亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2021.9.12

17チョ・ヘジン『かけがえのない心』(オ・ヨンア訳)——前編



《韓国文学のシリーズ〈となりの国のものがたり〉第9弾》

——お母さん、聞こえますか? 私はこうして生きています。

〈歴史的暴力〉に傷を負った人々に寄り添う作品を発表し続け、高い評価と幅広い読者の支持を得ているチョ・ヘジンの『かけがえのない心』(オ・ヨンア訳)(9月17日(金)発売)を試し読み公開します。

 

『かけがえのない心』試し読み
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かけがえのない心——前編

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 私は暗黒から来た。
 時間の流れない、永遠という見えない枠に閉じ込められた暗黒が私の根源(ルーツ)ということになる。方向感覚もなく、どこへ行くあてもないまま、私は一人でそこをうろついていたのだろう。そのときの私の姿は丸くて硬い種のようだっただろうか。それとも、細長くて白っぽい、煙のようだっただろうか。もしかしたら、小さな反動にももろく砕け散るはかない物質だったかもしれず、そもそもはじめから姿形などない、ひと握りのエネルギーだったかもしれない。
 暗黒で作られ、暗黒を突き破って生まれてきたから、私には親がなく、私が形作られたときの胎夢だとか、この世に生まれるときの産声を覚えていて後で話して聞かせてくれる祖父母もなく、這って、座って、立ち上がって、言葉を発した瞬間を写真に収めてくれる親戚や隣近所の大人もいない。親の戸籍謄本、出生届けや生まれた病院のカルテも私は持っていない。代わりに養子縁組に出すために急いで作った、たった一人の戸籍と代理人の養子縁組同意書、国際予防接種の証明書と旅行許可書、養父母の通訳と便宜を図るコーディネーター費用の請求書、それから養子縁組斡旋手数料―身体に障碍がある場合は割引されるらしいが、健康だった私にかかった手数料は定価だったはずだ―を処理した領収証のようなものが、韓国の養子縁組機関や政府傘下の機関に残っているかもしれない。
 へその緒はあっただろうか。ときどきそんな疑問がよぎると、反射的に両手をお腹に乗せてじっとおへその辺りを撫でてみたりすることもある。でも、私のへそは生みの親の痕跡にすぎず、その手の感触ひとつ思い出すことはできない。無力な証拠、特色のない記号、閉ざされた通路……。私は彼女の姿や印象、においや肌ざわり、話し方や声のトーン、笑い、泣くときの表情、寝るときの癖やジンクスのようなものを知らないままで、これからもそうした類いの情報を手に入れることはできないだろう。
 私にとって彼女は、もう一つの暗黒だ。


* * *


 さる六月、私は久しぶりに彼女のことを考えた。
 その日私は、パリ市内にある小さな産婦人科病院のベッドの上で超音波機器の画面に浮かび上がるささやかな動きを、目を凝らして穴が開くほど見つめていた。画面には、頭と胴体、腕と脚と思われるかたまりが一つに緊密につながってくねくね動いているところだった。ドクター・ジュベだと名乗った白髪の医師は、祝いの言葉に続けて新たな生命が宿って九週目に入ったと教えてくれた。
 医師は言った。
「ご存じですか? 受精した卵子はだいたい二百八十日間、数十億年にもなる生命の進化の歴史を歩んでいきます。単細胞の受精卵が分裂を繰り返しながら両生類と爬虫類を経て哺乳類になって、哺乳類の中でも生物学的にもっとも複雑な人間に進化するんです。いま九週目ですから、あと三週間ほどすると体の器官や性器もできてきます。言うなれば、今は土をこねている時期ということです。気をつけないといけません」
 彼女のことが思い浮かんだのはその瞬間だった。覚えていることなどないくせにまた思い出し、その思いは、そのまま会いたいというまっすぐな願いへと続いた。そのざらついた手触りをしたまっすぐな願いは、思いのほか大きくて丸く繊細だった。今までは、こんなふうに強く願うこともないまま、彼女のことを知りたくて探そうとしていたということのほうがおかしく思えるくらいだった。
 病院を出ると、家には向かわず近くの散歩道を歩いた。歩きながら、二つの選択肢を仮想の天秤にかけて正確に判断しようとした。頭上には、木の葉をくぐり抜けてきた日差しが光で作った網のように放射状に降り注いでいた。私は、しばし歩みを止めて顔をのけぞらせたまま揺れる木の葉を見上げていた。背の高い街路樹が並んでいたが、生命を孕んだ私を守るために、木の葉一つひとつが緊密に編まれ淡いグリーンの影を垂らしているようだった。木は空に向かって伸びていて、空の果ては宇宙に届いているはずだった。
 宇宙(ウジュ)……。
 宇‐ woo ‐宙‐ joo、もう一度韓国語でひとりごちた。その瞬間、それまでの迷いはみな消え失せ、ただ「ウジュ」という名前だけが心に残った。フランス人も発音しやすく、あらゆる存在を抱ける宇宙ならば、無形の暗黒からは一番遠いところにある。悩む必要もなかった。いや、悩むのはもうやめた。作られてからそれほど経っていない、か弱い心臓で血を巡らせ、絶えず細胞数を増やしながら奇跡的な速度で進化している私の中の小さな生命体は、自然にウジュと名づけられた。この瞬間を覚えていなければ、と私は思った。風の向き、木の葉の色、一瞬にして絡み合う雲の模様まで、そしてウジュが言葉を話すようになったら、この瞬間について長い話を聞かせてあげよう。これから私はウジュのあらゆる瞬間を記憶しなければならないだろう。私は、ウジュと世界をつなぐ媒体であり、その存在をこの世の人たちに知らせる伝令であり、同時にウジュが成長する過程を証言すべき証人なのだから。私はその役割を絶対に諦めないし、ウジュには一瞬たりとも暗黒なぞ想像させないつもりだった。その日散歩道の木の下で、ただそれだけが私の人生で確実なものとなった。

〈前編・完〉

《『かけがえのない心』試し読み》
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現代韓国の歴史の中でなきものとされてきた人たちに、
ひと筋の光を差し込む秀作長編小説


チョ・ヘジン『かけがえのない心』(オ・ヨンア訳)
(税込 1760円、9月17日(金)発売)


【もくじ】

■かけがえのない心
■あとがき
■日本の読者のみなさまへ
■訳者あとがき

次回「かけがえのない心——中編」は9月13日(月)公開予定です。