亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2021.9.4

13村井理子『ハリー、大きな幸せ』——きゅうり砲




亜紀書房のウェブマガジン〈あき地〉にて大好評連載中の
村井理子「犬(きみ)がいるから」書籍化・第三弾!

『ハリー、大きな幸せ』が発売になりました!

税込 1540円

『ハリー、大きな幸せ』発売記念〈試し読み〉
はじめに  
ハリーは枝師

 

きゅうり砲

 食欲の秋とはよく聞く言葉だが、ハリーにとって今年の秋は「爆食の秋」と言ってもいいのではないだろうか。それほど、彼の食欲は爆発している。来たる十二月でようやく三歳になるハリーは、きっと今が食べ盛りという年齢だろう。とはいえ、想定外によく食べる。見ていて気持ちがいいぐらいだ。しかし、のんきに見守っているわけにはいかない。
 ラブラドール・レトリバーの犬生は食欲との戦いと以前から聞いてはいたが、ここまでとは思っていなかった。家族の誰かがなにかを食べる様子があれば瞬時に駆けつける姿は、警備保障会社の警備員さながらである。その卓越した聴覚に感心する毎日だ。パンの耳を嚙んだ瞬間に出るサクッ、階下で息子が静かに開けたアイスクリームの蓋のパカッ、スーパーの袋がこすれて出すシャカッといった、すべてのわずかな生活音は、ハリーにとってはスターターピストルの発する乾いた破裂音と同義らしい。真っ黒い巨体が魚雷のようにすっ飛んで来る。私たちは慣れたものだが、初めて見る人にとっては恐怖以外の何物でもないだろう。
 ハリーがなんでもかんでも食べるかというと、まったくそうではない。彼は、実は味にうるさい男(オス)だ。一番好きなのはスイーツ。クリーム系には目がない。次に好きなのがイモである。さつまいも、ジャガイモ、里芋、すべて好きだ。いわゆる、こってりとしたものは何でも好き。男子高校生か。だからといって私がそれらをすべて与えているかといえば、それは絶対にノーである。イモ類に関してはフードをかさ増しする意味で、蒸したり茹でたりして与えることは多いが、生クリームやアイスクリームについては、ほとんどがハリーに盗まれるパターンだと断言していい。気をつけてはいるが、なにせ相手は知能犯である。ありとあらゆる手を使って盗みをしかけてくる。アイスを食べている息子の背後から忍び寄り、カップごと奪うなんて序の口だ。キッチンから離れた場所にいても、スプーンを引き出しから出す音でハリーにはわかる。それがバニラアイスだと。アイスのフタを舐めるためだけに、ゴミ箱をひっくり返す。お菓子の袋もとりあえず舐めたいので、どこからともなく運んでくる。私に𠮟られることはわかっているので、私に真正面から挑むことはないけれど、欲しいものがあると、必ず真横にピタリとついて、滝のようによだれを垂らしている。


 満腹のときは別犬のように大人しいので、なんとかその状態をキープしたいと、思いつく限りの手段を講じている。例えば、茹で野菜である。カロリーが低めの野菜をたっぷり茹でておくことでハリーの腹は満たされる。しかし、自分の食事の準備でさえ面倒なのに、ハリーのためだけに大量の野菜を茹でるのは、正直面倒だなと思う日が多い。そんな日はきゅうりを与えることにしていたのだが、最近、ハリーはこのきゅうり作戦に腹が立つようで、与えたきゅうりを私に投げ返すようになったのだ。きゅうりはそこまで好きではないのだろう。
 今まで何頭も犬を飼ったが、犬というものは、ある程度妥協してくれる動物で、あまり好きではないものが出てきたとしても、一応は食べてくれるのだが、ハリーはそうもいかない。まず、ぷいっと横を向いて、無視する(しかし、両目はしっかりとこちらの様子をうかがっている)。根比べだったらこっちも負けないので、私もハリーを無視する。お互いに無視をして数分経ったあたりで、しびれを切らしたハリーがきゅうりをくわえて、あろうことか、ぶん投げはじめるのだ。私が仕事をしているデスクの真横で、ハリーは何度も何度もきゅうりを空中にぶん投げる。私が反応するまで、根気よくきゅうりを空中に放つ。相手が子どもだったら、食べ物を粗末にするんじゃないとでも言えるのだが、相手は残念ながら犬。言って聞かせることができたら、どれだけ楽か。いや、相手が人間であってもその状況はまったく同じなのかもしれない。言葉を尽くしたって、わかってもらえないときはわかってもらえない。ハリーとの駆け引きは人生の縮図のようなものなのか……?


 

〈きゅうり砲・完〉

《『ハリー、大きな幸せ』試し読み》
はじめに
ハリーは枝師

 


村井理子『ハリー大きな幸せ』好評発売中!

税込 1540円

【もくじ】

はじめに
1……ぼくはここにいる
2……足元に眠るお宝
3……留守のあいだに
4……きゅうり砲
5……大人の階段
6……今日は三歳の誕生日
7……かけがえのない時間
8……香りが悩ましい
9……愛の挨拶
10……不安な日々に
11……動物だってコロナ疲れ
12……近江の守り神
13……安心してはいられない
14……薬の時間
15……ダイエットの秘訣
16……ギルティ・ドッグ
17……きみがいてくれるだけで
18……今夜はどこで?
19……大好きな秋
20……ハリーは枝師
21……引っぱり力
22……ベッド戦争
23……ハリーくんのバースデープレゼント
24……ヘルパーのハリーさん
25……幸福という仕事
26……毛が辛い
27……愛犬と愛車と
おわりに


次回の試し読み「ハリーは枝師」は9月15日(水)公開予定