どうも、神父です。 大西勇史

2020.7.29

19世界で一番ゆるい神学校

 

 「ガリラヤの家」での生活を終え、2年目からは東京の練馬区武蔵関にある東京カトリック神学院での生活が始まった。ガリラヤの家の一年を通して「自分は神父になることを望んでいるのだ」と腹を括った僕だったが、神学校生活はというといまいちピリッとしなかった。

 僕が通っていた当時の神学校は、誰が言ったか「世界で一番ゆるい神学校」と称されており、自分で自分を律して歩んでいくという「自己養成」を大切にしていた。素晴らしい養成理念だとは思うが、24歳のワカゾーにはあまりにも難易度が高すぎた。もとより真面目にコツコツするということが苦手なタイプだった僕は当然朝寝坊するわけだが、先輩から「一週間で起きられなかった回数が負け越しになるのはダメだ」と言われて「じゃあ、週に3回は寝坊できるな」などと思っていた。

 1、2年次は哲学科で学んだ。哲学、形而上学、倫理学、哲学史、ラテン語などをなぞった。本当はもっとたくさん科目があったと思うが、もうすっかり忘れてしまった。旧約聖書の授業のときに聖書を枕にして爆睡していたことがあった。僕は寝ていたので知らないが、同級生曰く、その授業の講師であったドイツ人のおじいちゃん神父は寝ている僕の席の前までやって来て「父と子と聖霊の祝福がありますように」と言って祝福してくれたらしい。後でそれを聞いて、そんなことするなんて神父さんはかっこいいなと思った。またラテン語の試験では、100点満点中9点だったことがあり、担当の神父が「出るところ言ったのにー」と嘆いていた。とまあ、覚えていることと言えば神学生としてあるまじきとんでもない話ばかりで、もはや黒歴史だ。

 3年生になると神学科へ進む。ここから毎年、神学生は進級のたびに役務が与えられるようになる。3年生は助祭司祭候補者として認められ、ようやく一人前の神学生になったと言える。最初の2年間はいわば見習い神学生のようなものなのだ。しかし、生活そのものには大きな変化はない。3年生の年度末の面接(神学校では毎年養成者との面接がある)では、入学のときから僕を知っている養成者のおじいちゃん神父が、「大西くんは順調なんじゃないですか。これからも表でニッコリ笑いながら、裏で血の涙を流すのだと思いますよ」と言ってくれて、「あぁ、ちゃんと理解してくれる人がいて良かった」そう思った。それと2年生と3年生の二年間は、毎週木曜日にやってくるスクールカウンセラーの方の元を度々尋ねて、心理テストを受けまくった。これは、自分自身に対する自己認識がどれくらい的を得ているのか確認したかったからだ。自分がどういう人間か理解できていれば、自分が傷つくことも誰かを傷つけることも少なくて済むと思っていた。

 4年生に進むタイミングではなんと、僕らの学校と九州の福岡にあった「サンスルピス大神学院」とが統合することになった。名前は「日本カトリック神学院」と変わり、1、2、6年生は東京キャンパス、3、4、5年生は福岡キャンパスで学ぶことになったため、本来であればこのまま武蔵関のはずなのだが、急遽福岡で生活することになった。いきなりの統合でびっくりはしたが、1人で行くわけでもないので不安はなかった。その当時、神学校同士の統合について書くように頼まれた原稿には「これは結婚のようなものだ。違う文化で長年育まれてきたものが神様の導きにより一つになる。慣れないこともあるかもしれないが、そんなもの味噌の味が甘いかしょっぱいかくらいのことだろう。違いを乗り越えてやっていこう」というようなことを書いた。

 しかしそれまで僕がいたのは「世界一ゆるい神学校」だった。統合の翌日の院長講話では、公の場(聖堂、食堂、教室)でのジーパン、Tシャツは着用が禁止だと告げられた。禁止されたというより、そんなことはサンスルピス大神学院としては当たり前だったのだろう。そこに、「世界一ゆるい神学校」の我らが流れ込んできたために改めてルール説明が行われたのだ。なんでそんな下らないことを強制されなきゃいけないんだと疑問に思って、講話が終わった後に院長に理由を聞きに言った。理由をどんな風に説明するのか試してやろう。どうせ通りいっぺんのつまらない回答なんだろうなと邪な思いを持ちながら、院長室に行き、僕は開口一番こう言った。「聖堂でジーパンがダメとか、そんな小さいことどうでも良いじゃないですか」すると院長は間髪入れずに「小さくてどうでも良いと思うなら(一度その通りに)やってみろ」と言った。僕は、きれいにカウンターパンチを決められた。「些細なことだと思うんだったら、やってみろ。簡単にできるはずだろ」そう言われて「なるほど、そりゃ、そうだ。院長の言う通り」と思った。そして僕はすんなりそれに従った。ただ、急に襟付きシャツとか言われてもそんなに持っていなかったので、ユニクロに買いに行くことになったが。

