亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2023.6.9

50GIベビー、ベルさんの物語〈3〉

 

 

202312月頃の出版をめざして執筆・製作中の岡部えつさんによるノンフィクション『GIベビー、ベルさんの物語』(仮)の前半を公開します。

また、ベルさんをアメリカに連れて行き、肉親に対面してもらうため、クラウドファンディングを実施中です。ぜひプロジェクトの詳細をご覧ください。

https://camp-fire.jp/projects/view/677532?utm_campaign=cp_share_c_msg_projects_show

 

 


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『GIベビー、ベルさんの物語』(仮)〈3〉

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偶然

 「パパ」がベルさんのお母さん探しをしたのは、二人が出会った1987年頃から、パパが亡くなった1989年までの間だ。
 まだインターネットもなかった頃、彼がどのような方法でそこまで調べたのか、聞けないのが残念でならない。おそらく貴重な情報を手に入れていたはずだが、当時読み書きができなかったベルさんは、メモひとつ残していないのだ。
 パパの名刺を見せてもらうと、当時勢いのあった鉄道会社の企業グループのひとつで、営業課長の職にあった。ベルさんの部屋の箪笥の上に置かれた遺影は、小柄で線が細く、いかにも実直そうな雰囲気だ。
 写真立ての横には、聖書と十字架が置いてある。すぐ下の引き出しには、白いベールも仕舞ってある。彼女は今でもれっきとしたキリスト教徒で、心が乱れると、近所の教会に行ってお祈りをしているという。

 すっかり黄ばんだパパの名刺にある新宿区落合の住所を、インターネットでマップ検索してみた。それしか、彼の情報がなかったからだ。彼が手にしていたものの欠片だけでも感じたい思いで、パソコンに向かって住所を打ち込んだ。
 会社は名前を少し変えて、まだ同じ場所にあった。しかしそれより先に目に留まったのが、そばにある『聖母病院』の文字だった。物心ついたときにベルさんがいた横浜の施設は『聖母愛児園』だ。まさかと思って調べてみると、やはりどちらも、元は同じカトリック系の修道会が創設した施設だった。さらには、ベルさんが八歳から18歳まで過ごした北海道北広島市の『天使の園』も、同じ組織が作った施設だった。
 日本各地に弱者救済の施設を作ってきた組織ではあるが、東京にあるのはこの病院だけだ。それが、当時ベルさんが唯一心を許した人が、毎日通っていた職場の近くにあった。ささやかな偶然かもしれないが、ものを調べていてこうしたことがあると、不思議な繋がりを感じて胸がざわつく。

 現在『社会福祉法人聖母会』となったこの組織の発端は、明治311898)年、熊本に作られたハンセン病診療所だった。
 ここは後に「慈恵病院」となる。2007年、日本で初めて赤ちゃんポストを設置したことで、話題になった病院だ。このときは、激しい賛否の論争が起こった。
 設置の背景には、望まぬ妊娠や貧困下での妊娠により、女性が病院にも行かず、誰にも相談できずに一人で出産し、子供を遺棄、または殺害してしまう事件が相次いだことがあった。母親に非難が集まる一方で、彼女たちをそこまで追い詰めた事情や、当時の社会状況にも関心が寄せられた。
 これらの事件は、《望まぬ妊娠》の可能性を抱えた身体を持つ同じ女性として、わたしにも無関心ではいられないものだった。赤ちゃんポストに対する「捨て子が助長されてしまう」といった非難には、どんな想像力を持ったらそんな意見が出てくるのだろうと、憤慨もした。
 この世のどこに、自分の意志で捨てたい子供を身ごもる女性がいるだろうか。



ベルさんの話 《夢想》

 お母さんはね、きっと大変だったと思うの。とても苦労したんだと思うの。そういう時代でしょ?
 これはわたしの想像だけど、きっとお父さんとお母さんは、大恋愛をしたんだと思う。結婚するつもりだったと思う。だけど、あの頃は外人の子供なんて、差別されるでしょ。だから、お父さんもお母さんも、家族に猛反対されたんじゃないかしら。それで、別れさせられて、お母さん一人じゃわたしを育てられないから、施設に預けたんじゃないかって思うの。とっても苦しんで、つらかったんじゃないかな。
 想像よ、ただの想像。


