亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2023.6.19

52GIベビー、ベルさんの物語〈5〉

 

 

202312月頃の出版をめざして執筆・製作中の岡部えつさんによるノンフィクション『GIベビー、ベルさんの物語』(仮)の前半を公開します。

また、ベルさんをアメリカに連れて行き、肉親に対面してもらうため、クラウドファンディングを実施中です。ぜひプロジェクトの詳細をご覧ください。

https://camp-fire.jp/projects/view/677532?utm_campaign=cp_share_c_msg_projects_show

 

 


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『GIベビー、ベルさんの物語』(仮)〈5〉

前話はこちら

 

ベルさんの話 《弟》

 わたしにはね、弟がいるの。ジュニアって名前。どうして知ったか? いつだったかは覚えてないんだけど、確か、パパに言われたんだと思う、お前には弟がいるよって。戸籍謄本に書いてあったって。
 弟も、わたしと一緒に施設にいたかって? 覚えてない。弟はね、お父さんと一緒にアメリカに行っちゃったのよ。何歳のときかは、わからない。でも、確かだよ。そう聞いたもの、わたしの弟はお父さんとアメリカに行ったって。
 どうして弟だけ連れて行ったんだろうね。やっぱり、男の子だからかしら。
 弟はわたしと何歳違いか? わからない。お父さんの苗字もわからない。アメリカのどこに行ったかもわからない。でも、お母さんがわたしに会いにきたとき、赤ちゃんを抱いてたって話したでしょ。あれが弟だと思うんだよね。
 え? そうなると、わたしを施設に預けたあとも、お父さんとお母さんは一緒にいたことになる? ああそうか、そうだよね。そうなのかもしれないね。何か、事情があったんじゃないの? いろいろあるじゃない、わたしなんかにはわからないことが。時代がさ、時代だから。そうでしょ。
 だからね、わたしは弟にも会いたい。すごく会いたい。お父さんのことは、悪いけどあんまり考えたことないの。どうでもいいって言っちゃあ失礼だけど。
 でも、お母さんとジュニアには、会いたい。すごく会いたい。



お母さんを、探して

 こんな話を、折々、断片的に、繰り返し聞きながら、月日は過ぎていった。

 突然ベルさんから「手術を受けるので保証人になって欲しい」と電話が掛かってきたのは、2020年の秋のことだった。
 膝に人工関節を入れる手術で、術後のリハビリも含めて一か月近くの入院になるという。わたしも手術入院の経験はあるので、保証人が必要なことは知っていた。わたしの場合は二人必要で、当たり前のように家族に頼んだ。ベルさんには、そういう相手がいない。
 二つ返事で引き受けると、彼女は続けた。

「病院代は無料なんだって、生活保護を受けてるから。ありがたいね」

 入院準備など一人で大丈夫かと訊くと、それは問題ないが、次の診察時に受ける手術の説明が理解できるか不安だというので、つき添うことにした。
 病院は、ベルさんが長年暮らしている渋谷区幡ヶ谷にあった。担当医から丁寧な説明を受け、保証人の書類をもらって病院を出ると、ベルさんが近くの喫茶店でコーヒーをご馳走してくれた。世間は、新型コロナウイルス感染症の蔓延にざわついていた。病院も出入りが厳しく、手術当日も、その後の見舞いも制限されていたので、次に会うのは退院の日ということになった。

 一か月後、病院まで迎えに行くと、ベルさんは松葉杖姿ではあったが、顔色はよく、思いのほか元気だった。

「いいほうの膝を悪くしないためにも、痩せなきゃだめだって。頑張る」

 長身なのでそこまでには見えなかったが、90キロ近くまで太ってしまったのだと言って、彼女は笑った。
 リハビリで歩いているとはいえ、まだ無理はできないのでタクシーを拾い、アパートに向かった。窓から見える街並は、クリスマス一色に染まっていた。

