亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2021.6.3

02安田登『見えないものを探す旅』——敦盛と義経

意味ある偶然

 実はこの話、史実ではないという人もいる。あるいは、場所もここではないとも言われている。が、そんなことはどうでもいい。そこにあれば登らないわけにはいかない。
 山に登る。
 ぐるっと周る道に沿って登り、義経鵯越の逆落としの最後のアプローチにかかったあたりに着いた。いまは柵があって、入りにくくなっている。その柵を越えて下を見ると、さすがにちょっと怖い。が、せっかくなのでと駆け下りてみた。ちょっとどころかかなり怖い。
 途中でやめて、もと来た道をまた登り、一ノ谷がすぐ下に見える見晴らしのいい場所に座った。義経のことを思いながらスマホを取り出してツイートをしていた。
「今でこそ蛇行する山道があるが、これがなかった当時は、ほぼ直角の山を三千余騎で下りたのだろうか。しかもおそらくは足音を忍ばせて」と。
 すると、どこからともなく赤トンボが飛んできて、私の右肩に止まった。
 ツイートしている最中だったので、気に留めずにスマホに向かっていると、赤トンボは肩から飛び立ち、今度はスマホの右上に止まった。
 それでも気にせずにツイートを続けていた。シャカシャカと文字を打っているのに赤トンボは逃げようとしない。
 不思議に思って、文字を打つ手をとめて赤トンボを眺めたとき、「あ、赤は平家の色だ!」と気がついた。平家は赤旗である。そこで、「この赤トンボの写真を撮っておこう」と思った途端に、赤トンボは飛んで行ってしまった。
「残念」と思っていると、そこに今度は白い蝶が現れてゆったりと舞う。白といえば、むろん源氏である。
 里人に身を変えて現れる能のシテ(主人公)は、中入りのときに旅の僧であるワキに向かって、「私の亡き跡を弔ってください(我が跡、弔(と)ひてたびたまへ)」という。いま出現した赤トンボと白蝶も、旅人である私に向かい、その跡を弔うことを求めているのかも知れないと思い、能のワキ僧よろしく『観音経』の偈(げ)を読誦(どくじゅ)した。
 このようなことはおそらく誰にでも起きているはずだ。ただ、それに気づくか気づかないかだけだ。
 平家の象徴たる赤トンボが「右肩」に止まり、そしてスマホの「右上」に止まったというのを読み、「あ、平家の烏帽子(えぼし)は右折だ」と気づいた人もいるだろう。が、気づかない人もいるだろう。
 鵯越の山を歩いているときにも、たくさんの人と行き違った。言葉を交わしてみると、仕事をリタイアした人たちで健康のためにウォーキングをしているという人が多かった。時間はたっぷりあるはずなのに、その方たちは速足で歩く。
 義経の話を書いた立札を読むことはする。が、「へぇ」なんて言いながら、敦盛や義経に思いを馳せるためにゆっくりと立ち止まることもなく、すたすた、すたすたと歩いて行く。赤トンボや白蝶にも気づかない。
 赤トンボや白蝶なんて、あの山にはたくさんいる。その出現はむろん偶然だし、驚くべきことではない。
 が、それをどのように感じるかで、偶然は意味を持ち始める。
 ただのトンボや蝶だと思うこともできるし、平家と源氏とみることもできる。むろん後者の方が人生は楽しいし、それこそが能の旅だと私は思う。
 古典を読む人や、謡を知り、能をよく観ている人ならば、私と同じことに気づく素地はすでにある。あとはゆったりと古事に思いを馳せるだけでいい。
 旅はその姿を変えるはずだ。


(敦盛と義経・完)

《安田登『見えないものを探す旅』試し読み》
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能楽師・安田登さんのエッセイ集
『見えないものを探す旅——旅と能と古典』

税込み1650円

【もくじ】
■ はじめに
■ 旅

敦盛と義経
奄美
チベットで聴いた「とうとうたらり」
復讐の隠喩
人待つ男
孤独であることの勇気
ベトナムは美しい
生命の木


■ 夢と鬼神——夏目漱石と三島由紀夫

『夢十夜』
待ちゐたり
太虚の鬼神——『豊饒の海』


■ 神々の非在——古事記と松尾芭蕉

笑う神々——能『絵馬』と『古事記』
謡に似たる旅寝
非在の蛙


■ 能の中の中国

西暦二千年の大掃除 
時を摑む
麻雀に隠れた鶴亀
超自然力「誠」
神話が死んで「同」が生まれる


■ 日常の向こう側

心のあばら屋が見えてくる
レレレのおじさんが消えた日
掃除と大祓
死者は永遠からやってくる


■あとがき