亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2022.9.21

46安達茉莉子『臆病者の自転車生活』——「変化」がはじまった 夜のみなとみらいライド


文筆家・安達茉莉子(あだちまりこ)さんの『臆病者の自転車生活』が発売されました。ふとしたきっかけで自転車に乗ってみたことで、生活も、気持ちも大きく変わっていった女性の物語です。全3回にわたって、本書の一部を試し読み公開します。

 


全3回にわたって本書の一部内容を試し読み公開します。

第1回……はじめに
第3回……ひとりで走ること、一緒に走ること


 

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安達茉莉子『臆病者の自転車生活』

「変化」がはじまった 夜のみなとみらいライド


 気づけば、自転車そのものを大好きになってしまった。
 いろんなことが全く予想しない方向に転がっていき、古い皮が剥がれるように変わっていった。
 まず、髪をバッサリ切った。
 コンプレックスのごつい首。自分の体ではあるがあまり見られたくない。なるべく隠そうと、髪はいつも肩につくくらいの長さにしていた。だけど、自転車に乗っていると鬱陶しくてしょうがない。
 美容室で、馴染みの美容師さんに短くしたいと話した。カラーをしてもらいながら、最近自転車を買って夢中になっているという話をしたからだろうか。首にはかからないけれどサイドは長く、自転車で走ると髪が風に揺れて小気味よいような、ちょうどいいボブになった。我ながらよく似合っていた。頭をプルプルと振ってみる。一生この髪型で生きてきたようにしっくりきた。
 その数日後、恐らく生まれて初めて、二本のパンツを自分の意思で買った。服といえばスカートしか持っていなかった。それは、単にパンツスタイルの自分の見た目が好きではなかったからだ。もっさりした自分の姿を見るのが嫌で、頑なにずっとスカートばかり穿いていた。どうしてもパンツスタイルでないといけないとき、その後人に会うときはトイレで着替えるくらいだった。サイズの選択肢もグッと狭くなる。スカートはウエストが入ればよくて、通常サイズの服でも結構着れたりする。だけど、パンツはそうはいかない。できれば避けたい姿だった。
 ミニベロの自転車にしたのは、その私の築き上げてきた安全スタイルを守るためだった。サドルと車輪に距離があるミニベロの自転車なら、スカートでも巻き込まれにくいだろうという思惑。でも実際にある程度の距離を乗ってみると、スカートがサドルに絡んだりして、ヒヤッとすることがあった。咄嗟に降りなければならないときなんかは、事故につながりかねなかった。
 私はスカートスタイルを捨てることにした。
 いつか友人が言っていた、おしゃれの極意を思い出す。
 「簡単だよ。自分が本当に好きだって思う服を着て、堂々としているのが一番かっこいいんだよ」
 その言葉で吹っ切れた。自転車に乗って楽しい服を買おう。見慣れないかもしれないし、すぐには難しいかもしれないけれど、少しずつ──。
 入る服で、かつ買える価格帯の服がどこにあるかわからなかったので、とりあえずユニクロに行って、メンズのテーパードパンツを買った。今までフェミニンな服を着ていた反動か、なんとなく、ごつい服が着たかった。長時間走ると結構寒いので、薄いウィンドブレーカーも買った。自転車に合う服。それを選ぶのが楽しかった。
 変化はまだある。食べるものが変わり始めた。前は肉を食べなければならないという強迫観念があったけれど、今は野菜と肉、長時間動くエネルギーになるような炭水化物をちょっと、というのが定番になった。身軽になって自転車に乗れたらきっともっと楽しい。自然と、野菜やサラダ中心の食事に変わっていった。コーヒーもミルクを入れないようになっていった。さっぱりした、滋養のあるもの。その頃取り組んでいた食事の改善運動が、新たなチャプターを迎えたようだった。
 電動アシスト付きでも、ジムでエアロバイクを漕ぐくらいの運動量はある。自転車を勧めてくれた友人は、自転車に乗り始めると雪だるまが溶けるように痩せるっていうで、と言っていた。私は『アナと雪の女王』のオラフタイプの雪だるまなのかもしれないが、それでも体が変わり始めていた。

 なんの気なしに始めた自転車が、長年固まっていた安定のスタイルを気づけば内側から崩していった。似合わないと思っていた服装、できないと思っていたこと、コンプレックス―そんなもので固く閉ざされていた地盤の下から、ムクムクと木が生えてくる。その木は光に向かって伸びていく。その光は、わかりやすいことに自転車であり、それに乗って走っている、まだ見ぬ自分だった。

 変わりたいと思うようになった。だとしたら、変えていけばいいのだ。



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『臆病者の自転車生活』試し読み
▶︎はじめに
▶︎ひとりで走ること、一緒に走ること



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臆病者の自転車生活

■安達茉莉子/著
■税込 1,760円
■四六判・並製、192ページ
■ISBN:978-4-7505-1758-2

 

 


【目次】
■はじめに
■第一話……電動自転車との出会い
■第二話……街場の自転車レッスン
■第三話……いつだって行ける場所にはいつまでも行かない
■第四話……「変化」がはじまった──夜のみなとみらいライド
■第五話……いざ鎌倉
■第六話……ロードバイク記念日
■第七話……本当にロードバイクがやってきた
■第八話……ツール・ド・真鶴(前編)──大冒険への扉
■第九話……ツール・ド・真鶴(後編)──往復百五十キロの旅、時々雨
■第十話……ライド・オン・北海道──苫小牧・支笏湖の旅
■おわりに 未知なる道へ