亜紀書房の本 試し読み あき地編集部

2026.2.27

59アナンド・パンディアン『人類学は何ができるのか』(奥野克巳・花渕馨也訳)——解説

 


 気鋭の人類学者アナンド・パンディアン 初の邦訳書『人類学は何ができるのか——不安な時代を生きるための方法』が、2月20日に刊行されました。
 現代に生きる私たちに、人類学はどのような「生の可能性」を見せるのか。
 トランプ政権下のアメリカで執筆された本書は、分断と不安の時代において、外部や他者とどう向き合うべきかという倫理的な問いに貫かれています。
 アートやビジネスの領域とも接続しながら関心を広げている人類学。その最前線に位置する本書の意義と読みどころを解説する、奥野克巳氏 による「解説」を公開します。


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『人類学は何ができるのか』解説に代えて
——共訳者・奥野克巳に訊く


 本書は、Anand Pandian, A Possible Anthropology: Methods for Uneasy Times(Duke University Press, 2019)の全訳である。

 著者アナンド・パンディアンは、現在ジョンズ・ホプキンズ大学の人類学教授であり、主な著作に Crooked Stalks: Cultivating Virtue in South India(Duke University Press, 2009)Reel World: An Anthropology of Creation(Duke University Press, 2015)がある。第一次トランプ政権成立以降、パンディアンはその政策に強い危機感を抱き、全米を旅しながら、社会的・政治的立場を異にする人々と出会い、アメリカにおける〈生〉のあり方を考察してきた。その成果として、Something Between Us: The Everyday Walls of American Life, and How to Take Them Down(Stanford University Press, 2025)が刊行されている。

 パンディアンは、日本ではまだ必ずしも広く知られた人類学者とは言いがたい。しかし本書は、現代人類学が直面している「倫理の難しさ」を正面から引き受けた、いわば「人類学批評」と呼ぶべき意欲的な著作である。

 本書の解説として、訳者による一般的な要約や用語解説を付すという選択肢も考えられた。しかし本書が主題としているのは、人類学の方法や成果そのものというよりも、「人類学とは、どのように考え続ける営みなのか」という根源的な問いである。そしてその問いを探究するために、パンディアンは、人類学者自身やその周辺領域の人々をフィールドワークの対象とするという、方法論的にも挑戦的な試みを行っている。

 そこで本書では、定型的な解説に代えて、共訳者の一人である奥野克巳に対し、編集者が問いを投げかけるインタビュー形式を採用することにした。対話を通して、本書の背景や問題意識、さらには読みどころを立体的に浮かび上がらせることを意図している。

 以下では、翻訳に携わった立場から、なぜ本書が重要なのか、そしてどこに本書の核心的な魅力があるのかを整理したい。



翻訳書が世に出るまでには、原著との出会いだけでなく、「なぜ今それを出すのか」という必然性があるのだと思います。パンディアンの著作は日本ではまだ十分に紹介されていませんが、なぜ今、本書を翻訳する必要があったのでしょうか。まず、翻訳に至った経緯から聞かせてください。


——直接のきっかけは、COVID-19のパンデミックで海外での実地フィールドワークが難しくなった時期に企画したインタビュー集『モア・ザン・ヒューマン』です。日本の若手研究者が海外や国内の専門家にインタビューする企画で、本書の著者パンディアンには山田祥子さんが話を聞きました(奥野克巳・近藤祉秋・ナターシャ・ファイン共編『モア・ザン・ヒューマン マルチスピーシーズ人類学と環境人文学』二〇二一年、以文社を参照)

 その応答が、とても強く印象に残りました。パンディアンの話し方は、言っていることが隅々にまで冴え渡る、いわゆる「うまい説明」ではありません。むしろ、問いを単純化しない。人類学とは何かを真正面から考え続けている人の言葉で、知的で、しかも「しなやか」でした。そのインタビューでも、本書について言及されています。さまざまな困難を抱える現代において、「何かに問題があるということは、同時に他のやり方で物事を行うことが可能である」と想像することが大事だという、本書の基底にある考えが述べられています。

