2023年12月頃の出版をめざして執筆・製作中の岡部えつさんによるノンフィクション『GIベビー、ベルさんの物語』(仮)の前半を公開します。
また、ベルさんをアメリカに連れて行き、肉親に対面してもらうため、クラウドファンディングを実施中です。ぜひプロジェクトの詳細をご覧ください。
https://camp-fire.jp/projects/view/677532?utm_campaign=cp_share_c_msg_projects_show
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『GIベビー、ベルさんの物語』(仮)
序章
アネッタ、麗子、ベル。その人には、三つの名前がある。
彼女が最初に認識した自分の名は、アネッタだった。物心ついてから18歳まで育ったカトリック教会系の児童養護施設で、シスターたちから呼ばれていた洗礼名だ。
「小学校に上がるまで、自分はアネッタだと思ってて、他に名前があるなんて知らなかった」
小学校に入学すると、ランドセルや学用品には「堤麗子」と書かれた。「麗子」は、おそらく彼女の母親がつけた名だ。どんな思いをこめて、どんな状況下で名づけたのか、彼女は誰からも聞かされていない。
児童養護施設を退所したあと、病院で住み込みの雑用係として働いたものの、2年ともたずにそこを辞め、キャバレーで働き始めた。そのとき自分でつけた源氏名が「ベル」だ。
以降、彼女はずっと「ベル」として生きてきた。わたしが出会ったのも、ベルさんだった。
ベルさんが白人とのハーフであることは、見た目からすぐにわかったし、親しくなってからは、1949年生まれであることも知っていた。なのにわたしは彼女を、米兵と日本人女性との間に生まれた混血児、"GIベビー" と呼ばれた子供たちと、すぐには結びつけることができなかった。
GIベビーが物語の核となる映画『人間の証明 』は何度も観ていたし、それに出演していたジョー山中や、同じロックミュージシャンの山口冨士夫が、GIベビーであることは知っていた。澤田美喜とエリザベス・サンダース・ホームの話も、テレビや本で何度も触れたことがあった。RAA(特殊慰安施設協会)についての本も、自宅の本棚にある。それなのに、ベルさんがそういう子供たちの一人だとは、すぐには気づけなかった。
これには二つ理由がある。ベルさん自身がその認識を持っていなかったことと、わたしが、いくつかの思い込みにとらわれていたことだ。
思い込みの一つは、戦後日本が占領下にあった期間を、2年程度だと思っていたこと。もう一つは、進駐軍が駐留していた場所を、関東なら横須賀、厚木、立川、福生、東北は三沢、九州は佐世保といった、映画や小説によく出てくる場所だけだと思っていたこと。さらに、GIベビーの孤児が収容されていたのは、エリザベス・サンダース・ホームだけ、という思い込みもあった。
このため、終戦四年後に札幌で生まれたベルさんと米軍が結びつかず、ロシア人の血が入っているか、あるいは韃靼人の末裔かなどと、見当違いの考えが先に頭に浮かんでしまった。
こうして書くだけでも顔から火が出る思いだが、ほんの数年前まで、その程度の認識しか持っていなかった。これは、わたしに限ったことではないと思う。戦後の混乱期を知らずに育ったわたしたちの世代は、 70年代にハーフタレントたちが活躍するテレビを楽しんでいても、彼らの多くがそうだったにもかかわらず、GIベビーという存在をよく理解していなかった。目覚ましく発展していく日本には、外国人がどんどん入ってきたし、また日本人も海外に出て、国際結婚も珍しくなくなった。そんな社会で生きているわたしたちにとって、ハーフは二つの文化をルーツに持つ羨ましい存在であり、戦後の暗い歴史とは切り離されていた。
しかし前述したように、もともと興味があって戦後に関する本などを読んでいたわたしは、あるときふいに「あれっ、もしかして」と気がついた。
すぐに資料を漁り、1949年の日本はまだ占領下であったこと、ベルさんが生まれた札幌にも米軍キャンプがあったこと、《混血孤児》を預かった施設はエリザベス・サンダース・ホームだけでなく、日本全国にあったことを知った。彼らの数は、想像よりずっと多そうだった。
ベルさんは、GIベビーかもしれない。それは確信に変わった。同時にわたしの中で、彼女の出生を探ることで、戦後混乱期の日本の隠れた一面、特に、今まで知ることのなかった女性史に肉薄できるのではないか、という期待が湧き上がった。女をテーマにした小説を書いてきたわたしにとって、それは魅力的な素材だった。
しかし、自分の出生について何も知らない彼女に問いただしても、
