亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2022.9.21

45安達茉莉子『臆病者の自転車生活』——はじめに


文筆家・安達茉莉子(あだちまりこ)さんの『臆病者の自転車生活』が発売されました。ふとしたきっかけで自転車に乗ってみたことで、生活も、気持ちも大きく変わっていった女性の物語です。全3回にわたって、本書の一部を試し読み公開します。

 


全3回にわたって本書の一部内容を試し読み公開します。

第2回……「変化」がはじまった 夜のみなとみらいライド
第3回……ひとりで走ること、一緒に走ること

 

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安達茉莉子『臆病者の自転車生活』

はじめに


 人生で一度も自転車を必要としたことがなかった。必要とすることもないだろうと思っていた。私には足がある。運動は嫌いだけど、歩くのは好きだ。どこにでも歩いていける、多少時間はかかるけれど――。
 そう思っていたのは、生まれ育った場所が大分県の山奥だったからかもしれない。歩いて二十分以上かかる、谷間の川沿いの駅に自転車で走り降りていくのは良いが、帰るときには重い塊を押して上がる羽目になる。それでも、子供たるもの自転車くらい乗れないと……と、幼き頃に練習させられて一応乗れるようにはなったけれど、高校を卒業する十八歳までまったくその必要性を感じずに生きてきた。
 上京して東京に出てきてからは、なおさら不要だった。国分寺、阿佐谷、東中野と都内で住んだ部屋はどこも駅から徒歩十分以内。徒歩のほうが快適に移動できる。駐輪場も探さなくていいし、鍵をかけたりもたもたしていたら結局歩いたほうが早そうだ。スカートも穿きたいし、汗もかくし―自転車に乗りたくない理由もさまざまだった。
 だけど、本当に必要な人、必要なもの、出会うべき存在とは、こちらがたとえ背中を向けていたとしても、万難をすり抜けるようにして出会うことになっているのかもしれない。自転車はまさに、そんなふうに私の前に現れた。二〇二一年の秋に電動自転車を購入して以来、自転車にどんどん夢中になってのめり込んだ結果、電動自転車とロードバイクの二台を所有して、横浜のまちを楽しく走り回っている。
 これを読んでいる人は、この安達茉莉子という人は、キレキレでシュッとしていて、朝はヨガをしているような――溌溂とした、どうせそういうアクティブな活動ができるタイプの人なんでしょうと思うかもしれない。
 私の体重は、今これを読んでいるあなたの体重よりたぶん重い。ヨガは何度か挑戦したけれど、私が苦しそうに時々膝をつき、必死にマットに手足を踏ん張っている姿を見たインストラクターが感動して泣いてしまったことがある。
 運動は苦手で、駅の階段すら極力使わない。エスカレーターの左側を見たら私がいる。関西だったら右側だ。とにかく根気と持久力がない。走るのも苦手だ。マラソン大会も、水泳大会も、他のみんながゴールした後、善良な観衆にガンバレ! ガンバレ! と拍手されながらゴールする屈辱を知っている。
 残念ながら潑剌としてもいない。苦手なことは極力回避したくて先延ばしにしてしまう。気も弱くて、出版社の人や取引先にメールを送るのに、毎回一時間くらいかかる。いつだって怯えた犬を内側に抱えて生きている。
 これは全部自虐ではない。特に誇張もしていない。
 根気もなく、回避傾向があり、気も弱い。それでも、目の前にふと現れた自転車に乗ってみたら、驚くほどに何もかも全部変わっていった。心に怯えた犬を飼った臆病者でも、自転車に乗れたし、むしろそんな人をこそ軽々と遠くに連れていってくれるのが自転車だ。生活の足にするだけではなく、自分の足で遠くまで行く喜びに気づかせてくれる。できれば回避したいと思っていた苦手なことは、ひとつひとつ、なんとかできるようになっていく。サドルの高さを上げてみたり、車道に降りてみたり、電車でしか行けないと思っていた場所に行ってみたり、小さな挑戦を繰り返していくうちに、いつしか静かな自信が自分の中に育っていった。そんなことを伝えたくて、別に言わなくてもいい体重の話なんかをわざわざ書いたのだ。たった一言、「そんな私でもできたんです」と言いたいがために。
 自転車を好きになって、私の生活は大きく変わった。空気の層や風、地面の衝撃を感じながら道の上を走り、海の横を流れるように並走する。自分の体でこんなに遠くまで来たんだ、という感覚。体力のない私でも、自転車ならそれが叶う。そして何より、自転車に乗るのは気持ちいい。それ自体が喜びなのだ。
 今から書くものは、そうやってゼロから始めて自分のために書き留めてきたメモ書きであり、自転車という広大な世界に道筋をつけようとして作った、手書きの地図でもある。山に登りたいと思った人が、ひとつひとつ自分の体で学びながらノートに書き留めて一歩ずつクライマーになっていくように、私も自転車に乗り始めて、ひとつひとつ書き留めてきた。専門家や熟練者が書く指南書のような網羅性はないかもしれないけれど、自転車に乗り始めた初心者が必ず遅かれ早かれ乗り越えなければならない大小様々なハードルと、弱気で財政的にも弱々しい癖にこだわりが強い私ならではの目線で、実際それらにどう対処してきたかが書いてある。
 この手書きの地図、現在も発展中のメモ書きを読んだ人が、そうか自分もちょっと乗ってみようかな、と自転車に乗ってみてくれたら何より嬉しい。
 まだ見ぬどこかの道で、自転車に乗ったあなたとすれ違いたい。私たちはお互いのことを知らない。だけど、いつか、願わくは青空の下で、風の中を前に進み、目を細めながら、それぞれの自転車に乗ってすれ違ってみたい。そのとききっと、私たちは皆微笑んでいるだろう。



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『臆病者の自転車生活』試し読み
▶︎「変化」がはじまった 夜のみなとみらいライド
▶︎ひとりで走ること、一緒に走ること



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臆病者の自転車生活

■安達茉莉子/著
■税込 1,760円
■四六判・並製、192ページ
■ISBN:978-4-7505-1758-2

 

 

【目次】

■はじめに
■第一話……電動自転車との出会い
■第二話……街場の自転車レッスン
■第三話……いつだって行ける場所にはいつまでも行かない
■第四話……「変化」がはじまった──夜のみなとみらいライド
■第五話……いざ鎌倉
■第六話……ロードバイク記念日
■第七話……本当にロードバイクがやってきた
■第八話……ツール・ド・真鶴(前編)──大冒険への扉
■第九話……ツール・ド・真鶴(後編)──往復百五十キロの旅、時々雨
■第十話……ライド・オン・北海道──苫小牧・支笏湖の旅
■おわりに 未知なる道へ