亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2021.11.9

30チョン・スユン『言の葉の森』(吉川凪訳)——君の名は

 

 

何かを偶然共有するというよりも、
手を繫ぐようにして、私たちは同じものを持つ。
言葉が違っても、国が違っても。
――最果タヒ


太宰治や宮沢賢治、茨木のり子、最果タヒ、崔実などの作品を手がける韓国の人気翻訳家チョン・スユンが「日本の恋の歌」をめぐって綴る情感ゆたかなエッセイ『言の葉の森——日本の恋の歌』吉川凪訳)が11月17日(水)に発売になります。

《発売に先駆け、一部内容を試し読み公開!》

序文 二つの言語を行き来する旅
本の輪

 

 

君の名は


그대 그리다 까무룩 잠든 탓에 나타났을까
꿈인 줄 알았다면 깨지 않았을 것을

思ひつつ 寝(ぬ)ればや人の 見えつらむ
夢と知りせば 覚めざらましを

あの人のことを思いながら寝たから夢に出てきたのだろうか。
夢だとわかっていたら覚めないままでいたかったのに。

小野小町『古今和歌集』



 そんな夢を見ることがある。胸が痛くなるほど好きで、願っていたことが夢に出てきて、夢だと知りながらぎゅっと目をつぶって夢にしがみつく。
 昔の人もそんな夢を見た。いっそ夢の中に生きたいと言うぐらいだから、夢で会った人が好きで好きでたまらなかったのだろう。単純で美しいけれど、歌人の気持ちを思えば胸が痛む。夢の歌として有名な、平安前期の歌人小野小町の作品だ。
『君の名は。』というアニメ映画はこの和歌に着想を得ているそうだ。新海誠監督はある日この和歌を見て、夢から夢につながる愛の話を思い
ついた。会えない人を、時間の川を越えて愛してしまったら? 古の愛の歌がまったく新しい形で現代にお目見えしたというのは、楽しくも神秘的だ。


설핏 든 잠에 사랑하는 사람을 만난 이후로 꿈이라는 것에게 의지하게 되었네

うたた寝に 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき

(うたた寝の夢に恋しい人を見てからは、夢というものを頼りにするようになってしまった) 


 これも小野小町の和歌だ。『君の名は。』が連想される。〈夢〉は、寝ながら見るという意味の〈寝目(いめ)〉から来ているという。当時の人々は夢を見たら魂が身体から抜け出して会いたい人のところに行くと考えていた。
 小野小町が夢の歌を詠んだのも、女官に抜擢され秋田から京都に来て暮らすようになったからではないだろうか(小野小町の出生地や経歴には異説が多く、確かではない)。夢でなりとも身体を抜けて故郷の友人に会いたかったのかもしれない。想像力が豊かなだけに、会いたい人に会いにゆく夢路(ゆめじ)をいっそう切実に欲したのだろう。〈夢路〉という言葉は小野小町が造ったという説があるほどだ。


꿈길에서는 종종걸음을 치며 만났지마는 현실에서 스치듯 만난 것에 비할까

夢路には 足もやすめず 通(かよ)へども うつつに一目(ひとめ)見しごとはあらず

(夢の中でせっせとあなたに会いに通ったけれど、現実にあなたを一目見たときほど素晴らしくはありません)


 いくら夜毎(よごと)夢路に通っても現実に会うほどうれしくはありませんという歌だ。今でもこんなにどきっとさせられるのだから、当時は和歌を見ただけで彼女に恋した人がたくさんいただろう。歌を口ずさんで相手の魂に近づく。小野小町は優れた歌を詠み多くの男性から求愛
されたけれど、晩年は一人で故郷に歩いて帰る途中に客死したと伝えられる。
 私はなぜか若い頃の彼女より、路上の老婆となった彼女に惹かれる。小野小町の老年を描いた浮世絵に漂う、何とも言えない雰囲気が好きだ。空には細い月が寂しげに浮かび、白髪をゆるく束ねた老婆が歩き疲れて木の切り株に腰かけている。破れた笠を肩にかけ、杖をついており、皺のできた目尻や首や手が過ぎた歳月を感じさせる。遠くを眺めているような老婆の視線の先に何があるのだろう。若い頃に見た、おぼろげな夢路だろうか。月岡芳年(よしとし)の「卒塔婆の月」という作品だ。
 最近、私の夢路は街灯が消えてしまったように真っ暗でよく道に迷う。夢で会いたい人たちはなかなか訪れてくれない。まだ現世に生きるだけの価値があるからかもしれないけれど。

 

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〈著者〉チョン・スユン(鄭修阭)
1979 年ソウルに生まれる。作家、翻訳家。大学卒業後いくつかの職を経た後、早稲田大学大学院文学研究科で修士号を取得した。訳書に太宰治全集、茨木のり子詩集、宮沢賢治『春と修羅』、大江健三郎『読む人間』、井上ひさし『父と暮せば』、若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』、崔実『ジニのパズル』、最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、凪良ゆう『流浪の月』など、著書に長篇童話『蚊の少女』がある。


〈訳者〉吉川 凪(よしかわ・なぎ)
大阪市生まれ。新聞社勤務を経て韓国に留学し、仁荷大学国文科大学院で韓国近代文学を専攻。文学博士。キム・ヨンハ『殺人者の記憶法』(クオン)の翻訳で、第4 回日本翻訳大賞を受賞。著書に『京城のダダ、東京のダダ―高漢容と仲間たち』(平凡社)、訳書にチョン・セラン『アンダー、サンダー、テンダー』、崔仁勲『広場』、朴景利『土地』(以上クオン)、チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』(集英社)など多数ある。

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《『言の葉の森』試し読み》
序文 二つの言語を行き来する旅
本の輪