どうも、神父です。 大西勇史

2020.8.26

21生涯でもっとも大切な出会い

 

読者のみなさまへ

 先日公開した第20回につきましては、私の司祭(神父)としての配慮が足りず、多くの方にご迷惑をお掛けしてしまいました。記事については削除させていただきました
 発言を撤回し、ここにお詫び申し上げます。

大西勇史

 

 2013年12月から広島での生活が始まった。その間、カトリック幟町教会での奉仕(ミサのお手伝い、聖書講座、入門講座など)を中心に、広島教区全体の青少年の仕事などに携わらせてもらった。

 青少年の仕事とは、信徒向けのイベントの運営サポートが主だ。広島教区の場合、信徒の年齢別に3つのグループがあり、それぞれに年に一度大きなイベントが開催される。たとえば、小五~中三は夏に教区の神学生が主催する「練成会」という名の合宿がある。そして中三~高三は「中国ブロックカトリック高校生大会(以下中ブロ)」というこれまた合宿が3泊4日であり、その上の大学生以上のカテゴリーは「青年」と呼ばれ、「教区青年大会」というイベントを開催する(こちらは毎年ではなく不定期開催)。いずれも、それらを運営していくのは上に書いた「青年」たちだった。練成会では神学生といっしょにスタッフとして動き、中ブロでは中・高校生を見守りつつ、時には彼らを引率するリーダーとして関わる。青年大会は裏方をやりつつ自分たちが参加者でもある。どのイベントも青年たちはフル回転で働き、彼らなしには成り立たない。それどころか、彼らがいる前提でイベントが組まれている。

 青年と呼ばれる彼らだってそんなにたくさんいるわけではないので、どのイベントもみんな掛け持ちで手伝いをしている。つまり、この三つのイベントとも裏方のスタッフの顔ぶれがあまり変わらないということが多い。もちろん皆それぞれに仕事や学校に行きながらと言った感じだ。この感覚、教会では当たり前なのだが、一般にはどんなイメージなのだろう。ノリはサークルっぽいのかもな、と思う(と言っても大学へ行ったことがないし、実際のサークルを僕は知らないのだけど)。

 自分たちもそうしてもらってきたから、今度は自分たちがしてあげる番だというサイクルが自然と根付いている。この当たり前の感覚がうまく機能しているときは、本当に教会らしくていいなと思う反面、する側の善意におんぶに抱っこになりすぎる傾向があると感じることも多い。個人やグループに、負担をかけ過ぎてしまうリスク。教会に行くと、いろんな仕事をさせられて却って疲れたといった声がたまに聞かれるのは、ここのところのバランスが悪いんだと思っている。

 僕の広島での生活を支えてくれたのは、この「青年」たちであった。

 今書きながら思い浮かべるだけでも、入れ替わりもあったが常時15人くらいのメンバーがいた。そして、そのメンバーの何人かは他でもない、自分が高校生の頃に中ブロで知り合って以来の仲間だった。もちろん、かなり久しぶりの再会で、中には幼稚園の園長になっている奴もいて「お前が園長なんてね」と言ったら「お前に言われたくないよ、神父になるとか、なんの冗談なん?」と言われてしまった。広島に移ってうまく再スタートができるかどうか、というときに彼らが受け入れてくれて本当に助かった。具体的に何か声をかけてくれたとかではない。一緒に教会活動をする仲間が、気心の知れた昔からの仲間だった。それだけで随分と精神的に楽だった。きっとそういう仲間を、神様が助け手として送ってくれたのだなと感じる。

 広島にきた翌年の2014年から今も、僕はこの中ブロの担当者を任せられている。50年以上の歴史があり、広島教区が誇る名物イベントと言ってもいい中ブロ。このイベントの最大の特徴は、参加対象者の中高生の中からスタッフを募集し、その子たちが一年間かけて合宿の準備をし、運営することにある。青年たちや神父はそのサポートをする。大体参加者は毎年80名くらい。中国五県をさらに3つの地区に分けて、本部、典礼(ミサや祈り)、レクなどの役割を分担する。担当者の仕事のメインは開催するための会場施設の確保と、その施設との窓口業務だ。

