どうも、神父です。 大西勇史

2020.12.2

28神様、あのさ――日々の祈り

 

 祈りってどうすればいいのですか、と聞かれることがある。自分にとって祈りという行為はとても自然なことなので、急に聞かれると一瞬返答に困るが、「どんなときでも大丈夫ですから、祈りたいと思ったら『神さま』と呼びかけてみてください。続けて、心の内を告白するもよし、たとえしなくてもそれだけで、つまり呼びかけるだけでも十分祈りになりますよ」とお答えする。その人の中に祈りを向ける(投げかける)対象との関係性が育っていないと難しいので、まずは対象としての「神様」を意識してもらうというのが狙いだ。

 その後、「ちなみに」と「教会では古くからとても大切にしている『主の祈り』というものがあります」とお伝えする。「主の祈り」については、以前ここでも触れたことがあるが、補足の意味も込めて今回はもう少し詳しく、聖書の中から以下を紹介しておこう。弟子たちをはじめ、噂を聞きつけて集まってきた多くの人に向けてイエス自身が祈り方を教えてくれる場面だ。

(イエスは、言われた)「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名(みな)が崇(あが)められますように。御国(みくに)が来ますように。御心(みこころ)が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦(ゆる)してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください』」(マタイ6章8~13節)。

 この祈りが「主の祈り」と呼ばれるようになった。現代の教会では「天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」と唱える。

 「主の祈り」は、教会の教えを収めたカテキズムという立派な本の中でも「全福音そのもの」とか「比類のない祈り」などと言われ、説明に多くのページが割かれている。そのことからも、教会がいかにこの祈りを大切にしてきたかが分かる。しかし、大切なものだからと言って大事にしまっておくと言った類のものではない。どちらかと言えば、それは日々使い込むことによって、さらに自分にとって必要不可欠なものになっていくという大切さだ。だから、神父も信者も公のミサや集会をはじめ、個人で祈るときなど、折々にこの祈りを唱えている。

 ちなみに昨日の僕はというと、朝の祈りとミサで一回ずつ、午前中にカウンセリングのお手伝いをしている心療内科で患者さんが来る前に一回、終わって車に乗って駐車場で一回、夕方教会で洗礼の準備をしている方と一緒に一回、夜寝る前に一回と計六回主の祈りを唱えた。主の祈りだけでも、これくらいは毎日当たり前に唱えている。それにプラスして勝手に「神様、あのさ」と話かけていることなど多々あるので、傍から見たら独りごとを呟きまくりの人なのかもしれない。

 僕は「これからお願いします」と「あとはよろしくお願いします」と祈ることが非常に多い。「これからお願いします」は、信仰のあるサッカー選手が「今から試合でベストを尽くせますように」と、ピッチに入るときにサササっと十字を切るのと同じだ。「あとはよろしくお願いします」はベストを尽くしたけど、沢山至らない点や足りないところもあったと思う……が、そこは神様フォローしてくださいね、というような感覚のものだ。僕の行動の根底には、自分と相手の一対一の場合でも、自分対大勢の場合でも、その人たちに自分を使ってもらうといったような、その場所に自分の全部を置いてくる、自己を投げ出すような、そんな感覚が常にある。「私」ではなく、神様のスピーカーとしてそこにいるというか、きっとそうありたいという思いが強い。だから、こういう祈りが多くなるのだろう。自分で分析していて、恥ずかしくもあるが……。あとは、「神様、あなたはこの出来事を通して、私に何を語りかけてくださっているのしょうか」と神様に問うタイプの祈りもある。これについては、世の中の不条理なことから自分自身のあるべき姿まで、まだまだ分からないことの多い日々なので、文字通り必死に教えを乞うような気持ちと言おうか。

 もう一つ、僕が日々の祈りの中で当たり前にしているのは「誰かのために祈るということ」。これは地元の信者さんや友達といった顔が分かる親しい人から、SNSを通じて連絡がきて名前も顔も分からないといった方まで幅広い。主に、仕事や人間関係、健康のことなど「祈ってください」と言われることが多く、その度に依頼があった翌朝に祈ることにしている。そのときの祈りの言葉は決まってはいないが「神様、〇〇さんがこの問題で苦しんでいます。そのことは神様が一番よくご存知です。私は今このときも神様が〇〇さんのことを大切に思い、愛していると信じます。〇〇さんが早くこの苦しみから抜け出し、〇〇さんらしく生きていくことができますように」というような感じだ。

 通っていたカトリック系の幼稚園の聖堂(神様のお部屋)で、みんなで正座して手を合わせて「おいのり」していたあの頃から、今まで本当に祈りというものに親しんできた。「おいのりは神さまとのおはなし」と教えてもらい、せっせと40年近く祈り続け、祈りがなければ乗り越えられなかった人生の局面が沢山あった。今も祈りのうちに気づかせてもらうことばかりだ。そう思うと、祈りは神さまに怒られる時間とか、神さまの説教部屋みたいなイメージじゃなくてよかった。今はもう無くなってしまったあの幼稚園の聖堂は、薄い桃色のカーペットがふかふかで気持ちが良かった。きっと僕にとって祈りとは、いつどこにいても瞬時にあの聖堂に引き戻してくれるものであり、そこに佇んで神様と一対一でするコミュニケーションなのだ。今回は僕はこんな風に祈るよ、と紹介してみたのだが、もし自分も祈りたいなと思われている方がいたら、気負わず、神様に向かって言葉を投げかけてみるところから始めると良い。そして、あまり手応えがないなとなっても、諦めず、日常の節目節目に繰り返しやってみて欲しい。朝起きて「神様、今日も一日よろしく」。夜寝る前に「神様、今日も一日ありがとう」でもいい。きっとそれだけでも心が安定し、生活がしやすくなるはずだ。みなさんが祈りを通して、神様とどんどん親しくなりますように。

 

 

(第28回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年12月16日(水)掲載予定