 アパートに着くとまもなく、渋谷区の職員が来た。生活保護のケースワーカーだった。
 ベルさんは、家ではずっと布団で寝ていたが、膝のためにはベッドのほうがいいと医師に言われたため、ケースワーカーに掛け合って、無料で医療用ベッドを貸してもらえることになったという。一人暮らしなので前もって運び入れることができず、退院の日時に合わせて配達してもらえるよう、何度も担当者と打ち合わせをしたらしい。
 こうした手配を、ベルさんは入院中に自分一人でこなした。夜間中学に入ったときもそうだったが、彼女には、可能性に賭けて自力で進んで行く力がある。
 ベッドが届くのを待つ間、ベルさんとケースワーカーは実に親しげに、ときに笑いながらお喋りしていた。

 最後の仕事を解雇されたあと、次の仕事に就けず困窮していた彼女に、生活保護の対象になるのではないかと助言したのは、水島さんだった。
 彼は、申請の手伝いもした。ニュースでは、なかなか申請が通らない理不尽な実態や、そのために悲惨な結果となった事件がたびたび報道されるが、ベルさんはすんなり受け付けてもらえたそうだ。理由はわからないが、身寄りが一人もいないことが、幸いしたのかもしれないとも思う。もちろん、渋谷区の行政が、至極まともだというだけのことかもしれないが。

 やってきた昇降機能付きベッドは、ベルさんの狭いワンルームの半分を占めてしまったが、彼女はかなり楽になったと、満足そうだった。
 わたしは近所のコンビニで数日分の食料を買い、冷蔵庫に入れてから帰った。

 次にベルさんに会ったのは、一年半後の2022年、夏のことだった。電話ではしょっちゅう話していたのだが、新型コロナウイルス蔓延防止のため、国を上げての外出制限が続いていたことと、彼女の70代という高齢も考慮して、会わずにいたのだ。
 その間彼女は、区営の高齢者向け集合住宅に引っ越していた。これも、一人で区に相談して情報を得、自分で応募して勝ち取ったものだった。

 727日水曜日、午後に渋谷のパルコ劇場で高橋一生の一人芝居『2020』を観たあと、渋谷区役所からシティバス「ハチ公バス」に乗った。傾きかけた太陽はまだ強く照りつけ、抜けていく代々木公園の目の覚めるような緑の下に、濃い影を作っていた。
 新築の集合住宅は、彼女が今まで住んでいたアパートとは格段の差があった。ベルさんは、錆びた手摺りの外階段を上がって入る六畳ワンルームの暮らしから、オートロック付き、エレベーター付き、オール・バリアフリーの1DKの生活にレベルアップしていたのだ。バーベキューができそうなほど広いベランダもあり、そこから見える景色はグラウンドと街路樹だけで遮るものがなく、幹線道路から離れているので騒音もない。

「いい部屋でしょう。全部自分で調べて、ハガキ出して、当てたんだよ。こんなに綺麗で広いのに、前のアパートより家賃は安いんだもん、そりゃみんな応募するよね」

 ベルさんは、嬉しそうだった。退院してからプールに通い始め、20キロ近く体重を落としたと電話で自慢していたとおり、すっきり痩せて手術前より健康そうだった。
 持っていったワインで、二人ともだいぶ酔っ払った頃だ。彼女がおもむろに立ち上がり、押し入れから数枚重なった書類を出して、テーブルに置いた。

「これ、ちょっと見てみてくれる?」

 1枚目から3枚目までは、戸籍謄本だった。筆頭者は「堤幸子」。ベルさんのお母さんだ。
 仰天した。彼女が弟の話をしたとき、確かに「戸籍謄本」があったとは言っていたが、その言い方から、わたしはてっきり、一度取り寄せはしたものの、何かのタイミングで捨ててしまったか、あるいは、パパが調査のために手元に持ったまま亡くなってしまったかで、今はどこにもないものと思っていたのだ。
 2枚目と3枚目は、ベルさんの祖父母の名前が記載された、除籍謄本だった。はじめて見るので見方がよくわからなかったが、一度だけベルさんに会いにきた祖母カヨさんが、平成172005)年に死亡していることは読み取れた。そしてその死亡時の住所蘭には、2001年にベルさんがカヨさん宛に出した手紙の住所と、同じ住所が記載されていた。
 戸籍謄本の発行日を見ると、平成19年(2007年)323日とあった。これはベルさんが58歳になる年で、パパと交際していた時期とは20年近くずれている。また、F先生と調査をした2001年とも離れている。
 なぜ、2007年に戸籍謄本を取ったのか。訊ねても、ベルさんはまたしても何も覚えていなかった。

