亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2021.9.5

14ハリーは枝師【村井理子『ハリー、大きな幸せ』】




亜紀書房のウェブマガジン〈あき地〉にて大好評連載中の
村井理子「犬(きみ)がいるから」書籍化・第三弾!

『ハリー、大きな幸せ』が発売になりました!

税込 1540円

『ハリー、大きな幸せ』発売記念〈試し読み〉
はじめに 
きゅうり砲

 

ハリーは枝師

 ハリーが熱心に枝を集めはじめたのは、まだ一歳にもならない時期だった。ぬいぐるみのようにかわいかった子犬が、あっという間に私の想像をはるかに超えるいたずらを繰り返す、やんちゃな若犬へと成長しつつあったのがそのころだ。そのいたずらたるや、家族全員が困り果て、本当にこの子を飼い続けることができるのかと悩むほどだった。当時小学生だった子どもたちは、尖った乳歯で何度も嚙まれ、しょっちゅう泣かされていた。
 家中の家具に歯形がつき、玄関に並んだ家族のスニーカーは、次々と血祭りに上げられた。私のデスク周辺では、書籍が徐々に消え、歯形をつけられ、家中に散乱した。積み上げた原稿は次々に崩され、足跡をつけられ、破られた。集中して作業をしていると突然、足首に尖った乳歯が当たる。いたッ! と声をあげると、ハリーはうれしそうにダッシュ
して逃げて行く。追いかけると、ゲラゲラ笑うかのように喜んで、尻尾を勢いよく振った。まったく、散々だった。
 ハリーの淒絶ないたずらを止める方法がひとつだけあった。それは、彼の体力を奪うことだった。運動を十分させたあとのハリーは、別犬のように穏やかな聞き分けのよい犬になった。その姿はまるで、大きなぬいぐるみのようだった。大人しいハリーは、惚れ惚れするほどのイケワンで、そして賢かった。ビロードのような艶のある毛は滑らかで、ガラ
ス玉のような目は常に輝いていた。大きな顔は凜々 しくて、同時に愛嬌があった。「お手」は一日で覚えた。私の手から、優しくおやつを食べる子だった。
 そもそもは穏やかな性格に違いないと考えた私は、連日、ヘトヘトになりながらもハリーと散歩に出た。とにかく毎朝、一時間ほど歩かせて、彼の体力を奪ってやればいいと考えたのだ。田んぼのあぜ道を数キロ歩く、人や犬が少ないコースを設定したものの(ハリーは他の犬に対してもやんちゃだった)、ハリーはとんでもない力で私を琵琶湖方向に引っぱって行った。それも毎朝だ。計画通りにいかないことにイラ立ちながらも、私はハリーについていくことにした。
 湖畔に到着するとハリーは、必ず枝を拾い集めてきた。松の木の枯れ枝を探しては、うれしそうに持ってきて、私の目の前にポトリと落として尻尾を振る。なんとなく投げたら、ものすごい勢いで追いかけて、拾って、戻って来た。教えてもいないのに! そして再び、私の目の前に枝をポトリと落とし、尻尾を振る。丸い目を輝かせて。え? 投げろってこと? と聞くと、その場でクルクルと回り出すハリー。イエスだなと感じた私は、枝を遠くの湖面に投げた。ハリーは躊躇することな
く水に飛び込むと、ぐんぐん泳ぎ、枝をくわえてくるりと旋回、私のところまでまっすぐ戻って来た。この日は百回ぐらい枝を投げた。天才じゃね? と思った。
 最初は細かった枝が、ハリーの成長とともにどんどん長く、太くなった。明らかに、重い枝の運搬にやりがいを感じているハリーは、長ければ長いほど、重ければ重いほど必死になった。そして、決して諦めずに、その長くて重い枝を岸まで引っぱり、そして浜へと運びあげ、私の足元に落とすようになった。枝を追いかけること、そして回収するという一連の動作に喜びを見いだしたハリーは、どれだけ投げても必ず回収した。すべてを大きな口にくわえ、縦横無尽に琵琶湖の浜を駆け回った。そして、お気に入りの枝は、家まで丁寧に持ち帰るようになった。だから、わが家の庭にはハリーが持ち帰る枝が小山のようになっている。時折、薪ストーブを所有している近所の方が引き取ってくれる。だから、ハリーの枝はそのお宅のストーブで燃やされ、暖かさをお届けしているというわけだ。やっぱり天才過ぎる。ハリーはとんでもない天使
ではないだろうか。

 そろそろ四歳になるというハリーは、今でも現役の枝師で、連日、枝を追いかけ、泳いでいる。性格は大変穏やかで、まさにジェントル・ジャイアントだ(四十五キロ)。それでも時折、私をからかうために、風呂場のマットやトイレマットを盗んできては、私の横で振り回したりする。私の服をどこからか引っぱってきて穴を開けたりもする。かわいい
から全面的に許している。
 大型犬の飼育は苦労の連続であるにもかかわらず、その「苦労」という文字が、すべて脳内で「愛」に変換されるほど、彼らとの暮らしは喜びに満ちているということを、わが家のイケワン、琵琶湖の至宝、走る恵方巻き、近江の黒􄻾、チャーミングなサンドバッグの異名を持つ、わが家の愛犬ハリーを例にあげて説明させていただきました。


〈ハリーは枝師・完〉

《『ハリー、大きな幸せ』試し読み》
はじめに
きゅうり砲


村井理子『ハリー大きな幸せ』好評発売中!

税込 1540円

【もくじ】

はじめに
1……ぼくはここにいる
2……足元に眠るお宝
3……留守のあいだに
4……きゅうり砲
5……大人の階段
6……今日は三歳の誕生日
7……かけがえのない時間
8……香りが悩ましい
9……愛の挨拶
10……不安な日々に
11……動物だってコロナ疲れ
12……近江の守り神
13……安心してはいられない
14……薬の時間
15……ダイエットの秘訣
16……ギルティ・ドッグ
17……きみがいてくれるだけで
18……今夜はどこで?
19……大好きな秋
20……ハリーは枝師
21……引っぱり力
22……ベッド戦争
23……ハリーくんのバースデープレゼント
24……ヘルパーのハリーさん
25……幸福という仕事
26……毛が辛い
27……愛犬と愛車と
おわりに