「GIベビー? ふうん、そうかなあと思ったこともあるけどねえ」
という返事しか返ってこない。わたしと出会う以前、彼女は何度か肉親探しに挑戦しては、失敗していた。わたしの中に芽生えた好奇心も、次の一歩を踏み出す場所がなく、宙でぶらぶらするばかりだった。
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第一章 新宿
出会い
JR新宿駅の東口を出て、新宿通りを四谷方面に向かう。紀伊国屋書店本店を通り過ぎ、伊勢丹まで来ると、大きな交差点に出る。かつて「追分」と呼ばれた、甲州街道と青梅街道の分岐点だ。そこから、その先さらに一キロメートルほど直進した四谷四丁目の交差点辺りまでが、江戸の頃に内藤新宿と呼ばれた宿場町の中心だった。道の両側には旅籠が並び、明治期にかけて、飯盛女と呼ばれる女たちが置かれた層楼が、一大遊郭を形成していた。
大正に入ると、女たちを売る店は、風紀上の問題から街道沿いより北側の裏手に移転させられた。第二次大戦前の新宿の地図には、今も続く寄席の末広亭より一本東、現在の明治通りに重なると思われる大門通りを挟んで東西両側に、「貸座敷」と呼ばれた遊女屋がずらりと並んでいるのが見て取れる。大戦の後、そこは「赤線地帯」となった。現在、明治通りの東側は、ゲイタウンとして世界に名高い新宿二丁目にあたる。西側は新宿三丁目で、様々なタイプの飲食店が立ち並び賑わっている。
スナック『雑魚寝』は、その三丁目側の遊女屋街があった辺りにある。競争の激しいこの街で、今年(2023年)開店45周年を迎える貴重な店だ。店主が役者をしていることもあり、客は芝居関係の人たちが多い。
その辺りが今よりずっといかがわしかった70年代から、バブル景気を謳歌し、その崩壊を乗り越え、長い景気低迷期を生き延びてきたこの店に、わたしが友人に連れられてはじめて行ったのは、2003年のことだった。
ベルさんは、雑魚寝の常連客だった。Uの字型のカウンターだけの店だから、背が高く、派手な美人で、外国人にしか見えない彼女はとても目立った。こちらはすぐに顔を覚えたが、あちらはわたしなど見向きもしないという感じだった。
「ベルは女が嫌いだから、気にしないで」
マスターの水島さんからそう聞かされていたので、つんけんされても気にはならなかった。
数年通ううちに水島さんと親しくなり、花見や観劇など、他の常連客たちとともにお店以外のイベントに誘われるようになった。そこにはベルさんがいることも多かった。しかしどんなに打ち解けた場でも、彼女はわたしを警戒して距離をおいていたので、口をきくことはなかった。
その時点でわたしが彼女について知っていたのは、水島さんと同い年だということ、国はわからないが白人とのハーフだということ、北海道出身だということ、そして、元ストリッパーだということくらいだった。
はじめて親しく言葉を交わしたのは、2011年5月1日、新宿スペース・ゼロでの文学座の公演『思い出のブライトン・ビーチ』を観た帰り道だった。水島さんのお嬢さんが出演したので、雑魚寝の人たちと行ったのだ。東日本大震災から二か月も経っていない、不安な空気に満ちていた時期だった。
「地震のすぐあとに、ベルから電話があってね、一人じゃ怖いって言うから、しばらくうちにいていいよって、呼んだの。最初の晩、寝ていたら、水島さん頭を撫でてって言うから、どうしたのって聞いたら、今まで人からそうしてもらったことがないから、して欲しいって。そうか、と思ってね。一晩中、頭を撫でてあげたよ」
少し前、水島さんからそんな話を聞いたばかりだった。彼女が施設で育った孤児だと知ったのは、そのときだったかもしれない。
観劇後、夕方から雑魚寝を開ける水島さんと一緒に、みんなで甲州街道沿いをぞろぞろ歩いているとき、偶然ベルさんと並ぶ瞬間があり、そこからおしゃべりが始まった。何がきっかけでわたしに気を許してくれたのかは、わからない。
そのとき彼女が熱っぽく語ったのは、主に夜間中学のことだった。卒業して8年ほど経っていたはずなのに、まるで今も通っているかのような、生き生きした話しぶりだった。読み書きを習い、計算を習い、生まれてはじめて修学旅行にも行き、卒業式では代表として答辞も読んだ、そんな話だった。
「わたしはそれまで字も読めなかったんだから、本当に中学に行ってよかった。行ってなかったら、どうなっていたかわからない」
この台詞は、後に何度も繰り返し聞くことになる。
それからというもの、雑魚寝で顔を合わせれば、隣に座って話をするようになった。年に数回のことだったが、そのたびに少しずつ、身の上話も聞くようになった。
GIベビー、ベルさんの物語〈2〉に続く。