 そうとなれば、3回目の調査のときに違いない。

 3回目のお母さん探しについては、以前、雑魚寝で水島さんから聞いたことがあった。昔、生き別れた人を見つけて感動の対面をさせるテレビ番組があり、出演者を募集していたので、みんなで「ベルのお母さんを探してもらおう」と盛り上がって、応募したという話だった。

「でも、不採用だったんだよね。ベルはあのとおり美人だし、テレビ映えもするだろうから、絶対に受かると思ったんだけど」

 水島さんは、残念そうに言っていた。こうして、3回目の母親探しも暗礁に乗り上げたのだ。
 ベルさんに確認すると、

「そうそう。島田紳助が司会してた番組よ。でも、いつのことだったかなあ。新星中学を卒業したあとなのは確か。あとね、これは誰にも言ってないんだけど、わたし、お母さんを探してくれないっていうのでカーッときて、一人でテレビ局まで行ったの。それで、なんで探してくれないんだって、怒鳴り込んだの。追い返されたけどね」

 と、興味深いことを思い出した。
 いくら怒りっぽいベルさんでも、応募ハガキがボツになったくらいで、テレビ局に怒鳴り込んだりしないのではないか。何か理由があったはずだ。
 そう思い、テレビ局と何かあったのではないかと訊ねてみたが、彼女は、腹が立ったことしか記憶していなかった。

 その後調べたところ、2007524日に、日本テレビ木曜スペシャル『泣いた笑った! ご対面あの人に会いたい』という、島田紳助司会の番組が放送されていたことがわかった。戸籍・除籍謄本の発行日は、その二か月前になる。
 ベルさんは、母親探しの目的以外に戸籍謄本を取り寄せたことはないし、最後の母親探しはテレビ番組応募だ。ということは、応募したのはこの番組で、戸籍・除籍謄本は、そのために取られたのに間違いないだろう。
 テレビ関係の仕事をしている友人たちに意見を聞いたところ、いくつかの可能性があることがわかった。


 ①出演者募集の段階で、戸籍・除籍謄本を出してもらうことは絶対にない。ベルさんが戸籍謄本を用意したということは、一次審査は通って調査は始まり、その過程でボツになった可能性がある。

 ②戸籍・除籍謄本の発行日3月23日が調査の開始時期だとしたら、524日放送には間に合わない。それ以前から調査は始まっていて、ある段階で必要となって取り寄せてもらったのなら辻褄は合う。

 ③
調査の途中でボツになった場合、応募者にはそれなりの説明がなされる。

 ④たとえ調査対象が見つかったとしても、対象者や家族の特性や事情によって、テレビ的に出せない場合がある。

 ⑤出演者の人柄も、審査対象になる。


 これらを合わせると、ベルさんの記憶にはないが、一次審査は通って調査は始まっていた可能性がある。
 また、途中でボツになった理由が、戸籍・除籍謄本だった可能性は大いにありうる。
 一回目のパパとの調査のとき、ベルさんの伯父または叔父の反応は、良いものではなかった。また、二回目のF先生との調査の際、手紙を送ったカヨさんの反応は、冷徹極まりないものだった。堤家の人たちは、ベルさんを拒否していたのだ。
 それがボツになった理由だとしたら、テレビ局の人は、ベルさんにどう伝えただろう。今となっては想像するしかないが、「これでやっとお母さんが見つかる」と信じていたベルさんは、希望を毟り取られ、いたぶられたような気持ちになったのではなかろうか。もしそうであったなら、感情のぶつけどころを失った彼女が、テレビ局に乗り込んで行ったのも頷ける。

 どんな経緯があったにせよ、手元に残った戸籍謄本を、ベルさんは怒りにまかせて破り捨てるようなことをせず、大切にとっておいた。そして、15年の後、偶然にもわたしの前に差し出されたのだった。
 そこには、考えてもみなかった情報があった。幸子さんの、結婚の記録が記載されていたのだ。