 彼の仕事を追ってみると、活動の幅がとても広いことが分かりました。インド系アメリカ移民としての自身のルーツを辿り、祖父のライフヒストリーに取り組む一方、「人新世」のような現代的テーマに対して、学術書だけに閉じない形で、ウェブ上のプロジェクトとして多様な人々を巻き込みながら応答している。研究と社会のあいだを往復する実践が、彼のスタイルになっていました。

 私自身、ティム・インゴルドの翻訳をこれまでいくつか手がけ、インゴルドの人類学に親しんできたので、当初は「アメリカのインゴルド」と言いたくなる印象もありました。ただ、読み込むほどに、そうした単純な位置づけでは足りないと気づきます。本書はとりわけ、トランピズムに移行することでますます生きづらさを感じるようになった現代のアメリカで、アメリカ発の人類学が持つ独自の可能性を、強い熱量で示している。その点で、同時代を生きる日本の読者に届ける意味があると考えました。


本書を読むと、ルポルタージュのように読みやすい記述と、急に抽象度が上がる議論が同居しています。この文体の揺れは、読者によっては戸惑いを生むかもしれませんね。


——おっしゃる通り、ある意味で「変な本」です。ただし、奇をてらって読者を煙に巻くようなものではありません。文体が揺れるのは、パンディアンが抱えている問題意識が切実だからだと思います。

 第一に、本書は「具体的な体験」と「それを考え直すこと」のあいだを絶えず往復します。現場の描写が続いたと思ったら、そこから急に哲学的な思索に跳び、また現場に戻る。この往復運動こそが、彼の方法です。体験をただ記録するのではなく、体験が人類学者の考え方をどう変えるのか、その変化も含めて書こうとしている。

 体験は experience の訳語です。パンディアンはその語を一般的な意味ではなく、何かが生成していく現場に巻き込まれる経験という、より深い意味で用いています。たんなる「行為の記述」ではない「体験の記述」をパンディアンは、エスノグラフィーの基礎に据えているのです。

 第二に、本書には、少なくとも二つの思想的な流れが重なり合っています。ひとつは、ヨーロッパで培われた哲学に対して現れた、新大陸のプラグマティズムの影響です。考えることを、机上の理論ではなく、体験や実践と結びついた営みとして捉える立場です。もう一つは、本人が意識しているかは分かりませんが、彼がインドにルーツを持つことから来ると思われる東洋哲学、とりわけ仏教の「華厳思想」に近い感覚です。

 華厳思想の中核にあるのは、「一即多、多即一」という考えです。部分の中に全体が宿り、全体が部分を通して現れる。本書でも、個々の出来事が単なる一事例ではなく、全体性につながっている。そういう思想があるから、具体と抽象のあいだを激しく行き来する文体が成立するのだと思います。


なるほど。その「一即多、多即一」的なものはどのあたりですか?


——第1章で「インドラ網」を用いて個別的なフィールド体験と世界の全体性を考察しているところがあります。また、第3章で、ビーチに流れ着いたプラスチック片をこれまでに三トン以上集めた二人のアーティストが、それらを、自宅の床下の納屋で、ラベルの付いたダンボール箱に入れていたという話が出てきます。パンディアンはその分量とバリエーションに圧倒されます。でも、おもちゃの宇宙飛行士や銃、ロボット、汚れた歯ブラシの山、中国語が印字された蓋、プラスチック鍋の破片のような割れた容器の山、芝生用のスプレーバルブなどごとに分類されて、まとめられていることによって、それらの一貫性を感じたと言います。

 この体験は、無数で雑多なプラスチック漂着物の断片が、分類と関係づけを通じて相互に映し合い、個々の「一」が全体の「多」を宿し、同時に全体がそれぞれの部分において立ち現れるという「一即多、多即一」の感覚を、具体的な物質の集積として示していると読むことができます。