本書はトランプ政権下のアメリカという政治状況を強く意識して書かれていますね。二〇一七年から二〇二一年の第一次トランプ政権期に執筆され、初版は二〇一九年です。著者のパンディアン自身の立場と、この時代状況はどう結びついているのでしょうか。
——トランプ政権発足以降、物事を極端に単純化し、「味方」と「敵」を分けるような言説が広がりました。そうした状況の中で、パンディアンは自分自身が抱える矛盾を、痛切に自覚せざるを得なかったのだと思います。
彼は一方で、インド系アメリカ人として排外主義に敏感であり、人類学者として、マイノリティや先住民の側に立つべきだという倫理的要請を感じています。しかし他方で、彼はジョンズ・ホプキンズ大学の教授というエリート的な位置にいる。その制度で彼は、ときに不安定な労働条件の若手研究者を再生産してしまう構造にも加担している。つまり、搾取する側にも立っているわけです。
彼はこの「引き裂かれた」状況を、「根源的に不可能な生」を生きている、と表現しています。重要なのは、この矛盾の自覚が、彼の言う「批評」の出発点になっていることです。制度の「外部」から「正しい立場」で断罪するのではなく、自分が制度の「内部」にいることを引き受けたまま、その矛盾を見える形にして考え続けている。パンディアンが目指すのは、そういう批評だと思います。
「批評(critique)」という言葉は本書の、特に終章の重要なキーワードです。パンディアンがカントやフーコーの議論を引き受けている以上、もちろんそれは「批判」でもあるのですが、人類学で批判という言葉は、人類学の営為それ自体に対する「自己批判」の文脈で使われることが多く、パンディアンが「人類学批評」を切り拓こうとしていることを積極的に評価して本書では主に「批評」という語を採用しました。
「根源的に不可能な生」という問題意識は、体験を重視する態度と関連して、人類学が採用してきた調査手法としてのフィールドワークの再定義にも直結していますね。
——はい。本書の核心の一つは、フィールドワークを単なる「データ収集の方法」ではなく、エスノグラフィーや思考が生まれてくる「生成の場」として捉え直す点にあります。
第1章では、マリノフスキとゾラ・ニール・ハーストンという対照的な人物が並べて論じられます。マリノフスキは、現代人類学の創始者として科学的客観性の理想を背負い、ハーストンは文学的表現の力を前面に出した。いかにも対立して見える二人を並置することで、エスノグラフィーが「科学」と「文学」のどちらかに割り切れないことが示されます。客観性を求めれば求めるほど、言葉の選び方や書き方の問題が浮かび上がる。逆に、文学的であろうとすれば、世界をどう確かめるのかが問われる。両者は切り離せないのです。
第2章ではその問いをさらに深めるため、パンディアンは四人の人類学者を訪ね、彼らを一種のフィールドワークの対象にします。狙いは、「体験がどのようにエスノグラフィーになるのか」「体験がどのように人類学的な知を生み出すのか」という点にあります。その生成の過程を、書斎の痕跡から執筆の現場、教育実践、フィールドでの身体的な没入まで、さまざまな形で追うわけです。
人類学者が人類学者を対象にフィールドワークする。具体的にはどのようなことが語られるのでしょうか。最初は、すでに亡くなっているレヴィ= ストロースですね。
——レヴィ= ストロースのパートでは、「読む」という行為の創造性が扱われています。レヴィ= ストロースは自分を「図書室の人」と呼びましたが、その読書は単なる文献調査ではありませんでした。神話の世界に没入し、そこから思考を立ち上げる体験だった。書斎の床板の擦り切れ具合が、その読書が身体的で空間的な営みだったことを物語っています。テキストを読むことは、そこに込められた「音楽」を聴くことにも等しいのです。テキストとの出会いが研究者を変えていく、というわけです。
二人目は現象学的人類学者マイケル・ジャクソンですね。書く最中に「思考がやってくる」という話が印象的です。
——ジャクソンのパートでは、「書くこと」が単なる記録ではないことが強調されます。あらかじめ完成した思考を書き写すのではなく、書くという行為の中で思考が立ち上がる。ジャクソンは、自然に湧き上がる受動的な「思考させられること」と、意識的に議論を組み立てる能動的な「思考すること」を区別します。執筆とはこの二つが揺れ動きながら、既存の素材から形を取り出していく作業なのです。
三人目はジェーン・ガイヤーです。教育の場が重要な舞台になっていますね。パンディアンが授業中に失神し、学部長だったガイヤーに救急搬送された逸話も出てきます。
——ガイヤーのパートで示されるのは、人類学の知は決して調査地だけで生まれるのではなく、教室でも生成される、という点です。彼女の授業は、シラバスを固定された計画ではなく、学生とともに作り変える出発点として扱う。そのため、予定通りに進まないこともある。でもそこにこそ、思考が生まれる余地がある。
パンディアンが教室で失神するエピソードが紹介されていますが、それも、単なる余談ではありません。想定外の出来事、つまり「驚き」が、思考の突破口になることがあるということです。ガイヤーは、そうした驚きが起こりうる環境を育てることで、批判的探求を実践している、と読むことができます。
四人目はナターシャ・マイヤーズです。植物学から人類学へ転じた人物ですね。
——マイヤーズのパートは、「観察者が揺さぶられること」を肯定する点に特徴があります。彼女は植物を受動的な対象ではなく、能動的な存在として扱う。観察者自身の変化も「データ」だと考える。そしてその関係の深まりを「巻き込み」という概念を用いて説明しています。対象との客観的距離を保つのではなく、研究対象との親密さの中から知を生み出す、別の科学の可能性が示されています。
四つの実践は、「体験」が研究のデータであるだけでなく、知を生み、自己を変える方法でもあることを示していますね。

