亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2021.6.3

02安田登『見えないものを探す旅』——敦盛と義経

鵯越

 海の民・平家は、都を追われた後、水の旧都、福原に陣を敷いた。福原は「前は海、後は山」と『平家物語』にも書かれ、また能にも謡われるように天然の要害である。その福原を取り囲むように東の生田口、西の一ノ谷口、山の手の夢野口にも強固な防御陣を平家は築いていた。
 陸の民である源氏だ。海から来るはずがない。後ろの山も断崖だ。いくら源氏でも、ここからは攻めて来ないだろう。平家の武将たちは安心し切っていた。
 その山から源義経が名高い鵯越の逆落(さかお)としをして、襲撃して来た。それで平家は崩れ、先に書いた敦盛たちの海への敗走となったのだ。
 義経にとっても命がけの攻撃だった。一ノ谷の合戦は、最初は平家の優勢が続いた。これをなんとかするには背後を突くしかない。それには急峻(きゅうしゅん)な坂を駆け下りなければならない。義経は一万余騎を二手に分けて、自身は三千余騎で、一ノ谷の後ろの山に登り、眼下に布陣する平家の城郭を見下ろした。
 突然現れた兵に驚いた鹿が三頭、山から下りていった。下にいる平家の陣地では、上の山から鹿が下りて来たので「上に敵がいるのでは」と不審がる。しかし平家はこれを見逃す。ここですでに運は尽きていたのだろう。
 山上にいる義経は「馬を落としてみよ」と言い、鞍(くら)を置いたままの馬を十頭ばかり崖の下に落とす。無事に崖下(がいか)まで下る馬もあれば、足を折って死ぬ馬もある。そんな中に崖の下にある越中前司の館の上で、ぶるぶるっと身震いして立った馬が三頭あった。
 これを見て「乗り手が心得ていれば、この崖も下りることができる。我が下りざまを手本にせよ」と、まず三十騎ばかり、真っ先駆けて落ち行けば、残りの大軍もこれに続く。
 何しろ急峻な崖だ。前の者の鎧や甲(かぶと)に、後ろに続く馬の鐙(あぶみ)がぶつかるほどの勢いで、小石まじりの真砂(まさご)の崖を、流れ落としにざっざっとばかり二町(二百メートル強)ほど一気に駆け下りて、壇のような踊り場に馬を控えた。
 が、これがまずかった。一度止まったおかげで下が見えてしまった。見下ろせば、大磐石(だいばんじゃく)の苔生(こけむ)したるが釣瓶(つるべ)落としに、ずいっと垂直に十四丈(四十メートル強)あまり続いている。ビルの高さでいえば十階。そこから垂直に下を見る。しかも馬に乗っている。これは怖い。
 引くに引かれず、下りるに下りられず、呆然としていると、そこにつかつかと進み出てきたのが、三浦の佐原の十郎義連(よしつら)
「我が故郷、三浦では、このくらいのところは馬場のようなもの。何のことはない」と、真っ先駆けて下って行く。その勢いに大軍もこれに続く。が、慣れない者には恐ろしい。目を閉じて下りて行く者もあったという。
 鬼神のごとき義経軍、全軍が下りた所で、どっと鬨ときの声をあげる。三千余騎の声ではあるが、山彦も応えて十万余騎の声に聞こえたという。