亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2022.5.27

37尹雄大『つながり過ぎないでいい』——はじめに


『さよなら、男社会』(亜紀書房)、
『親指が行方不明』(晶文社)などで知られる尹雄大(ゆん・うんで)さんの新刊
『つながり過ぎないでいい――非定型発達の生存戦略』
が5月25日(水)に発売になります。


全3回にわたって本書の一部内容を試し読み公開します。

 

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尹雄大
『つながり過ぎないでいい——非定型発達の生存戦略』

はじめに


 大阪行きの特急列車の運転席にほど近い座席に腰をおろすと、ほどなくして向かいに親子連れが座った。しばらくして男の子は立ち上がり、進行方向に向かって大きく開けた窓越しに前方を見始めた。阪急電車は他の電鉄の車両に比べ、乗務員と客を隔てる壁のガラスの占める割合が大きい。年の頃五歳ばかりの彼は先頭車両ならではの見晴らしのいい光景を楽しんでいた。
 次の駅で同年くらいの少年と祖父とおぼしき男性が乗り込んできた。男の子は祖父の手を振りほどくと、その勢いのまま窓にとりつき、先に見ていた男の子を押しのけた。
「お兄ちゃんが見ているでしょう」と男性は孫の肩口に手をかけ、左へと退くように促す。男の子は「見えない!」と叫び、足を踏ん張る。春の午後の眠気を誘うような陽が差し込む車内に、不釣り合いな大きい声が耳朶を打つ。孫の振る舞いに彼は「だったら、降りよう」と脇に手を差し入れ持ち上げるが、「見えない! 嫌だ!」と足をバタつかせ抵抗する。
 先に場を確保していたはずの男の子は隅に追いやられようとしていた。ふと見ると母親の手が息子の腰をしっかり支えていた。それは傍若無人な振る舞いをする少年から我が子を守るためであると同時に、一歩も譲らせまいとする母親のプライドが込められているように見えて、僕はさらに不穏な気持ちになった。
 初老の男性は母親に向けて「すいません」と頭を下げると彼女は会釈したものの、一言も発しない。彼はその場から少し離れて扉の側に立ち、成り行きを傍観し始めた。
 男の子の声の響きと他人がまるで気にならない様子に、「発達障害なのかもしれない」と思ったが、たちまち苦い気持ちがじんわりと胸中に広がる。「発達障害なのかもしれない」と名付けたがったのは、彼の振る舞いが「人の迷惑を省みない」とか「わがまま」といった、この社会で力を持ちすぎている非難の言葉でくくられてしまうことへの予防であった。というのも、そうやって理解しないと少年と母親、少年と祖父の四すくみがもたらすわだかまりが行き場を失ったままになるからだ。この場において、どうすることが適切なのかはわからないし、正解などないのもわかっている。ただ、「他者がいるということ」について四人とも不問に付していることが気になって仕方ない。
 じわじわと後退を迫られた彼が「あっちへいけ」と押し返せば、他者という存在が実力をもってもたらすどうしようもなさに後続の少年も向き合わざるを得ない。だが、その気配もない。母親の手はいまや我が子を庇護するよりは、その場から立ち去ることを許さない枷となっていた。
 梅田駅に着くと少年は祖父の手を引っ張り、京都線の特急に向けて勇んで歩き始めた。続いてその後を行く僕には彼の大きな声が聞こえた。それまでの自分の行いに何らためらいを抱いてない様子がわかった。返事をする祖父の声音は、いつもの彼の振る舞いに慣れていながらも疲れている調子を含んでいた。
 いつか彼も他人という存在に気づくだろうか。それは幸福なことだろうか。そんなことが気になってしまうのは、彼はかつての自分でもあったからだ。
 少年は他人と大いに接触しながらその存在をまるで気にしていない。そういう意味での自閉をしている。僕の場合は他人とあらかじめ接点を持たないままで、自分のこだわりを頑なに守り、それが故に他人が目に映っていなかった。現れ方は違うが、他者の不在において似ていた。子供のうちは大目に見られたことも、いつしか迷惑やわがままといった非難で強制的に行動を変えられる時期が来る。だが、自らが変わらない限り、他人から強制された変化は不満と鬱積をもたらすだけだ。結果として社会で生きづらいという、感情がもつれた状態を日常として生きるはめになる。
 社会性のなさだけを取り上げられ、自分を全否定されると、それがもたらすのは萎縮しかない。自分という存在と他者という存在。関わり方は人それぞれなはずだ。けれども、定型の発達が期待されている中では「人それぞれ」という多様性の尊重は、スローガンほどには許されていない。人それぞれが可能になるには、冗長さが、時間の遅延が欠かせない。効率と合理性から程遠いが、最も遅いものが最も速くなる時が訪れる。
 物事の理解も生きていく歩みも人の数だけ異なる。感覚や感情が熟していくまでに必要な体験とは何か。自分のタイムラインに従って生きていくことはいかにして可能かを、僕自身の過去を振り返りながら描いてみようと思う。

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『つながり過ぎないでいい』試し読み

定型に発達するとは何か?
非定型に発達しているだけ


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つながり過ぎないでいい

非定型発達の生存戦略

■尹 雄大/著
■税込 1,760円
■四六判・並製、216ページ
■ISBN:978-4-7505-1726-1 C0095

 

 

【目次】
■はじめに
■1章 それぞれのタイムラインを生きるしかない——定型発達という呪縛
■2章 胚胎期間という冗長な生き延び方
■3章 社会なしに生きられないが、社会だけでは生きるに値しない
■4章 自律と自立を手にするための学習
■5章 絶望を冗長化させる
■あとがき