 当日配布するパンフレットには、担当者として挨拶文を書くのだが、手元に第50回のものがあるので以下に引用する。雰囲気が伝わるだろうか。

【みんなと同じ年のころ、神様なんていないと思っていた。もし本当にいるなら、あれやこれ、あんな憧れやこんな夢がもっとスムーズに実現しているべきだし、誰も傷つかない世界、もっと言えば自分が傷つくことのない世界があるはずだ。そう思っていたから。

しかし現実はそうではなかった。むしろうまくいかないこと、失敗することばかり、どんどん自信は無くなるし、自尊心は低くなる一方。「自分なんて」とか「自分なんか」と思うことが増えてくる。そんな状況の中で、イエスが神とか、聖霊がなんちゃらとか、まして死んだのに復活とか、アホのいうことだと思っていた。本気で。

それなのに、そんな自分だったのに、高校3年の時に初めて参加した、あの中ブロで僕は神様と出会った。当時の実感をそのまま言葉にするならば「神いるかもしんねーな」だ。確かにそう思ったし、それでいいやと思えた。僕にとって中ブロに参加したことはそういう出来事だった。生涯でもっとも大切な出会いだった。】

 みんな大体、最初はなかなか打ち解けられずにもじもじしているのだが、「分かち合い」と呼ばれるグループでの話し合いや、グループ対抗のレクリエーション、食事などを通じて仲良くなっていき、最終日には涙涙のお別れになる。そして、中ブロでは「素」になれる、ここではみんなが自分のそのままを受け入れてくれるといった感想もよく聞かれる。

 参加者はそれぞれ学校も住んでいる地域もバラバラで、いわば中ブロは3泊4日の非日常空間だから、普段の生活にありがちな人間関係のもやもやはないし、より開放的な気持ちにもなるのだろう。だが、あの場が「温かさ」を持っているのは間違いない。参加した彼らのそうした言葉を聞きながら、教会ってそういう場所だよな、そうあるべきだよなと思う。神様からの愛をたっぷりもらい、誰もが「素」でいられる場所。お互いに弱さも強さも認め合いながら「いっしょにやって行こうね」と言い合える場所。教会は本来そういう場所であるはずなのだが、果たして実際はそうなっているだろうか。僕は毎年、中ブロ最終日の彼らの姿を見ながらそう思わされる。これを作らなきゃいけないんだよな、と。

 

写真:山口明宏

写真:山口明宏

 

 今年の中ブロは残念ながら、コロナの影響により中止を余儀なくされた。僕をはじめリーダーたちは、なんとか開催してあげたくて、3月末の本番をずらしてGWに延期すると言ったのだが、叶わなかった。改めて中止の決定を告げるために高校生のスタッフ、青年リーダーたちにこんなLINEを送って、思いを伝えた。

 コロナウイルスがこれまで以上に猛威を振るっていること。仕方なく中止にしてしまうことへの申し訳ない気持ち。確実ではないが、もし来年開催出来るのであれば、今年みんなが準備してくれた内容を出来るだけ活かしたい。そうは言っても通常通りの準備ができない中ブロになるだろうが、そんなの関係ない。いつもより、エモーショナルで楽しいものになるに決まっている。だから、準備とか心配しなくていい。でも、受験とか早く終わった人は手伝ってね。それと、すでに繋がっている中ブロメイトには来年のお知らせ流せるようにしといてね。

 そしてこのLINEの最後に、祝福の祈りを添えた。

 長くなったね。それでは第54回スタッフは一度ここで、解散しましょう。次に会うのは、来年の3月。それまで元気でね。いつも祈ってる。

 全能の神、父と子と聖霊の祝福がみんなとみんなの大切な人の上に豊かにありますように。アーメン。

 今年のメンバーとは、コロナのせいか個人的にもやりとりの回数が多くて、彼らの中ブロに対する熱い思いに何度も感動させられることになった。そのせいもあってか、記念というか記録を残してあげたいという思いもあり、今回ここに書かせてもらった。彼らは、きっとこれを読まないだろうけど、第54回の中ブロは本番こそ中止になったが、確かにあったんだということをここに刻んでおきたい。

 

(第21回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年9月9日(水)掲載予定