ひらがなドリル

 ベルさんはGIベビーに違いないと確信してから、占領下の日本や混血孤児についての文献を当たるにつれて、わたしが頭に思い描くようになった彼女の出生の事情は、彼女が想像しているような、ロマンチックなものではなくなっていた。
 連合国軍占領下の日本を知らずとも、アメリカ統治下の沖縄で何が起きていたかは、ニュースや書籍によって知っている。返還後でさえ、女性として聞くに堪えない事件はいくつもあった。もちろん、恋愛もあったに違いない。しかし、メディアに取り上げられ、わたしたちの耳に入るのは、いつも悲しい事件ばかりだった。

 会うたびに少しずつ、水を含んだスポンジを指でやんわり押すようにして、滲み出た記憶を語ったあと、ベルさんはいつも「お母さんに会いたい」と言った。拝むような言い方だった。それでも「じゃあ、わたしが探してみようか」とならなかったのは、彼女の甘やかな想像を打ち砕いてしまうことを恐れる気持ちが、わたしの心の隅にあったからかもしれない。

 彼女の母親探しをする気にならなかったのには、もう一つ理由がある。わたしたちが親しくなったときには、すでに3回も母親探しは行われ、いずれも成功していなかったことだ。
 パパに死なれてしまったあとも、ベルさんは諦めず、母親探しに挑戦していた。それでもだめだった。だからもう、素人ができることはやり尽くしたのだろうと考えていた。

 時間を、2回目の母親探しまで戻そう。

 来年は50歳になるという年末のある日、ベルさんは、客のいない早めの時間に雑魚寝に行き、水島さんに「年賀状の書き方を教えて欲しい」と頼んだ。

「変なことを聞くなあと思いながら、紙に《新年あけましておめでとうございます》って書いてあげたの。そしたらベル、それを別の紙に書き写し始めたんだよね。一生懸命書いてるから覗いてみたら、何だか変なの。字が下手なのもあるんだけど、書き順が不自然で、横棒も右から左に引いたり、普通じゃないの。それで、はっとして。ベル、もしかして字が書けないの? って聞いたら、そうだって」

 すでに20年以上のつき合いになっていた水島さんが、はじめてベルさんの秘密を知った瞬間だった。

「全然気づかなかった。僕の周りの誰も、気づいてなかった。よくカラオケなんかも一緒に行ったけど、画面を見てすらすら歌ってたし。あれ、歌詞を全部覚えてるのを歌ってたんだね」

 ベルさんは、その容姿から外国人に間違われることも多い。それが幸いして、読み書きができないことを誤魔化せてきたのかもしれない。
 一方で本人は、相手に気づかせまいとするあまり、人一倍強い猜疑心を育てていた。そのせいで、しなくていい喧嘩をしたり、不利益を被ってもきた。そんな中で、長いつき合いになっていた水島さんやその仲間たちは、彼女にとって特別な存在になりつつあったのだろう。だから、秘密を打ち明けたのだ。
 水島さんはすぐに、近くにある紀伊國屋書店本店で、子供用のドリルを買い、ベルさんに贈った。

「あいうえおって、上からなぞるやつがあるでしょ、それ。まずはひらがなを覚えなさいってね。最初は頑張ってやってたんだけど、そのうち挫折してやめちゃってさ。ドリルも捨てたって言うんで、もう僕は怒って、大喧嘩。テレビばっかり見てるなら、テレビなんか捨てなさい! って言ったら、ひどいって泣いてね」

 ベルさんは、共通の友達にも泣きついたという。

「友達から、ベルはこの歳までああして生きてきたんだから、今さらそんな辛いことをさせなくてもいいんじゃないか、って言われたけど、僕は譲らなかった。読み書きだけは、絶対にできるようになんなきゃだめって。しばらくしたら、ベル、自分でドリルを買い直して、また字の練習を始めたの」

 ドリルと格闘していたある日、ベルさんは、テレビで夜間中学を取り上げた番組を観た。これだ、行きたい、と思った。そして翌日には、区役所に相談に行った。不安だった授業料は無料だと聞いて、すぐに手続きを頼んだ。新学期は翌年の四月だったが、準備期間として九月の二学期から入学を許された。
 こうしてベルさんは、晴れて世田谷区立新星中学校の門をくぐり、中学生となった。昼間は新宿のビジネスホテルで働きながら、夕方には学校へ通う生活が始まった。


GIベビー、ベルさんの物語〈4〉に続く。


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