『國籍アメリカ合衆国ルイスXXXXXX(伏せ字は著者による。以下同)と婚姻届出昭和参拾年参月弐拾九日東京都中央区長受附同年四月拾壱日送付』

 そしてもうひとつ、重要な記載があった。ベルさんの弟についてだ。

『ジニヤ 男 出生:昭和弐拾八年拾弐月拾参日。国籍アメリカ合衆国サミエルXXXXXX同人妻フローレンスXXXXXXの養子となる縁組養父母及び縁組承諾者親権を行う母堤幸子届出昭和弐拾九年七月弐拾日受附』

 わたしは興奮気味に、そこに書かれていることが意味するところを、ベルさんに説明した。

1949524日、札幌で長女麗子(ベルさん)出生。母、幸子。父の蘭は空欄。幸子さんは、出産時17歳だった。
19531213日、札幌で長男ジニヤ出生。母、幸子。父の蘭は空欄。ベルさんは「ジュニア」と記憶していたが、正しい名前はジニヤだった。
1954720日、ジニヤさんは、アメリカ人夫妻の養子となった。"実父に引き取られて渡米した"という、ベルさんの認識は誤りだった。
1955329日、幸子さんは、アメリカ人のルイス・XXX・XXXさんと結婚した。このときベルさんは5歳。
・ベルさんが小学3年生か4年生の頃、施設に面会に来た幸子さんが抱いていた赤ん坊は、ジニヤさんではない。ルイスさんとの間にできた子供かもしれない。だとすると、ベルさんにはもう一人きょうだいがいることになる。

 この戸籍謄本を取ったとき、やはり同じように、誰かが一度解説したことがあるのだろう、ベルさんはいくつか思い出すことがあったようだった。
 わたしの中を、猛烈な勢いで好奇心が湧き上がった。興味の的は、今までベルさんの口からは出てこなかった、幸子さんの結婚相手の名と、ジニヤさんの養父母の名だ。いずれもアメリカ人とわかっている。時期的にいって、軍関係の人だろう。インターネットを使った調査で、何かわかるかもしれない。
 一気に酔いが醒めた。もうベルさんのお母さんは見つからないものだと思っていたが、もしや、という気になった。

「調べてみようか」

 そう言うと、ベルさんは拝むように両手を合わせ、「お願い」と何度も頭を下げた。

 帰宅すると、すぐにパソコンを開いた。途中で仮眠を挟み、ほとんど飲まず食わずで調べ続けた。そして、思ってもみなかったことに、翌日の夕方6時過ぎ、わたしは幸子さんを見つけた。さらにその翌日金曜日には、ベルさんが顔を忘れてしまい、ひと目会いたいと焦がれた人の、白黒写真と対峙していた。

 あくる日の土曜日、調べたウェブサイトを一日かけてすべてプリントアウトしながら、わたしは悩んでいた。わかったことを、ベルさんにどう伝えるべきか。事実を知ったら、彼女が苦しむのではないかという懸念があった。しかしだからといって、わたしが勝手に忖度して決めていいことではない。
 考え抜いた末、何も隠さず、すべてを話すことに決めた。

 日曜日、何百回通ったかわからない新宿通りを、いつものように東に向かった。
 待ち合わせていた伊勢丹の一階宝石売り場に着くと、ベルさんは鮮やかなブルーのワンピース姿で、ジュエリーのショーケースを覗いていた。声をかけると、振り返った表情は期待に溢れていた。
 まだ雑魚寝が開く時間ではなかったので、ほど近い『どん底』に入った。ここも新宿三丁目の老舗だ。ドアをくぐると店員たちが次々「ベルさん」と声をかけてきて、彼女は長年この界隈で過ごしてきた人なのだと、あらためて思う。

 頼んだ白ワインが来るのを待つ間、この街に遊びに来たときのいつもの癖で、土地に染み込む女たちの匂いに思いを馳せた。
 それから、ミニスカートにピンヒールできめたベルさんが、巨漢のマリリンとケラケラ笑い合い、卑猥な言葉を投げかけてくる男どもに悪態を返しながら、二丁目に向かって跳ねるように歩いていく様を想像した。


GIベビー、ベルさんの物語〈6〉に続く。


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