亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2021.9.17

19チョ・ヘジン『かけがえのない心』(オ・ヨンア訳)——後編



《韓国文学のシリーズ〈となりの国のものがたり〉第9弾》

——お母さん、聞こえますか? 私はこうして生きています。

〈歴史的暴力〉に傷を負った人々に寄り添う作品を発表し続け、高い評価と幅広い読者の支持を得ているチョ・ヘジンの『かけがえのない心』(オ・ヨンア訳)(9月17日(金)発売)を試し読み公開します。

 

『かけがえのない心』試し読み
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かけがえのない心——後編


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———名前は家ですから。
 ソヨンの二通目のメールはこう始まった。

———名前は私たちのアイデンティティーだとか存在感が暮らす家だと思うんです。今の社会は、なんでもすぐに忘れてしまいますし、私は名前一つであってもきちんと覚えておくことが、消えた世界に対する礼儀だと信じています。


 アイデンティティー、存在感、家、礼儀……。ソヨンの選んだ単語にまず興味をひかれた。いや興味をひかれたという表現では足りなかった。その単語たちは、私がどんなときも切実に追い求めているものだった。私はいつのまにかソファにあずけていた背中をまっすぐに起こして、ソヨンのメールに集中した。
 ソヨンはすでに企画をかなり進めているようだった。映画のシノプシスだけでなく、すでにシークエンスの順序を決めてスタッフを集め、映像学科で有名な母校から比較的最新のカメラやレンズを借りる段取りもつけていた。航空券も出せなければ、出演料も少額に過ぎないが、撮影期間中の二、三か月の滞在先はなんとかなると、いくつかのイメージファイルを添付してきた。添付ファイルを開けると、小さなリビングとベッドルーム、それから窓の外を撮った風景写真が一つずつノートパソコンの画面に浮かび上がった。「実は私の部屋なんです、ご覧のとおりつつましい部屋ですが、一人で滞在する分にはそれほど問題はないと思います。それに、夜はライトアップした南山タワーも見えるんです」とソヨンは続けた。
 じっとその写真を見ている間、私にとっていわば仮の委託家庭になってくれた機関士の家がぼんやりと浮かび上がった。その家は、路地の奥にたたずむ広い伝統家屋で、雨が降ると家のあちこちにしみついていた木の香りがはっかの香りみたいにさっと広がってきたものだった。その家では雨が降るというのは、茶色に近いえんじ色をしたひらべったい餃子のような形の料理を食べられるという意味でもあった。機関士の母親は、いつもは私の顔さえ見れば舌打ちをしていたものだったが、窓を開け放った板の間に並んで座って、雨音を聞きながらその料理を分け合って食べるときだけは、実のおばあちゃんのようにやさしかった。皮の中に甘いあずきを入れて油で焼いてから、砂糖をまぶして食べるその料理の名前を私は思い出せない。名前すら思い出せず、韓国を離れてからは二度と目にすることもなかったのに、数日前からその味が舌先によみがえってきていた。フランスでは到底手に入れられないその料理を食べられるのなら、四六時中襲ってくる、こみあげてくるような吐き気も一瞬でなくなるような気がした。もちろん私もわかっていた。特定の料理を食べるためだけに妊娠初期に長距離フライトをするなど常識では考えられないということを、医師の言うように、すべてにおいて気をつけなければならないことも。そろそろソヨンのメールを削除するか、でなければ形式的な断りの文面を書かなければならなかった。でも、そうしなかった。代わりに、いつだったか韓国文化を紹介する本で読んだ内容——韓国では妊婦の多くが一定期間、実家で養生しながら出産準備をする内
容だった——を繰り返し考えながら心が揺らぐ覚悟をしていた。何よりソヨンの映画を通じて、機関士や彼の母親を探せるかもしれないという期待が、そんなことはありえないと思いつつも、あらゆるネガティブな条件を圧倒していた。その期待は、ムンジュの意味を知り、自分の起源
(ルーツ)が少しでもはっきりしたら、もっと胸を張ってとウジュを迎え入れられるだろうという希望でもあった。


〈後編・完〉

《『かけがえのない心』試し読み》
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『かけがえのない心』の冒頭をお読みいただきました。
いかがでしたでしょうか。

物語はまだまだ続きます。この先が気になった方は
ぜひチョ・ヘジン『かけがえのない心』をお手に取ってご覧ください。

 


現代韓国の歴史の中でなきものとされてきた人たちに、
ひと筋の光を差し込む秀作長編小説


チョ・ヘジン『かけがえのない心』(オ・ヨンア訳)
(税込 1760円、9月17日(金)発売)


【もくじ】

■かけがえのない心
■あとがき
■日本の読者のみなさまへ
■訳者あとがき