亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2022.5.30

38尹雄大『つながり過ぎないでいい』——定型に発達するとは何か?

 


『さよなら、男社会』(亜紀書房)、
『親指が行方不明』(晶文社)などで知られる尹雄大(ゆん・うんで)さんの新刊
『つながり過ぎないでいい――非定型発達の生存戦略』
が5月25日(水)に発売になります。


全3回にわたって本書の一部内容を試し読み公開します。

 

* * *


尹雄大
『つながり過ぎないでいい——非定型発達の生存戦略』



1章
それぞれのタイムラインを生きるしかない——定型発達という呪縛


定型に発達するとは何か?

 

「何やってんの。どこ行ってたの、本番中に!」
 スタジオに戻ると丸めた台本を握りしめたディレクターが演者に気を遣ってか、声をひそめつつも怒りを込めた調子で問いただしてきた。
 大学卒業後、就職した会社を三ヶ月で辞めた後、知人の紹介を経てテレビ制作会社でバイトを始めた。仕事はいわゆるADだ。その日はスタジオ収録があり、資料の運び出しとか色々やることはあったのだけれど、トイレにいきたくなりインカムを付けたままスタジオを離れた。
 戻ってきた途端に冒頭のように言われたわけだ。僕は悪びれることなく「トイレに行ってました」と素直に返した。「怒られるようなことをしたかな?」というのが正直な気持ちだった。
 だけど相手は「すいません」以外の答えが返ってくるとは思っていなかったみたいだ。ディレクターは何か言おうとして、口をパクパクしたけれど言葉が出てこない。その様子に「なんだか酸欠気味の金魚みたいだな」と思い、「もう言うことないのかな?」とその場をスタスタと離れ、元いたスタジオ内のカメラの背後へと向かった。
 ADの業務はスケジュール管理から小物の買い出し、電話でのリサーチ、スタジオ収録と多岐にわたる。どれひとつ満足にできたためしはなかった。仕事にまったく貢献していないのがわかっていたが、それは、僕と同僚とでは働くペースが違って、みんな忙しそうだったからだ。だから、ちょっとした罪悪感はあった。でも、ちょっとだ。「どうにも仕方ない」とどこかで他人事のように思っていた節はある。
 仕事の打ち合わせや会議に参加しても、何について話されているか皆目わからないのだ。目の前でやりとりされていることがモニター越しというかモヤがかかっているというか。「五里霧中ってこんな感じなのかな」と思ったりしていた。話されていることがわからないから自分が何をやるべきかもわからない。収録の日も周りは慌ただしく動いているけれど、僕はかなり手持ち無沙汰な感じだった。
 たぶん本当は困っていたんだと思う。「たぶん」というのは、「この状態を困っていると呼ぶ」という認識がその頃はまだなかったからだ。なんだか窮屈で息苦しいし、ぼんやりとしか周囲が見えないという違和感はあった。それもなんとなくの感覚でしかなかった。
 けれども違和感がもたらす引きつれた感じが胸のあたりにあったし、皮膚が痒くなるような、グッと股関節が詰まり、視野が狭くなって見通しが利かない感じもあった。あまり息も深く吸えない。



別人のような自分

 それは感情と呼んでしかるべきものだと知ることになるのだが、それは後の話だ。そのときは、自分を訪れている感覚にはっきりと言葉で名付け、それに輪郭を与えられずにいた。言語化する能力が非常に低く、それは感情を表すことにおいても足並みを揃えていた。さらに困っていることを訴えかける表情に乏しいから、周りは僕が難儀しているようには思わなかったはずだ。
 収録からしばらくしたある日、出勤すると上司に「イベント本番までの進行を整理して表にするように」と言われた。今度の仕事は野外のイベントだ。その日までにやらなくてはいけないこと、それに伴う諸々の注意事項を加えた進行表を作らないといけない。エクセルを使えばいいんだろうとは断片的な知識ではわかっていた。
 だがしかし、使ったことがないからどうしていいかわからない。パソコンの前に座る。そうなっても直ちに「困ったな」と思わないのは、さっきも言ったように「できない」ことはそのまんまできないこととして受け止めてしまって、それっきりだからだ。
 普通なら「どうやればいいのかを聞けばいい」と次のステップに移るところだけど、僕は独特の行程を経てしまう。「みんな忙しそうだし」と変なところで気を遣ってしまう。そうして次に何をするかと言えば、パソコンの前に座ってひたすら悶々とする。
 そうしていたら閃いた。唯一扱えたワープロソフト「一太郎」の罫線を引いて表を作ればいいのでは? というグッドアイデアがやって来た。閃き方がまったく間違っているのだけど。
 でも、当人は全然そうは思っていなくて、他の人なら瞬く間にできることを三日かけて、線がぐちゃぐちゃの進行表ができ上がった。独力でやり遂げたという思いがあって、それなりに満足していた。周りはどうだったろう。そう言えばできばえについて特に何か言われた記憶がない。
 福沢諭吉は明治維新を境に世相と自らの一変ぶりについて「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」と述べた。「一度の人生で別人みたいに過ごしてるぞ」という驚きがにじみ出ている。僕も過去の自分を振り返るとまったくの別人のように感じる。それだけにあの頃を思い返すと「なぜそんなことをしたのだろう」と不思議に感じることがあまりに多い。
 たとえば電話でのリサーチだ。ニュース番組に提案する企画書をまとめるために、アパレルブランドのデザイナーに電話取材することになった。それを僕がやらなくてはいけない。会ったこともない人に電話をかけ、あまつさえその人から必要な情報を得る。しかも先方は忙しいから手短に聞き出さなければならない。気乗りしない中でも話してもらえるような話題の展開を心がけないといけないわけだ。あまりにハードルが高い。もっともふさわしくない仕事をなぜか僕がすることになった。非常につらい業務だった。
「つらい」は体感として「やる気にならない」「だるい」として訪れることが多い。身体が積極的に動かない状態になってフリーズしてしまう。それは「つらいからだ」と呼ぶ回路が僕にはまだなかったので、自分を襲う感覚や感情の正体が不明だった。それがわかれば手立てを考えられもするだろう。わからないままに取り組もうとしてうまくいかない。結果としてその尻拭いをしなくてはならないのは、いつも他の人だった。


* * *


『つながり過ぎないでいい』試し読み

はじめに
非定型に発達しているだけ


* * *


つながり過ぎないでいい

非定型発達の生存戦略

■尹 雄大(ゆん・うんで)/著
■税込 1,760円
■四六判・並製、216ページ
■ISBN:978-4-7505-1726-1 C0095

 

 

【目次】
■はじめに
■1章 それぞれのタイムラインを生きるしかない——定型発達という呪縛
■2章 胚胎期間という冗長な生き延び方
■3章 社会なしに生きられないが、社会だけでは生きるに値しない
■4章 自律と自立を手にするための学習
■5章 絶望を冗長化させる
■あとがき