほしい」との声をいただいているので、これは試験的に少しの間続けていくつもりでいる。そのほか、友人たちとZoom飲みもやってみた。僕は下戸なので、もちろんコーラで。

 そうした1ヵ月半を振り返ってみて思うのは、「信者さんや友達に会いたいな」という思いを募らせていた時間であったなということだ。と同時に、その方たちの存在に普段どれだけ支えられているか。その方たちを無意識のうちに僕が必要としているか。その方たちがいないと、神父という存在など成り立たないのだ、ということを強く感じた。

 しかし、そう感じる一方で、ではその大切な方たちのフォローが僕にきちんと出来ていたかといえば、正直不甲斐なく思っている。このコロナ下、世間では色々なことをオンライン上で行うという流れが加速した。だが、僕の担当する二つの教会の信者の平均年齢は 70歳を超えている。70代と80代の方が大半だ。そうなってくると皆さん、YouTubeはおろかインスタライブやZoomといったオンラインのツールを簡単には扱えないのが現実だ。なので、ミサをYouTubeで配信したとしても、それを見られる人の数はごく僅かとなる。もちろん、月に一度の教会報に励ましのメッセージは書いたつもりだが、それだけでは足りなかっただろう。

 なぜなら、この期間中に止むに止まれず、僕は二度、信者に聖体を授けている。聖体とは「キリストのからだ」を意味するパンのことで、信者はミサの中で神父から聖体を拝領(いただく、食べる)する。僕たちが最も大切にする、いわば御神体である。キリストご自身が最後の晩餐で、このパンを自分だと思って食べなさいと言われたことに由来する。キリスト教は、神であるお方を食べてしまうユニークな宗教であると思っている。

 この期間中、二人の信者さんが教会にやって来られ「どうしても聖体がほしい」と懇願された。一人は、片道2時間半もかけ電車とバスを乗り継いでいつも教会に来られる80代のおばあちゃん。もう一人は、教会最高齢の90代の方で、この方は毎日教会の花壇のお世話をしに来られているおじいちゃん。そのお二人に、それはもうすがりつくように「神父様、ご聖体がいただきたいです」と言われてしまい、感染のリスクに配慮するやり方で聖体を授けた。お二人とも、手で受けた聖体をゆっくり口に運び静かに拝領する姿が印象的だった。別の日にそれぞれやって来られたのだが、拝領後に聖堂のベンチに腰掛け、涙を拭いたり鼻をすすったりしていらしたのも同じだった。僕は同じ列のベンチに少し離れて座わり、その気配を感じていた。どちらの方にも帰り際に、「ごめんなさい。必ずコロナは明けると思うからもう少し、辛抱してくださいね」と声をかけた。それに対しておばあちゃんは「ありがとうございます、ありがとうございます」とだけ言いながら聖堂を後にした。おじいちゃんは「わがままを言いまして、すみません」と言っていた。実を言うと僕は、はじめにその申し出があったときにコロナウイルスのことというよりも、教会の他の信者の方の視線や、「ください」と言われてミサではないタイミングで聖体を授けることについて、いいものだろうか、と一瞬躊躇したのだ。しかし、お二人が見せてくださったその姿、信仰を見て、気にするのはそこじゃなかったなと自分を恥じた。と同時に「そうだよな、全然ケア出来てないよな」と情けなく思ったのだった。

 

これが、90代の信者の方が手入れをしてくれている教会の花壇だ。

 

 結局、具体的に信者の方へどのようなケアをすればよかったのか、という答えを出せないままの1ヵ月半になってしまった。そのことはなんと言おうか、自分としては情けなく、悔しい記憶として残っている。ただ、また今回のような状況にならないとも限らないので、教会委員会の信者たちと知恵を絞って備えておきたい。具体的には、各家庭にネットのインフラを整えるための準備をするか、もしくは電話による連絡網の見直しをし、活用していけるといいなと思っている。

 この原稿を僕は、緊急事態宣言が解除された数日後に書いている。これから、世界はどうなっていくのだろうか。「新しい生活様式」に則った「日常」が戻ってくるかもしれない。ただ、新型コロナウイルスという未知との遭遇により、人類は恐れを抱いたはずだ。人は恐れると疑いを持ち、信じるということから遠ざかる傾向にある。身体が硬直するように、心が硬まってしまうのだ。他者にも世界に対しても心を開くことが出来ずに閉じていると、どんどん孤立していく。孤立社会なんて言われていたが、コロナによってみんなが自分だけを守り始めることになると、それがますます加速するだろう。せめて、自分が今は恐れによって無意識のうちに心を閉じようとしているのだと知っておく、そうしてなるべくそんな自分の心を開くようにするぞと心がけるといいと思う。もちろん、それも勇気がいることだが、コロナ後にみんなが一斉に心の自粛活動を始めたなんてことになったら、コロナの思う壺だ(コロナに罪はないけれど)。

 引き続き、様々なことに留意しながらも心を解放し、互いを信じながらこの世界を生きていきたい。特に、「信じること」を生業にしている僕たち聖職者が、率先してその姿を示していけたらと思う。

 

(第15回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年6月16日(水)掲載予定