亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2021.11.10

31チョン・スユン『言の葉の森』(吉川凪訳)——本の輪

 

 

何かを偶然共有するというよりも、
手を繫ぐようにして、私たちは同じものを持つ。
言葉が違っても、国が違っても。
――最果タヒ


太宰治や宮沢賢治、茨木のり子、最果タヒ、崔実などの作品を手がける韓国の人気翻訳家チョン・スユンが「日本の恋の歌」をめぐって綴る情感ゆたかなエッセイ『言の葉の森——日本の恋の歌』吉川凪訳)が11月17日(水)に発売になります。

《発売に先駆け、一部内容を試し読み公開!》

序文 二つの言語を行き来する旅
君の名は



本の輪


세월 흐르면 다시금 이때가 그리워질까
괴로웠던 그 시절 지금은 그리우니

長(なが)らへば またこのごろや しのばれん
憂(う)しと見し世ぞ 今は恋しき

生きていれば、いつかは今のことも懐かしい思い出になるの
だろうか。今、つらかった昔のことを懐かしんでいるように。

藤原清輔『新古今和歌集』


 

 どうすれば文芸翻訳家になれるのかと質問されることがある。会社に入る時のように面接を受けるのでもなく、試験やコンクールがあるわけでもなく、求人広告も出ないからだ。「長らへば……」という和歌が出たついでに、話しておこう。
 子供の頃、私は小説家になりたかった。家にあった〈世界文学全集〉全六十巻(東西文化社)を読んだのがきっかけだ。父の遺品だ。もし退屈で死にそうだった十歳頃の私が本棚二段を埋めたこの全集を何度も読み返していなかったら、これほど小説に熱を上げはしなかっただろう。その記憶は数十年過ぎた今も私の内部で原形を保っている。文学全集を買った時、父は自分の死後、それが幼い娘にどんな意味を持つのかはまったく予想していなかっただろうが、その頃の読書は私という人間の土台となった。
 大学を卒業し、生活のためにいろいろな職を転々としているうちに本から遠ざかった。そこそこ面白いだろうと思って始めたポータルサイト記者、放送作家、企業の広報などの仕事は、ちっとも面白くなかった。職場にいる時も、近くの図書館に駆けつけて本に埋もれたいと思っていた。泣きたいほど。それで、仕事帰りにカフェに寄って小説を書こうとしてみたけれど、何かが足りない。もっと徹底的に没頭できるものが必要だ。それに私のすべての時間と努力を注ぎたい。その時、そう思った。
 二十九歳になった年に、私はそれまで貯めたお金で日本に留学した。別の国、別の言語であればどこでもよかったのだが、日本が出版大国であるという点に、何となく惹かれた。ほんとうに何の当てもなく、本格的に文学を学び始めた。生活費は韓国語の家庭教師で稼いだ。
 多い時はひと月に十四件も教えた。オデンという名の猫を飼っている女性、相撲の幟(のぼり)を作っている母娘、韓国人と日本人の夫婦の小学生の子供たち、航空会社のキャビンアテンダント、韓国人の恋人と結婚する予定の女性、小さなアパートで娘を育てているシングルマザーなど、いろいろな人に韓国語を教えながら親しく話すことで私の日本語も豊かになった。
 そして、ここで運命の輪が私を転がしてくれた。修士論文を書いている時、一緒に勉強していたヘスという後輩から人を紹介されたのだ。当時、図書出版Bで企画を担当していた評論家、曺泳日(チョヨンイル)先生だ。私としては池袋の居酒屋で会った曺先生が、生まれて初めて見る〈出版関係者〉だった。チェウォンというもう一人の後輩も一緒に、三人で緊張しながら会いに行った。ひょっとしたら、図書館にへばりついていた日々が日の目を見るのではないか。
 曺泳日先生は、太宰治全集を翻訳してくれと言った。出版社としても冒険だったはずだ。任せてください。そんなことを言いながらも、それが実際に何を意味するのかは後に知った。私たちは三年間、すべてを太宰治全集の翻訳に捧げた。その時はほんとうに大変だったけれど、今はこんなに懐かしいのだから、歳月が流れればまた今のこの時間も懐かしくなるのかもしれない。この和歌とまったく同じ気持ちだ。
 そうして太宰治全集が一巻ずつ刊行された。この全集が出れば世間が大騒ぎするだろうとい——自分たちでは、とても立派な翻訳だと思っていたから——予想ははずれ、ありきたりの反応しかなかった。そう、そういうこともあるさ。でも時間が経てばみんなわかってくれる。私たちが死んでも、これ以上の太宰治全集は出ないよ。互いに大げさなことを言って慰め合いながら翻訳を終えた。私たちの輝かしい業績を見て翻訳を依頼してくる出版社はなかった。そんな時、私は二人目の〈出版関係者〉に出会った。
 本屋で偶然見つけて買った『マイ・コリアン・デリ』という本がきっかけだった。ニュージャージーに暮らすアメリカ人ジャーナリストが韓国人である妻の母と一緒にスーパーを経営するという、実話を基にした話だ。私はその本がとても面白かったので、出版社であるチョンウン文庫の広報のツイッターに、この本をとても楽しく拝見しましたと投稿したところ、驚いたことにその出版社からメッセージが来た。「太宰治の『晩年』を訳した方ですよね? うちからも翻訳書を出しませか?」。そうして岡崎武志『蔵書の苦しみ』を翻訳することになった。



「本の輪」はまだまだ続きます。
続きが気になる方はぜひ『言の葉の森』をお手に取ってご覧ください。

 

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〈著者〉チョン・スユン(鄭修阭)
1979 年ソウルに生まれる。作家、翻訳家。大学卒業後いくつかの職を経た後、早稲田大学大学院文学研究科で修士号を取得した。訳書に太宰治全集、茨木のり子詩集、宮沢賢治『春と修羅』、大江健三郎『読む人間』、井上ひさし『父と暮せば』、若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』、崔実『ジニのパズル』、最果タヒ『死んでしまう系のぼくらに』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』、凪良ゆう『流浪の月』など、著書に長篇童話『蚊の少女』がある。


〈訳者〉吉川 凪(よしかわ・なぎ)
大阪市生まれ。新聞社勤務を経て韓国に留学し、仁荷大学国文科大学院で韓国近代文学を専攻。文学博士。キム・ヨンハ『殺人者の記憶法』(クオン)の翻訳で、第4 回日本翻訳大賞を受賞。著書に『京城のダダ、東京のダダ―高漢容と仲間たち』(平凡社)、訳書にチョン・セラン『アンダー、サンダー、テンダー』、崔仁勲『広場』、朴景利『土地』(以上クオン)、チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』(集英社)など多数ある。

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《『言の葉の森』試し読み》
序文 二つの言語を行き来する旅
君の名は