亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2021.9.3

12村井理子『ハリー、大きな幸せ』——はじめに




亜紀書房のウェブマガジン〈あき地〉にて大好評連載中の
村井理子「犬(きみ)がいるから」書籍化・第三弾!

『ハリー、大きな幸せ』が発売になりました!

税込 1540円

『ハリー、大きな幸せ』発売記念〈試し読み〉
きゅうり砲
ハリーは枝師

 

はじめに

 私は、日本一大きい湖として知られる琵琶湖近くで、もしかしたら日本でもトップレベルにハンサムで賢いかもしれないラブラドール・レトリバーのハリーと暮らす翻訳家だ。毎日、本とにらめっこしながらデスクに向かう私の横には、いつでも愛犬ハリーがいる。こんな生活がはじまって、あっという間に四年の月日が経った。
 生後三ヶ月だった子犬のハリーがわが家にやって来たとき、小学校五年生だった双子の息子たちは、今年、中学三年生だ。ハリーも双子の息子たちもどんどん成長し、ハリーは五十キロの巨体となり、息子たちは私よりも遥かに背が高くなった。でっかい犬とでっかい中学生がいるわが家は、なんだかとっても食費がかかるため、私はいつまで経っても仕
事に追われている。
 子犬のハリーがわが家にやって来たとき、そのあまりの愛らしさに家族全員がノックアウトされた。まるでぬいぐるみのような、それもとびきり可愛らしいぬいぐるみを山ほど集めたような、とんでもない姿だった。真っ黒くて、フワフワで、ずっしりと重かった。ビロードのような黒い毛が輝いていて、大きめの耳が顎のあたりまで垂れていた。丸い目
がきらめいて、こちらをじっと見据えていた。まるで絵に描いたような美しさだった。しかし感激の初対面に興奮していたそのときの私たちは知らなかったのだ。ラブラドール・レトリバーの子犬が、まさに悪魔のようにいたずらな存在だということを。
 異変はハリーがわが家にやってきたその日の夜からはじまった。大型犬は子犬のときからケージに慣らしておくことが大切だと聞いていた私たちは、さっそく犬用ケージにハリーを入れてみた。息子たちと遊び疲れて眠くなった今がチャンスと、急いで入れて、ドアを閉めた。しかし、ドアを閉めた瞬間、ハリーは甲高い声で騒ぎ出した。明らかに怒りまくっている。その鳴き声の大きさたるや、成犬なのか!?  と狼狽えるほどだった。ギャンギャン大声でわめき、前脚をバタつかせて暴れ、ドアのロック部分を執拗に攻撃するハリーに家族は一時間ももたずに降参し、ドアを開けるしかなかった。
 すると子犬にしては若干凶暴な表情であっさりケージから出てきたハリーは、当然でしょという顔をして今度はソファに乗せろと要求し、乗せてやるとしばらくおもちゃで遊び、そしてグーグー寝はじめた。もしかしたらかなり根性が据わった犬なのかもしれないと思った。私のその予感は当たっていた。
 初めての場所に戸惑っていたのは、ほんの数日だった。一旦新しい環境に慣れるとハリーは毎朝誰よりも早く起きるようになり、家のなかをくまなく歩き回って、目につくものをすべて嚙むようになった。嚙み、振り回し、とことんやっつける。まず被害に遭ったのは靴だ。片っ端からくわえては、せっせと自分の居場所であるソファまで運び、丁寧に嚙
む。一足きちんと嚙み終わると、いそいそと玄関に戻り、お気に入りの次の一足をくわえてまた戻ってくる。そしてうっとりとした表情で嚙みまくる。こんなことを延々と繰り返していた。
 靴を嚙むのに飽きると、次の標的は段ボールだった。振り回し、びりびりと破り、それをまき散らす。わが家のリビングは一時、ハリーがバラバラにしてしまった段ボールが床一面に広がっていた。
 おもちゃを与えれば瞬殺、家具はすべて敵のように攻撃、手がつけられないやんちゃなハリーが変わりだしたのは一歳を迎えたころだった。明るい性格はそのままに、どんどん賢くなっていった。運動がなにより好きな犬になった。湖で泳ぐこと、枝を集めることがなにより楽しそうだった。だから、私たちはハリーを連日琵琶湖に連れて行き、いくらで
も泳がせ、走らせた。運動したあとのハリーは、なんでも言うことを聞く素晴らしい犬になった。今となっては、やんちゃな時期が噓のように、冷静で穏やかな成犬となっている。最近では琵琶湖に浮いている流木をせっせと水から引き上げては集めるという活動を一匹で頑張っている。
 ハリーは愛犬というよりも、わが家の中心的存在だ。誰もがハリーを気遣い、誰もがハリーとの生活をこの上なく楽しんでいる。当のハリーも、連日泳ぎ、走り、食べ、そしてたっぷり寝て、ゆったりと暮らしている。大きな体と同じぐらい大きな心で、常に家族に寄り添っている。



〈はじめに・完〉

《『ハリー、大きな幸せ』試し読み》
きゅうり砲
ハリーは枝師

 


村井理子『ハリー大きな幸せ』好評発売中!

税込 1540円

【もくじ】

はじめに
1……ぼくはここにいる
2……足元に眠るお宝
3……留守のあいだに
4……きゅうり砲
5……大人の階段
6……今日は三歳の誕生日
7……かけがえのない時間
8……香りが悩ましい
9……愛の挨拶
10……不安な日々に
11……動物だってコロナ疲れ
12……近江の守り神
13……安心してはいられない
14……薬の時間
15……ダイエットの秘訣
16……ギルティ・ドッグ
17……きみがいてくれるだけで
18……今夜はどこで?
19……大好きな秋
20……ハリーは枝師
21……引っぱり力
22……ベッド戦争
23……ハリーくんのバースデープレゼント
24……ヘルパーのハリーさん
25……幸福という仕事
26……毛が辛い
27……愛犬と愛車と
おわりに


次回の試し読み「きゅうり砲」は
9月8日(水)公開予定