どうも、神父です。 大西勇史

2020.9.9

22作ったモノに聞く

 

 神父になった最初の年の夏、突然、知り合いの大学生からLINEがきた。

 普段彼とはそんなに頻繁にやりとりをするわけでもなかったので、どうしたわけか聞いてみた。すると「お前なんか存在価値ないからって言われた」と返ってきた。既読も付けちゃったし、早く返信してあげなきゃなと思いながら、しかし、なんと言おうかと考えあぐねていたら続けて「神様は僕みたいなやつでも愛してくれる、っていう信頼が揺らぎそう。どうしたらいいですか?」と入った。一番大切なことをちゃんと伝えようと思って、「神様は、キミに存在して欲しくてキミを生んだんだ」と送った。そして「僕は、キミがいる意味ってあると思う」と続けた。僕は彼に、翌朝のミサで祈ることを約束した。

 翌日からは修道院のシスターたちのところへ赴いて、合同でミサを行うことになっていた。シスターたちにもワケを話して、いっしょに祈ってもらった。ミサが終わって、涙ながらに僕の手を握って「私も祈ってるからって彼に伝えて!」と言って下さったシスターもいた。

 僕はそのことを彼に報告した。存在価値とはなんなのか、実は僕だってまだよく知らないけど、キミのその辛さに共感して涙してくれる人がいるんだ、そのことは忘れないで欲しいと伝えた。

 彼からは「ありがとうございます」としか返してこなかった。そのそっけない返信で不安になったわけではないが、念押ししておこうと思って「繰り返して言っとくよ! キミに存在価値はあるよ! キミは存在価値、売るほど持って生まれてきた!」と送った。しつこい、絶対嫌われただろう、まぁ仕方ないかと思っていたら「w」と返ってきた。よかった、笑ってくれたなら何よりだ。

 そのまた翌日は、「お前なんか存在価値無いから」と言った彼の友だちのために僕は祈った。本当は、そう言った本人が一番「自分には存在価値があるのかなぁ」という不安を抱えているんだろうなと思ったからだ。近くにいる自分と似たような彼にそう言うことで、「お前なんかとは俺は違う」と自分に思い込ませたかったのだろう。そうして壊れそうな自分を守ろうとしたのだろう。だから、僕はその友達のためにも祈った。

 そして、前日と同じようにシスターたちにも今日も一緒に祈ってほしいとお願いした。今度は彼の友達のために。ミサが終わり、昨日涙してくれたシスターが再びやってきて「神父さま、私、昨日からそのお友達のためにも祈っていたんです」と言った。このシスターも僕と同じように感じていたらしく、こちらが頼む前から2人のために祈っていてくれた。僕は同じように感じてくれていたこと、すでに祈ってくれていたことが嬉しくて「ありがとう、シスター。やっぱそうだよね、どっちにも福音いるよね」とお礼を言った。

 

 

 これを読んでくださっている読者の方の中にも、彼のような体験をしたことのある人がいるのではないだろうか。人から言われたり、人に対してこの言葉を言ったことはなかったとしても、自分で自分に対して、こうやって疑問を持ったりしたことはないだろうか。「私のいる意味って? 存在価値とは?」といったような。

 これについて僕は、明確な答えを持っている。それは「作ったモノに聞く」だ。

 僕たちは自分の誕生に関わることができない。もし読者の方の中に、自分で願ったり、念じたりして生まれてきた人がいたら教えて欲しい。生まれる前に「オレ生まれたいなー」とか「わたしが生まれたらどんなに素晴らしいだろう」とか「出でよ! 自分」とか思っていた人はいないでしょう?

 つまり、自分は自分を生み出していない。生み出したのは、自分以外の何かで、一番イメージしやすいのは親かも知れない。だけど、きっと親の望みだけでは私は存在し得ない。それよりももっと深くにある意志のようなモノ、つまり僕にとってそれは神である。

 僕は神に作られた被造物だ。だから、価値を与えるのは作った側の神であって、作られた側のこっちがその問題を自力で解こうとするとややこしくなる。不安になったら聞いてみたらいいのだ。

 人間が作り出した芸術作品にしたって、日用品にしたって、必ず作る側の「作りたい」「あったらいいな」という意志のもと、「これでオッケー」という承認を経て世に出てくる。作った本人なのか他の誰かかもしれないが、どこかで誰かが「よし!」と思っている。でなければ、この世の中にそれらは存在しなかっただろう。書きながら、これは承認欲求の話ともイコールな気もしてきたが、いずれにしてもこの問題は作った側に意識を向けない限り、自分では答えを見出しにくいのではないだろうか。

 マルコ福音書1章9~11節にイエスが洗礼を受けるシーンが載っている。

「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のようにご自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

ここで、イエスに聞こえた神の声が私たちの存在の根っこにいつもこだましていると思って欲しい。

 昨年一年間、小中高で宗教の授業を担当していた。それに加えて、前回書いた中ブロのように中高生と関わる機会があるからか、新学期の始まるこの時期(8月末~9月頭)は日々の祈りの中で学生たちのことを思い浮かべることが多い。一人一人の顔が思い浮かぶこともあれば、クラス全体の雰囲気を思い出すこともある。いずれにせよ、「辛いことがあっても神が一緒にいてくれるから大丈夫。と、あの子たちが思い出すことが出来ますように」というような祈りになる。無事を祈るというか、人の目に見て良いこと、悪いことは生きている以上必ず起こるだろうが、それでも「自分は1人じゃない」とか「この苦労には意味があるかもしれない」「自分は神に望まれて生まれてきた」と思って欲しい、そう願わずにはいられない。

 ちなみに、メールをくれた例の彼だが、昨年一度だけ浜田教会までフラッと遊びに来てくれた。僕のところにやって来たりメールを送って来るときは、決まって「背中を押して欲しそう」だったりする彼。そのときも一緒にご飯を食べ、ゆっくり話を聞いた。「大丈夫だから。きっとうまくいく。信じよう」と言って別れた。そんな彼だから、便りがないのは良い知らせなのだろう。そうだったら嬉しいし、こちらも時折、思い出しては彼のことを祈っている。

(第22回・了)

 

本連載は隔週更新でお届けします。
次回:2020年9月23日(水)掲載予定