 この院長はことあるごとに「型なしじゃダメだ」と、口酸っぱく信仰の伝統的な姿やあり方を身につけろ、と言っていた。はじめのうちは、院長は決まり事や規則ばかりを強調しているような気がして「神様はそんなにケチじゃないし、もっとおおらかで良い意味でのなんでもありなはずだ。なのになんでここで学ぶ神様はこんなにも心が狭いのだろう」と、度々そんな気持ちになった。だが、「そうは言っても、僕の大好きなおおらかな神様が、僕にとって神学校に行くというプロセスが必要だから、僕をここに導いたんだよな」と思い直していた。そして「つべこべ言わずに、一度自分をここに浸してみよう」そう思っていた。とは言え、他の生徒たちに比べたら全然浸っていなかったと思うが、そこはまぁ、仕方がない。

 それにしても、院長や養成者は口だけの僕の相手を懲りずにしてくれたなと思う。僕は今、若い学生たちに話をする機会があると「あなたが何かを体験して感じたことは、たとえどんなに拙くわがままな感情であっても尊い」と伝えている。それは神学生のころ、悪態に近い、わがままな僕の主張に耳を傾けてくれた大人たちがいたという体験があったからだ。幼稚な主張だと否定されるのではなく、人生の先輩が一緒に道を探すようなやり方で向かい合ってくれたという時間は、大きな財産だ。聞いてもらえたという実感はそのまま、大切にされたということでもある。

 

この神学校の日々を経て、僕は今神父をやっている。

 

 神学校では毎年秋に、自己評価書と次の年の役務への申請書を書くのだが、5年生はいよいよ助祭叙階への申請書を書くことになる。助祭になるということは聖職者の仲間入りをしたということで、神学校の最終学年にあたる6年生で助祭になるのが一般的だ。助祭たち――6年生たちのことを「助祭団」と呼んだりして、彼らはそれはそれはかっこよかった。これから神父を目指すという一年生にとって、すでに五年間も神学校で過ごし、叙階を受けて聖職者になった助祭は、眩しく見上げるような存在だった。その助祭になるための申請書を書くにあたって、僕は吸っていたタバコをやめた。申請が通りますようにという願掛けの意味もあったし、ちょうどタバコが値上がりするタイミングでもあった。だが、一番の理由は聖職者になるからだった。つまり、みんなのために自分を使う人になるのだから、どう考えても身体に悪いことをやり続けるのは無責任だと思ったのだ。もちろん、自分の身体だから好きなものを食べ、好きにやるというのもかっこいいし、一つの生き方だ。しかし、僕はそうじゃないほうを選んだ。お腹に子供を宿した妊婦さんが、自分の身体を労るのに似ているかもしれない。自分だけの身体じゃないな、とそのときに思ったのだった。それ以来、今の今まで一本も吸っていない。が、いまだにタバコを吸っている夢を見ることがあって、その度にニコチン中毒は恐ろしいなと思ったりする。

 ちなみに、その決意も虚しく、その年、僕は助祭叙階されなかった。連載の第9回に書いたように、助祭叙階は時期尚早と判断され、同級生たちが進級して助祭になるのを横目に、学外へ研修に行くことを命じられた。そしてその三月に東日本大震災があり、僕は東北へボランティアに行くことになったのだった。もちろん、結果的にはそれで良かったのだが。いや、今となってはあのボランティアで様々なことを学ばせてもらったのだから、すんなり助祭にならないほうが良かったと言うのが相応しい。

 現在の神学院は、ふたたび本州と九州の二つに分かれるカタチになっている。統合から10年経って、改めて色々と学校の運営について見直しがされた結果なのだろう。それを聞いたとき、僕は、こんなことになるなら結婚の比喩なんて使わなきゃ良かったと思ったのだった。

 さて、次回はこの連載のプロフィールにもある「紆余曲折を経て」について書いていく。かなり重たいテーマなので書くこと自体にとても勇気がいるが、これも今の自分を形作る大切な経験なのでお付き合いいただければと思う。

 

(第19回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年8月12日(水)掲載予定