亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2022.9.26

47安達茉莉子『臆病者の自転車生活』——ひとりで走ること、一緒に走ること


文筆家・安達茉莉子(あだちまりこ)さんの『臆病者の自転車生活』が発売されました。ふとしたきっかけで自転車に乗ってみたことで、生活も、気持ちも大きく変わっていった女性の物語です。全3回にわたって、本書の一部を試し読み公開します。

 


全3回にわたって本書の一部内容を試し読み公開します。

第1回……はじめに
第2回……「変化」がはじまった 夜のみなとみらいライド

 

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安達茉莉子『臆病者の自転車生活』



第10話 ライド・オン・北海道 苫小牧・支笏湖の旅

ひとりで走ること、一緒に走ること


 苫小牧から支笏湖までの道のりは大変だったが気持ちよかった。それでも、途中何度か、この道を誰かと走ったらどれだけ楽しかっただろうとも思った。その願いは、場所を替えて翌日叶うことになる。
 翌日も天気が良く、私は自転車に乗りたくてうずうずしていた。せっかくここまで来たのだから、まだ走りたい。怜くんとさや子さんをサイクリングに誘った。支笏湖の周りを走ったら気持ち良いだろうと思ったのだ。怜くんは自分のロードバイクと折り畳み自転車を引っ張り出してきて、空気を入れた。自転車なんてしばらく乗ってないし、きっとついていけないよと渋っていたさや子さんをなだめすかして、三人で湖の周りを走った。
 真っ青な空に、透明な湖。湖の岸辺に見えている「ポロピナイ園地」を目指して三人で走る。肉眼でも見えているから距離的には近いように思えるが、実際は八キロ先にある。支笏湖は広大な湖なのだ。ロードバイク二台と、折り畳みのミニベロ一台。進む速度は全然違うから、各自好きなように走り、距離が空いたら待つようにした。道は平坦で、ひと漕ぎするだけでスーッと進んでいく。昨日漕いでも漕いでも進まなかったのとは大違いだ。左手には透明な湖。振り向くと、しばらくして必死で折り畳み自転車を漕いでいるさや子さんたちがやってくる。やっぱり人と一緒に走るのはそれだけで楽しかった。進行方向を向いて顔を上げると、対向車線にロードバイクに乗った女性が走ってくる。ペコリとどちらからともなく会釈をする。それだけで、どうしようもなく嬉しくなる。
 たったひとりの旅でも、こんなふうに道の上で誰かと出会えたら嬉しい。きっと、誰かとの出会いは、旅の中の一番味わい深いパートだ。
 私は自転車乗りとはちょっと言い出しづらいほど走るのは遅いし、相変わらず坂はよく上れない。それでも、自転車を通じて誰かと知り合う機会を逃したくないなと思った。
 いつかそれは叶うだろうか。そういうことがきっと起こると信じていたい。だって、私はこの乗り物が好きだった。動力といえば地表の傾きと風、自分の足。限りなくシンプルで、無防備で。だけど歩くよりも楽に遠くに連れていってくれる。体験を共有しているであろう見知らぬ人と、道の上ですれ違い、一瞬の一期一会を交わしたい。小さなことを気にしているには、あまりにも自転車で走る道の上には楽しいことが待っている。
 自転車で店まで帰り、その後は北海道を満喫した。怜くんのガイドでカヌーに乗ったり、翌日は競走馬を育てている、さや子さんのお友達の牧場に車で向かった。日高昆布で有名な日高町を通っているとき、片方に一面の海、片方に優美な馬が走る草原を眺めながら走る車に乗りながら、本当はちょっと惜しかった。自転車でこの道を走れたらどんなに気持ちいいだろう。あのフェリーで出会ったクロスバイクの人は、この風景の中を走ったりするのだろうか? いつか私も、また来ようと思った。無理しなくていいから、自分の体力で行ける限りで、この道を走ってみたい。そうやって、まだ知らない北海道の大地を、走ってみたい。そんなことを、ずっと考えていた。
 楽しい時間はあっという間に終わる。帰りは自転車を輪行袋に入れて、新千歳空港まで送ってもらい、機内預け手荷物で羽田空港まで帰った。空港でタイヤの空気を軽く抜き、スカイマークのカウンターに持っていく。自転車だと伝えると、「こっちが上ですか?」「ぶつけてはいけない場所はありますか?」と大層丁寧に扱ってもらえた。
 地元の駅まで持ち帰り、広げて組み立てたとき(今度は五分でできた)、自転車は無傷だった。タイヤの空気を入れ直す気力はもう残っておらず、カラカラと押してマチュピチュに帰る。パンク修理、輪行、ひとり旅をやり遂げて、家にたどり着いて、ダイニングに自転車を置いたとき、自転車の神様からの証書をもらった気がした。まるで教習所で免許をもらったようだった。自転車の初心者として、何かトラブルがあったときにどう対応すればいいか、最低限のことをひととおり学んだような気がしたのだ。
 どさっとベッドに倒れこむ。
 たった五日間のはずなのに、途方もなく長期間旅をしたようだった。―ひとりで、行って帰ってこれたなあ。寝落ちしそうになりながら目をとじる。まぶたの裏に浮かんだのは、また海だった。写真でしかみたことのない、台湾の南の海。
 道は広がっている。飛行機輪行ができたので、やりようによっては海外に自転車を持っていくこともできるようになった。台南にはいつか行ってみたいと思っていたが、自転車で走ったらどれだけ楽しいだろう。どんな世界が待っているだろう。まあ、むこうで自転車を借りてもいいだろうし―。
 パンクに苦手な上りにと結構大変だった北海道自転車旅で、ひとつのことがはっきりした。
 私は別に速く走れなくていい。だけど、この先、どこに行っても、どこまで行っても、自転車を好きでいられたらいい。胸がドキドキしていることを大事に。無理せず、自分を乗り越えようなんてせず、だけどそうしたくなったら遠慮なく容赦なく―この相棒が与えてくれる旅を、共に走れる時間を、ただ味わって、楽しめたらいい。
 そうすれば、私はずっと道の上で笑っていられるだろう。



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『臆病者の自転車生活』試し読み
▶︎はじめに
▶︎「変化」がはじまった 夜のみなとみらいライド


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臆病者の自転車生活

■安達茉莉子/著
■税込 1,760円
■四六判・並製、192ページ
■ISBN:978-4-7505-1758-2

 

 


【目次】

■はじめに
■第一話……電動自転車との出会い
■第二話……街場の自転車レッスン
■第三話……いつだって行ける場所にはいつまでも行かない
■第四話……「変化」がはじまった──夜のみなとみらいライド
■第五話……いざ鎌倉
■第六話……ロードバイク記念日
■第七話……本当にロードバイクがやってきた
■第八話……ツール・ド・真鶴(前編)──大冒険への扉
■第九話……ツール・ド・真鶴(後編)──往復百五十キロの旅、時々雨
■第十話……ライド・オン・北海道──苫小牧・支笏湖の旅
■おわりに 未知なる道へ